家族と母性に根ざした少子化対策への転換を
家族と母性に根ざした少子化対策への転換を
働く女性にのみ力点をおいた「少子化社会対策大綱」では少子化は解決しない
◆少子化は国の存亡に関わる
日本の女性一人が生涯に産む平均の子供の数(合計特殊出生率)が昨年ついに過去最低の一・二九となった。わが国の出生率は昭和四十年代にはほぼ二・一程度で安定していたが、昭和五十年に二・〇を下回ってからは低下を続けてきた。平成二年には前年の出生率が一・五七に急落、「一・五七ショック」という言葉が世に飛び交った。それを契機に、政府は少子化対策に乗り出したが、その後も出生率は年々低下を続け、全く回復への兆しは見えてこない。
このような極端な少子化が社会に及ぼす影響の深刻さは改めて指摘するまでもない。マスコミは、年金や介護などの社会保障制度への影響ばかりを強調しているが、むろん少子化の影響はそれに止まるものではない。若年労働力が減り、消費が縮小することによって日本の経済力は確実に低下する。職場や地域に若者が少なくなれば社会全体の活力も衰弱する。子供同士の交流や競争の機会も少なくなり、そう遠からずして、社会性の欠けたひ弱な日本人ばかりとなる恐れもある。
また、あまり指摘されていないのが少子化が日本の安全と治安に及ぼす影響だ。自衛隊、警察、消防といった若い力が必要な任務に就く優秀な若者が減っていけば、確実にわが国の安全と治安は内部崩壊する。
むろん、少子化は文字通り民族の存亡にも関わる問題でもある。一国の人口を維持するには最低二・〇八の出生率が必要とされる。国立社会保障・人口問題研究所の予測(中位推計)では、あと百年足らずで日本の人口は半減すると言う。今後も出生率の低下が続けば人口半減までに百年もかからない。
こうした事態に対して、政府は十年前から少子化対策に着手した。しかし、そうした対策を嘲笑うかのように出生率の低下は続いてきた。そこで政府は昨年、「少子化の進展に歯止めをかける」ことを謳った少子化社会対策基本法を制定、また今年六月四日には、同基本法を受けて「少子化社会対策大綱」(以下「大綱」)を閣議決定した。
「大綱」は、出生率を今後五年程度で上昇に転換させ、「少子化の流れを変える」ことを謳っている。これが文字通り実現できればよいが、そうでなければ、われわれの子孫の将来展望は極めて暗い。その意味で、「大綱」には国の命運がかかっていると言っても決して大袈裟ではない。
では、果たして「大綱」の方針と施策によって、本当に出生率を上昇に転じ、日本の将来を安泰たらしめることができるのか――。
以下、「大綱」の中身を点検するとともに、あるべき少子化対策の方向性について考えたい。
◆総括されない「失われた十年」
まず「大綱」は「策定の目的」において、少子化の背景と深刻な影響について記し、「こうした現実に対する危機感が社会で十分に共有されてきたとはいえない」と指摘する。だが、「危機感」が欠けているのは「大綱」の中身ではないか――というのが率直な感想だと言える。
なぜなら、「大綱」には「家庭の大切さ」を打ち出すなどの目新しい視点もないではないが、その基本的枠組みは従来の少子化対策の「焼き直し」と言うべき代物だからである。出生率に歯止めをかけられなかった過去十年の対策を根本から総括し、新たな対策を練り上げようとしたとは到底思えない。
周知のように十年前、政府は「今後の子育て支援の為の施策の基本方向について」(エンゼルプラン)を策定し、本格的な少子化対策に着手した。その際、基本的方向の冒頭に掲げられたのが、今ではお馴染みの「子育てと仕事の両立支援の推進」という言葉である。そして、その「重点施策」としては、「育児休業取得のための環境整備」「労働時間の短縮等の推進」「低年齢児保育や延長保育など多様な保育サービスの充実」「小学生等の放課後対策の充実」などが並べられた。
つまり、エンゼルプランは少子化の主な背景要因を「女性の社会進出と子育てと仕事の両立の難しさ」に求め、その解決を「子育て支援社会の構築」=「子育ての社会化」によって実現しようとしたのである。ここにうかがえるのは、「働く女性」の育児負担を社会が肩代わりすれば、出産・育児は「喜び」に変じ、出生率も上昇する――という、何とも皮相で安直な発想だったと言える。
