『セレステ(CELESTE)』は歯ごたえのあるアクションゲームである。クリアまでに2000回以上も死ぬことになったが、その旅は単に「歯ごたえがある」旅ではなかった。それは「自らを救済する旅」であった。それは一体どういうことなのか。単なるアクションゲームがどうしてプレイヤー自らを救うことができるのか。それを少し書いてみたいと思う。
『セレステ』は横スクロールの2Dアクションである。"ジャンプ"と"ダッシュ"と"壁登り"という主に3つの操作で、針山や奈落を飛び越えながら進んでいく。非常にシンプルなゲームシステムである。何度も死を味わう難易度であるが、やり直しのためのリードタイムは短く、大きく進行を戻されることもない。本作のシステムは決して独創性があるものではなく、似たような作品としては『N++』や『スーパーミートボーイ』という作品が挙げられるだろう。しかしそれらの名作に勝るとも劣らない素晴らしいレベルデザインであり、単純なアクションゲームとして見たときにも『セレステ』は非常に高い完成度の作品である。
しかし、本稿ではそうしたアクションゲームとしての素晴らしさを主に訴えたいのではない。本作を唯一無二の傑作足らしめているのは、その物語の存在にあると考えるからだ。物語がゲームとどのように融合しているのか。そのことを主に書いてみたい。
『セレステ』の物語とは
まずは『セレステ』の物語はどのようなものか、それを簡単に見てみよう。(※以下、ネタバレ)
主人公Madelineは、なぜか山を登っている。その理由は分からない。山の名前はセレステ山。セレステ山を登る彼女は、途中、廃墟のようなホテルで自らの分身「わたしの一部」と出会う。その分身はなぜか山を登ろうとするMadelineを執拗に邪魔する。そんな妨害にも関わらず、必死に山を登り続けるMadeline。しかし旅の後半で、遥か下の谷底にまでMadelineは落ちてしまう。絶望するMadeline。そんな彼女に分身は語りかける。「だから何度も登るのを止めてきたのに」と。分身は彼女のネガティブな思考の化身なのだ。しかし、その後、分身とのやりとりの中で、山を登るのに分身が本当は必要な存在だと確信する。そのことに気付いた彼女は分身「わたしの一部」との融合を果たす。その力を身につけレベルアップした彼女は最後にセレステ山の山頂に辿り着くことに成功する。
細かい脇道の話を除くと、概ね上記のような流れが本作の物語である。ありていに言ってしまえば、自分の弱さを認めることが大切だと語る物語である。一見すると『セレステ』はそんなありがちで凡庸な物語に見える。抑制がききつつも効果的なセリフの数々は実に素晴らしいが、この物語自体に特別な仕掛けがあるというわけではない。
『セレステ』がMadelineの物語を語る上で達成したことは何か。それはゲームプレイが物語の解釈を構成するという点にある。『セレステ』の物語は、そのゲームプレイ抜きにしては十分に味わうことができない。もちろん、それは他のさまざまなゲームであっても大なり小なりそうである。ゲームプレイにおいて苦労して難題を乗り越えたからこそ、エンディングで感動を味わうことができる。その点はどんなゲームでも同じである。しかしながら、『セレステ』が物語とゲームプレイの融合という点で特別なのは、ゲームを遊ぶ際の「苦労」と「意義」の2つが物語解釈の重要なファクターになっている点にある。
ゲームを遊ぶことは「辛い」?
