白井繁行さんと僕(渡辺智久)

テーマ:

中学から不登校だった。当時女子校の済美高校に男子一期生として推薦で入り、大学受験では偏差値が低いところは落ちたのに、試験が英語と小論文だけだった法政の国際に入って、学歴が高くなった。全く不適応だったが、学歴はステイタスになってその後人から認められやすくなった。

 

仲良くしていた白井繁行さんは急にネット上からいなくなった。知ったばかりの人がこの短い間にいなくなることに衝撃を受け精神が崩壊した。加えて白井さんは自分より二歳上。白井さんという個人の実際を全く知らない。しかし白井さんの存在は僕の感じ方を変えた。

もちろん医学部落ちという意味で、白井さんのほうが圧倒的に優秀なのだけれど、何か自分と白井さんが同じような感じがしたので揺り動かされたのだろう。

 

それまで僕にとって、今後もしばらく生きていかなければならないというのは重いことだった。正社員になるようなメンタルも動機もなく、不安定で、なにがしかの自営業ができればと思いつつ、何年経っても自営業の確立はできなかった。ニートとして、事故や病気がなければ、この先10年ぐらいは普通に生きられるだろう。だが年も30をこえ、今の生活はだんだんとではあるが、目減りしていくもののように思えてきた。

自由で、時間がある生活をしている。だがその時間を持て余していた。だが持て余していたといっても、その時間を「将来のために」何か資格でもとって確実にしていくというようなことに割く動機は全然生まれなかった。さして面白いとも思ってないのに大生で時間を潰すようなだらだらした時間を過ごしていた。

 

ところが白井さんの消滅後、ふと気づくと時間を持て余して辛いと思うようなことはなくなっていた。時間があるのにそれを「有意義」に使えないのに苦しむというような状態が薄れていた。一方、だらだらと時間を潰す大生やネットが本当につまらないという感覚が高まった。惰性で興味をもったふりをしていたことに対して、エネルギーを割くことができなくなった。自分を充す次の何かに移行できているわけではないが、こういうふうにつまらなさがいっぱいになるということは、いい高まりだと思う。今まで踏み出さなかったことに少し踏み出すようなことが多くなった。

 

自分の不登校時におこったことを思い出していた。強烈なさいなみがあって、自分がそれまで拠っていた自分が破綻したとき、今後経済的に豊かになるとか、結婚して家庭をつくるとか、そういうものはもう自分を動かす動機にはならなくなっていた。それを得るために今の苦しみを我慢するとか、何の割りにもあわなかった。そんな虚しい「人参」ではもう動けなくなっていた。

廃人のようにやる気がなくなって、(死ねもしないのに)無理して生きるなら死んだほうがいいというのが自分のリアリティになった。別にそんなリアリティを持つことがいいとは思っていないが、どうにもならなかった。今のところ何をやってもそのリアリティなのだ。わけわからないことに踏ん張るのがもう嫌だし、やろうとしてもできなかった。虚しくてできない。

何か強烈な自己破綻の体験をした人は、実際に体やリアリティが変わってしまって、もうそのようにしか体を動かせないし、自分を動機づけることができなくなるのではと思う。僕は人にぶつかるということについては極度に恐れがあった。それを避けて行き詰まりをつくるという生き方だった。

 

一方、能力もあり、人にぶつかることも恐れない白井さんは、自分自身のリアリティを表現するために、強烈にぶつかれるものにぶつかっていくことに動機づけられていたように見えた。女、冷凍食品、ファミレス、学歴。それは自分に巣食うさいなみを強烈さをもって打ち消すことであり、その表現をもって世界と関わっていくことであるのかと思った。

問題を解決し、長く生きるのがいいと前提している人にとっては、白井さんの強烈な生き方は本当に自分に向き合ったものではなく、強烈な実感を得ることで向き合いを避けたと捉えられるかもしれないと思う。

AD