それから十年、今日の日本社会ではゼロ歳児保育や延長保育などが普及するなど「子育ての社会化」は格段に進展した。だが、出生率は上昇するどころか、逆に低下し続けている。つまり、「働く女性」に軸足を置いた「子育ての社会化」路線は、少子化対策としては無効だったと言うべきなのである。ならば当然、従来の少子化対策を徹底的に総括し、それを踏まえた抜本的な政策転換を図るのが筋であろう。
ところが、である。呆れたことに「大綱」は、この効果がなかった「働く女性」に軸足を置いた「子育ての社会化」路線を、今後もいわば盲目的に推し進め、以て出生率の上昇を図ろうと言うのである。
なるほど、「大綱」は「少子化の流れを変えるための4つの重点課題」として、「若者の自立とたくましい子どもの育ち」「仕事と家庭の両立支援と働き方の見直し」「生命の大切さ、家庭の役割等についての理解」「子育ての新たな支え合いと連帯」を掲げている。項目だけを見れば、一見多彩な目配りがなされているようにも思われる。だが、各項目毎の施策を見てみると、対策の主眼が依然「働く女性」に置かれ、「子育ての社会化」に手厚い支援が施されていることは一目瞭然だ。
例えば「仕事と家庭の両立支援と働き方の見直し」では、育児休業制度の取組推進、男性の子育て参加促進、妊娠・出産しても働き続けられる職場環境の整備といった施策が並んでいる。 また、「子育ての新たな支援と連帯」では、待機児童解消のための保育所整備、小・中学生の放課後対策、地域子育て支援拠点等の整備、子育て民間団体への支援など「子育ての社会化」に関わる政策メニューがずらりと並んでいる。
もちろん片親家庭の場合、あるいは経済上や健康上の理由などから、社会の手を借りながら子育てをせざるを得ないケースもある。そのための福祉政策として、こうした施策の必要性を否定するつもりはない。問題は、こうした施策が「少子化対策」の主軸に据えられ続けていることである。これでは、少子化対策の「失われた十年」の教訓が何も生かされていないと言わざるを得まい。
◆少子化世代のニーズとのミスマッチ
また、このような「働く母親」に軸足を置いた少子化対策は、実は最近の若い女性たちのニーズに必ずしも合致していない。日本では確かに「女性の社会進出」が叫ばれてはいるが、その割には専業主婦志向も一向に衰えてはいないからである。若い女性で男性と同じように働きたいと思っている人はむしろ「少数派」であるとの指摘もある。
この点で、池本美香・日本総合研究所主任研究員による「少子化世代」の意識分析は傾聴に値する。池本氏は言う。「彼らは女性が働く権利を主張し、保育所の整備を求める立場とは微妙なずれがある」「少子化世代は、経済成長、個人の自立・自己責任という価値観自体に、これまでの世代のように共感を寄せていないのではないか。そういう彼らに対して、働く女性の子育て支援というメッセージを発しても、それはある意味虚しく響いてしまうかもしれない」と(『失われる子育ての時間』)。
換言すれば、今の若い親たちの少なからざる層が、「子供はできれば自分の手で育てたい」と願っているとも言えるのだ。しかし、現実の少子化対策は、そうした親のニーズをすくい取ったものとはなっていない。実はそのことは「大綱」も「在宅での育児に対する支援は限られている」と認めているのだが、これに関して内実ある支援策は見られない。
いったい何故、わが国の少子化対策は、こうした親の切実なニーズに応えようとしないのか。そんな政府の少子化対策の実態について、池本氏は、「経済成長を維持することが最終的な隠れた目的となっていて、そこに働く権利を求める女性たちをうまく取り込むようなかたちで、働く女性の子育て支援を強力に推し進めようとしている」と指弾する。つまり少子化対策とは名ばかりで、そこには安価な女性労働力を欲する経済界と、専業主婦や家族の解体を意図するフェミニストの隠れた目的があるということになろう。
事実、「大綱」には、「男女がともに子どもを生み、育てやすい環境を整備する」など、ジェンダーフリーと思しき発想さえうかがえる。親の切実なニーズを本気ですくい取ろうとしないばかりか、こんな危険なイデオロギーが顔をのぞかせる。これでは、「大綱」は出生率の向上を本気で目指していないのではないかと疑われても仕方があるまい。
◆無視される子供の「最善の利益」
さらに「大綱」は、「策定の目的」で「子どもが健康に育つ社会」への転換を謳うとともに、子育て支援のあり方について、「子どものための最善の利益を基本とする」と述べている。しかし、「子育ての社会化」という「大綱」が掲げる方向性は、子供たちの「最善の利益」に合致しているとは言い難い。