まずは「苦労」の方から見てみよう。
ゲームは何によって「苦労」を味わうのか。それは多くのゲームでは、強力な敵や謎解きや障害物などの存在である。この点は『セレステ』も同様なのだが、本作の主人公Madelineは、実は物語上、そうしたゲームに現れる分かりやすい敵や障害物とは違うものによっても苦しめられている。
Madelineは日々の生活の中で苦しんでいる。彼女はパニック発作や"うつ"を経験しており、人生に対してよそよそしく生きている。生きていること自体の、そこはかとない苦しみ。それは泣き叫ぶような苦しみではない。彼女はうつの体験を「海の底にいるようだ」や「閉所恐怖症なのに、一方で自分が曝されているにも感じる」と表現する。これらは決して分かりやすい苦しみではない。しかし、確かに存在する苦しみだ。
『セレステ』が凄いのは、こうした言葉では表現しづらい苦しみをゲームプレイを通してプレイヤーに伝えることに成功している点である。なぜなら、プレイヤーが味わう苦しみとMadelineのそれが「似て」いるからだ。ゲームの中で何回死のうとも、現実世界のプレイヤーには強い痛みがあるわけではない。しかしどこか心をザワザワとさせる不快さやイライラを感じる。何度も何度もカジュアルな死を繰り返し停滞感を味わう。なんとか進んだ先にもまだ道は続いていく。そんな閉塞感。『セレステ』は昨今のゲームでは珍しいほどに「達成感」を演出しない。チャプターをクリアしても、そこにプレイヤーを誉めそやす優しい人は出てこない。この「達成感を感じさせない演出」というのはかなり意図的だと考えられる。彼女は「何かを見つけたくて」山を登っている。彼女は「達成」を渇望している。なのに「これでもう十分だよ」という達成はなかなか得られない。プレイヤーの感じる閉塞感は、Madelineが感じる閉塞感の模倣でもある。
こうしたMadelineの悩みに対して、プレイヤーはテキスト以上に共感してしまう。プレイヤー自身もまた日常で「自分が感じているかもしれない閉塞感」をつい想像してしまう。プレイヤーはゲームで味わう「苦労」と日常で感じる「苦労」をオーバーラップさせてしまうのだ。
ゲームは「何のため」に遊ぶのか?
次にゲームを遊ぶ「意義」について考えてみよう。
Madelineは物語の後半で、谷底に突き落とされる。一度は絶望に陥るものの、敵対していた分身「わたしの一部」が本当は「怖がっている」ということに気がつき、物事の見方を変える。Madelineは敵であった分身と和解をする時に次のように語りかける。「怖がってても、別にいいのよ」と。
この瞬間にこれまでのゲームプレイで味わってきたあらゆる「苦労」が昇華される。重要なのはそれが「達成感」のためではないということである。セレステ山に住む老婆は次のように語る。「癒しの最初のステップはな、問題と向き合うことなんじゃ」。
『セレステ』は何かを達成したからこそ癒しを与えるのではない。「問題と向き合う」ことそのことをもって、癒しとする。そして実はそのことをプレイヤーは頭よりもずっと体で理解している。なぜなら、まさにそれがゲームをプレイする理由であるからだ。『セレステ』という難度の高いアクションゲームになぜ私たちは好き好んで立ち向かうのか。わたしたちは「さあ、達成感を得るために難しいゲームをがんばるぞー」などと普通考えない。ゲームの目的はゲームをプレイすることそれ自体なのだ。ゲームはクリアするためだけに遊ぶのではない。クリアすれば全ての苦労が報われるから遊ぶのではない。苦労もまたゲームプレイの一部であり、そこにもまたかけがいのない価値がある。そしてそれは人生とも図らずも似ていることに気づかされるのだ。わたしたちは何かを達成するためだけに生きているのではない。何かを得るためにゲームを遊ぶのではないのと同様に、何かを得るための人生でなくてもいいのだと。
だからこそ、Madelineが分身との融合を果たす瞬間は、言葉以上に、わたしたちは救われてしまう。
「ただ生きていくことを肯定する」。言葉はキレイでも、「ただ生きていく」ことの意義はとらえどころがない。しかしこれがゲームをプレイすることに喩えられることで説得的になる。なぜなら「良いゲームは、ただプレイするだけでプレイヤーを充足させる」からである。『セレステ』というゲームのクオリティが人を楽しませるのみならず、ただゲームをするということを肯定させ、それが日々の人生を受け入れて生きていくことに重なる。ゲームとしての品質が、人生を肯定させるのだ。
人生とゲームが重なるとき
『セレステ』は「人が生きる」ということを描く作品である。もちろん人生とゲームは違う。しかしそれを錯覚*1させてしまうのは、本作が「良きゲーム」であるからこそ感じられる体験を物語のテーマに見事に当てはめてみせるからだ。物語の主人公Madelineの感情が、ゲームプレイで感じるプレイヤーの感情そのままが当てはまるように感じられるからである。
『セレステ』は、ゲームにしかできない物語表現を達成した傑作である。