「自衛隊ができない30のこと 30」

 女性自衛官の凛とした立ち振る舞いを様々な場面で目にすることがありますが、同じ女性として「かっこいいなー」と憧れてしまいます。

 現在では防衛大学、防衛医大、幹部候補生学校、一般曹候補生、任期制自衛官、航空学生等を含むほぼすべての領域で、女性も採用試験を受験できるようになりました。女性が自衛官になる道は開かれています。自衛隊のイベントで女性自衛官がいないことなどはほぼ皆無、潜水艦の部隊でも潜水艦救難艦には女性自衛官がいる時代なのです。しかし、ここに至るまでには様々な壁を打ち破ってきた女性たちの存在がありました。

◆女性自衛官のスタートは昭和49年

 女性の職場とされていた看護師のような職域以外に女性自衛官が登用されたのは、昭和49年の女性自衛官制度が始まりでした。当時は婦人自衛官という名前だったそうです。「女に軍人が務まるわけない!」という風潮がある中で任官した女性たちが大変な苦労したことは容易に想像がつきます。当時は社会全体に女性の職場進出への偏見があった時代です。純粋に男だけの職場だった自衛隊ではどうだったのでしょうか。

 その草創期に自衛官となり、様々な「女性で初めて」を海上自衛隊の歴史に刻んできた草分け的な存在、元一等海佐の竹本三保さんにお話を伺うことができました。

 巷ではパワハラ、セクハラが話題となっていますが、「もう昔の話だから」とにっこり微笑みながら話してくださった内容は、まさに身一つで男性の職域に斬り込んでいった女性たちの静かで壮絶な戦いの歴史でした。

◆女性用のトイレも更衣室もなかった

 竹本さんが自衛官になった当時は女性を受け入れる体制は全くできておらず、更衣室もありませんでした。当時は男性ばかりの職場でしたから、男性自衛官も職場の隅のロッカー前で着替えていたそうです。もちろん、トイレも男子用のみ。「男性トイレにすたすた~っと入ると、中にいた男性自衛官達がぎょっとなるので逆に申し訳なかった」と話す竹本さんは当時から肝が据わっていたようです。もちろん、今は女性のいる現場ではおおむね女性用のトイレや更衣室、居住スペースが完備されています。

 女性自衛官にとって人生の大きなターニングポイントはやはり結婚と出産だろうと思います。特に幹部自衛官は女性でも1~3年で異動があり、全国規模で常に引越を続ける生活です。竹本さんも結婚当初は別居生活でしたし、実家や保育園などの施設に子供さんを預けながらの子育てだったそうです。

 子どもを預けてでもしっかり仕事をしたいと考えているのに、上司からは連日「竹本辞めろよ!」と言われたのだそうです。その指揮官に「そのお言葉は、指揮官としてのお言葉ですか?」と尋ねたところ、「人の子の親としてだ」と言われ、こんなに一生懸命仕事をしているのにどうして理解してもらえないのだろうと感じたそうです。後日、その「辞めろ」と言い続けた上司が、仕事上のミスもない竹本さんに最低の勤務評価を付けていたことを知ります。その後の昇進もこの時の勤務評価の影響を受けていたのです。当時はまだそんな価値観がまかり通るような時代でした。

◆「絶対子供を産ませないからな!」

 さらに、自衛艦隊司令部という作戦本部に異動になり、上司に挨拶しに行った時には「俺は男女区別なく扱うから、しっかり仕事してくれ。だから、俺の目の黒いうちは、絶対子供を産ませないからな!」と宣言され、目が点になったこともあったようです。たとえ将来を期待してのことだったとしても、上司の発言は今なら訴えられるレベルのものかもしれません。その後、第二子を妊娠した時、訓練中に具合が悪くなり報告したところ「今、休まれたら困るな」と一言言われたのみで、結果としてそのお子さんを流産してしまったことも『任務完了』(並木書房)という本に淡々と書き記されています。

 子どもを産む性である女性が厳しい職場でその職務をやり抜こうとする場合、本人の努力だけではどうすることもできないことがあります。竹本さんの場合は子供を預かってくれたご家族・ご親戚の協力、そして周囲の環境に奇跡的に恵まれたことも大きな要因だと思います。保育園の送り迎え時間に困っていた時に、「近くに自衛官をご主人に持つとてもいい人がいるから」とお子さんを預かってくれる人を紹介されたのです。

◆女性で初めて遠洋航海に

 通常、海上自衛隊の幹部は、幹部候補生学校を終えると練習艦「かしま」を先頭とする練習艦隊で遠洋航海実習をします。世界一周などの長い外洋航海を経験し、様々な国の情勢を知り他国の軍と交流することで幹部自衛官としてのシーマンシップを学ぶのです。しかし、当時の自衛隊には「戦闘する船、戦う船には女は乗せない」という旧日本軍の海軍から受け継いだ伝統的な考え方があり、幹部候補生学校を卒業した女性たちは遠洋航海には出してもらえませんでした。さらに、幹部候補生学校でも航海関係の授業は受けられなかったのです。

 そこで、竹本さんは新しく就役する船ができた時に「女性が乗る予定の艦艇については艦艇通信担当に私を指定しませんか?」と自ら手を挙げました。宿泊を許されず徹夜あけで早朝に帰宅する過酷な業務でしたが、練習艦「かしま」への女性初乗りを達成しています。

 リムパック90にも特別研修員として参加し、自衛艦艦隊各部隊の作戦運用の指揮管制システムの基本構想構築を学べるチャンスを勝ちとり、米国バルティモアにある国家安全保障局の専門教育機関・国家暗号学校に留学、暗号の開発や運用、セキュリティー技術などを勉強する機会を得て、中央システム通信隊司令などを重要な職を歴任したのです。

◆今では自衛隊の中に託児施設まで

そこには、逆境にも折れず向上心を失わず、周囲の理解と協力を得ながら実績を一つひとつ積み上げ、徐々にその能力や真摯な行動を評価されて後を続く女性たちの道を切り開いてきた先駆者たちの確かな歴史がありました。


 こうした積み重ねにより、現在では自衛隊の中に庁内託児施設が整備されるまでになりました。そこでは、なんと24時間体制の夜間保育、緊急一時保育なども行われています。0歳から未就学児までの子供を安心して預けられるところができたのです。すべての部隊に設置とはいかず、完璧には程遠いですが、問題は少しずつ解決されているのです。

 決して恵まれているとは言えない職場環境の中で、様々な縁と奇跡があったからこそ最後まで海上自衛官としての職務を全うすることができたのだと話す竹本さん。今後はそんな奇跡がなくても女性が普通に仕事を続けられるような環境が整備されればいいなと思います。女性自衛官に求められる職掌は確実に広がっています。強く、そしてしなやかに。女性がキャリアを磨きその能力を活かせる自衛隊であってほしいものですね。<文/小笠原理恵>

【小笠原理恵】
国防ジャーナリスト。「自衛官守る会」顧問。関西外語大学卒業後、報道機関などでライターとして活動。キラキラ星のブログ(【月夜のぴよこ】)を主宰

※陸上自衛隊HPより