少し具体的に見てみよう。「大綱」は「待機児童ゼロ作戦」(要するに保育所整備)として、「待機児童の多い地域における定員基準の弾力化」「園庭を付近の広場・公園で代用可とする扱い等の設置基準の弾力化」などの「規制緩和措置」を掲げている。これは「保育事業に多様な主体が参入しやすくなるような条件整備」と謳われているが、要は設置基準を下げて認可保育所を増加しようという話である。預けられる園児たちにとっては保育環境の確実な悪化を意味している。これが、就学前の児童の教育・保育を「充実する」という施策の中身であるというから開いた口が塞がらない。
すでに「待機児童ゼロ作戦」の号令の下、正規の保育士ではないパート職員によるローテーション勤務が可能となり、保育現場からは、園児と保育者との関係が不安定になったとか、保護者との連携が図りにくくなった等の悲鳴が上がっている(三月五日付朝日新聞)。保育現場の安易な規制緩和の推進は「子どもが健康に育つ社会」への転換とは逆行する恐れがある。
また「大綱」は「公立保育所における延長保育の民営保育所並みの実施」を謳っているが、これについても同様の懸念を禁じ得ない。日本小児保健学会の国際大会では、「長時間保育」が子供に及ぼす悪影響が米英やイスラエルの学者によって明らかにされたとの指摘もある(高橋史朗明星大教授・一月四日付産経新聞)。
次に、「大綱」は小中学生の「放課後対策の充実」を掲げている。子供の世話は社会が見るから、安心して働きなさいというわけだが、これまた子供の「最善の利益」を考慮したものとは言い難い。「いつも同じ家に帰ると同じ人がいて同じように迎えてくれる、それが子供の心の安定につながります」(深谷和子東京成徳大教授)との指摘に違わず、多くの子供たちは学校から帰れば母親が迎えてくれることを望んでいるからだ。都内の小学校高学年を対象とした調査では、四十%余の子供が「家で家族の世話をするお母さん(専業主婦)」を望み、「外で働くお母さん」を望んだ子供は二十三%にとどまったことが確認されている。
さらに、「大綱」は育児休業制度の取組を、男性の取得率十%、女性の取得率八十%を目標に推進すると言う。父親に育児休業をとらせ、保育をさせようというわけだ。しかし、これについては、「乳幼児の世話を父親が主としてやれば、当然母乳育児は不可能になる」「育児休業は母親が取ってこそ子供のためになる」(林道義氏)との的を射た批判がある。父親の育児休業奨励策が、果たして子供たちの「最善の利益」に合致するのか甚だ疑問である。
このように、「大綱」の施策を徹底すればするほどに、日本の社会は「大綱」が掲げる「子どもが健康に育つ社会」から遠ざかってしまうのではないかと危惧されてならない。
◆「母性」と「家族」という視点の欠如
「大綱」の問題点をこのように点検してくると、ハタと本質的欠陥が見えてくる。端的に言えば、「子供を産む」という営みの要である「母性」と「家族」を尊重、擁護しようとする視点が極めて脆弱だと言うことである。換言すれば、「新たな生命を育む」行為への最大限の敬意が払われていないということなのだ。出生率向上を目指そうとする政策としてはこれは実に致命的である。
そもそも「母性」という視点なしに、出生率低下の真因が理解できるのか疑問である。出生率低下の直接的な原因とされる晩婚・非婚化傾向を含め、戦後の日本の女性たちが次第に子を産まなくなった背景の根本には、「母性崩壊」とも言うべき深刻な事態があるとの専門家の指摘もある。
しかし「大綱」は、出生率低下の背景として、「育児の孤立や負担感の大きさ」「家庭生活との両立が困難な職場の在り方」「結婚や家族に関する意識の変化」といった要因を挙げるばかりで、そうした本質的な問題を認識しているようには思えない。この点、「大綱」は少子化の背景分析から洗い直しを図る必要があるように思われてならない。
さらに言えば、少子化対策や男女共同参画など「子育てと仕事の両立」が理想であるかのように言い立ててきた政府の政策は、母性や家族の絆を弱め、出生率の低下を助長してきたと言うべきなのかもしれないのだ。
というのも、母性(本能)というものはそもそも脆弱で壊れやすく、母性が健全に開花するためには、家事や育児が尊ばれる社会的土壌が不可欠だからである。林氏によれば、社会に出て働くことの方が家事や育児よりも価値があるとする考え(働けイデオロギー)は母性にとって極めて有害であると言う。この点で、「仕事と子育ての両立」を理想の如く掲げてきた従来の少子化対策が、家事や育児を見下すような社会的風潮を助長してこなかったと果たして言い切れるだろうか。
一方、「子供を産む」という営みのもう一つの要は家族(家庭)である。基本的に人間は家族があって初めて一人前に育つことができる存在だと言える。乳幼児期の母親との愛着形成など、子育てには決して「社会化」できない部分もある。しかし、「大綱」には「家庭の大切さ」という視点は一応あるものの、「家族の絆」を強化するための施策はない。「大綱」が前面に掲げる「育児の社会化」の更なる推進によって、逆に家族の絆はますます解体しかねない。
このように見てくれば、今わが国がなすべきは、正しい母性理解と家族の絆に根ざした少子化対策への転換だと言えよう。その転換のコンセプトを一言で言えば、乳幼児をもつ母親が、精神的にも経済的にも安心して育児に専念できる社会をめざすということである。
◆家庭育児支援という選択肢
そこで、こうした少子化対策の転換を図る一つの具体策として提案したいのが、ノルウェーやフィンランドなどが行っている家庭育児支援制度である。
両国については、日本では男女平等の優等生国であるとか、「女性の社会進出」が進んでいるという面ばかりが紹介されてきた。だが、両国が先進国中では比較的高い出生率(一・八程度)を維持している背景に、在宅育児手当などの手厚い家族政策があることは余り知られていないのではなかろうか。
まず、ノルウェーの在宅育児手当制度から見てみよう。それについて前出の池本氏は、前掲書の中で、「一歳児と二歳児を対象に、フルタイムで子どもを保育所に預けた場合に保育所に対して支給される国の補助金分を、保育所を使わずに家庭で親が育てた場合には、親に対して現金で給付するという制度である」と解説している。
手当ての最高額は日本円で月額約四万二千円。育児休業給付と在宅育児手当によって、「三歳になるまで親が家で子どもの面倒を見るという選択肢を政策的に支援している」のだと言う。
池本氏はこの家族政策の理念について、「働いて子どもを預けることと、家庭で子どもの面倒をみることの間での選択において、政策が中立的であるべきだとの考え方である」と述べ、その目的をこう指摘する。「本当の意味で各家庭の選択を尊重すること、そしてどのような保育形態を選ぶかにかかわらず各家庭が受ける給付について公平性を保つことが、制度導入の目的となっている」と。
いずれにせよ、今の日本では「三歳児神話」などと批判される「三歳までは母の手で」という日本の伝統的子育て文化が、男女平等の「先進国」ノルウェーでは国家によって保障されているわけだ(中には父親が育児に専念する場合もある)。
一方、フィンランドの在宅育児支援制度について、池本氏は次のように説明している。
「フィンランドでは、生後一一ヶ月まで出産前給与の約六六%の育児休業給付が健康保険制度から支給され、仕事に就いていない場合も最低額として一日一〇・〇九EUR(約一二〇〇円)が保証されている(二〇〇一年)。さらに、その後無給の育児休業を子どもが三歳になるまで取ることができ、その間在宅育児手当を受けられる。三歳まで子どもと過ごしてその後復職するという選択を、政策として支援していることになる」
在宅育児手当の額は、基礎手当が月額約三万円、所得に応じた付加手当は最高で月額約二万円。また兄弟加算やさらに自治体によっては独自に加算を行っているところがあるという(二〇〇一年)。
ちなみに、三歳未満の子供の状況を見ると、「在宅育児手当を受けて親が家で面倒をみているケースが四一%と最も多く、次いで育児休業給付を受けている親が家で面倒を見ているケースが二九%、自治体の保育サービスの利用は、保育所と家庭保育(保育者が自宅で数人の子どもを預かる)をあわせて二四%となっている(一九九七年)」と言う。
このように、フィンランドでも「三歳までは母の手で」という子育てが制度的に保障され、またそれが大半の親によって支持されているのである。
先に見たように、日本では保育所に預けてフルタイムで働くという選択肢ばかりが手厚く支援されている。例えば、東京の公立保育園の場合、ゼロ歳児では一カ月に五十五、六万円かかるが、その大半は国と地方自治体の負担である。一方、「自分の手で子どもを育てたい」という親は少なくないにもかかわらず、そうした選択への支援はほとんどない。
最近の日本の若い夫婦の間で、希望する数の子供を持たない傾向が顕著になりつつあると言われているが、その背景には、こうした事情も無視できない。つまり、家庭育児支援制度という選択肢の導入は、政策の「公平性」を図るという点、そして出生率上昇への確実な対策となるという点で、一石二鳥の政策と言えるのだ。
当然、この在宅育児手当については、フェミニストから「時代に逆行する」との批判がありそうだ。しかし池本氏は、「親子関係の土台を築く時間を保障しようという動きは、むしろ時代の先を行く制度と見るべきではないだろうか」と指摘し、こう訴えている。「日本においては、保育所の整備に力を入れるスウェーデンやデンマークの政策がこれまで注目されてきたように思うが、保育所利用率は低いが出生率の高いノルウェーやフィンランドの政策にも注目すべきである」と。
いずれにせよ、少子化対策の「失われた十年」を真摯に総括する時、こうした家族と母性に根ざした家族政策への転換は今や「時代の要請」と言うべきなのではなかろうか。
◆自民党少子化問題調査会の方向性
最後に、こうした政策転換の実現可能性について少し触れておこう。
まず指摘したいのは、家庭育児支援制度という考え方は、ある意味で、「大綱」に盛り込まれている認識とも合致するということだ。どういうことかと言えば、先にも少し触れたように、「大綱」にはまがりなりにも「家庭尊重」とも言うべき視点が入っている。すなわち、「3つの視点」の三番目に、「家庭を築くことの大切さの理解を深めていく」ことを挙げ、次のような認識を打ち出しているからだ。
「人々が自由や気楽さを望むあまり、家庭を築くことや生命を継承していくことの大切さへの意識が失われつつあるとの指摘もある。学校教育や地域社会など様々な社会とのかかわりの中で子育ての楽しさを実感し、自らの生命を次代に伝えはぐくんでいくことや、家庭を築くことの大切さの理解を深めることが求められている」
つまり「大綱」は、「家庭を築くこと」、「生命を継承していくこと」を、間接的な形ではあるが、「大切」なこととして積極的に打ち出しているのである。この点に限っては「大綱」は評価されてよい。
ただし、そのための具体策は余りにも貧弱だ。要するに、中高校生に乳幼児とふれあう機会を与えて出産・育児の喜びや意義、命の継承の大切さ、家庭の役割等を肌身で教えようというだけの話なのである。
その一方で「大綱」は、「在宅での育児に対する支援は限られている」との現状認識を示すと同時に、社会保障費の配分の見直しをも求めている。つまり、社会保障費の七割近くが高齢者に充てられ、子育てには三%程度しか回っていない現状のアンバランスを見直そうというのだ。これらの「大綱」の認識を総合して考えるならば、家庭育児支援制度の導入は、極めて合理性のある課題と言えるのではなかろうか。
次に指摘したいのは、家庭育児支援制度の導入は、自民党少子化問題調査会(森喜朗会長)での議論の方向性とも本質的に合致するということだ。実は同調査会は「大綱」が策定される直前、同調査会の考え方を「大綱」に反映させるべく「中間とりまとめ」を作成している。「大綱」の「家庭尊重」の視点には同調査会の影響があるとも報じられており、同調査会の議論は今後の少子化対策にも影響を及ぼし続けるものと思われる。
そこでの議論の一つの結論は、「子どもを産むのが自然、当たり前と大多数の人が考える社会を創ることが基本」という方針だ。これは換言すれば、家族の絆や母性が尊重される社会への転換を意味しているとも言えるのではなかろうか。
また、同調査会は、「出生率の低下は、経済成長優先、個人主義的豊かさの追求という戦後の社会風潮の進展と軌を一にしている」と、「大綱」よりも一歩踏み込んだ背景分析に立って、「経済優先、個人優先の価値観に替わる新しい価値観の醸成に努める」とも謳っている。
もちろん、従来の「子育ての社会化」に偏した少子化対策は、戦後の経済優先・個人優先の価値観を後押しするものでしかない。逆に、家族と母性に根ざす家庭育児支援制度の導入は、「経済優先、個人優先の価値観に替わる新しい価値観」を醸成していくための重大な契機となるだろう。
以上のように見るならば、家庭育児支援制度の導入は、今後の国民世論次第では、十分現実的な政策課題となり得る余地があると言えるのではなかろうか。(日本政策研究センター研究員 小坂実)
※本稿では池本美香氏の著書を参考としているが、その国家観などは記者とは違うことを付言しておきたい。