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領土をガッツリ奪った世界史のえげつない講和条約(前編)

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 後の歴史にも大きく関係する講和条約の数々

現在の国際秩序では大規模な国家間戦争が起きづらくなっているので、大規模な領土の分捕り合戦もほぼ起きないと思っていいと思います。

起きても過去の因縁や民族問題に絡んで、大国志向の国が武力を誇示して小国や地方に介入するレベルだと思われます。

世界史の本を見たら今では考えられないような、えげつない領土の分捕りが行われてきました。今回はそれらを定めた国際条約を見て行きたいと思います。


1. グアダルーペ・イダルゴ条約(敗北国・メキシコ)1847年

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 メキシコ領土の1/3を割譲しアメリカ発展の鍵になった条約

1821年にメキシコはスペインから独立を果たし、当時は北はカリフォルニアから南は中米コスタリカまでの広大な領土を誇り、現在の2倍もありました。

ところがメキシコ政府の内政は混乱を続け、1836年のテキサス独立戦争でテキサスがメキシコから離脱し後にアメリカに併合されてしまいます。その後1846年にアメリカ軍のテイラー将軍が国境地帯、北部、メキシコ湾の三方向から本土へ侵攻を開始。メキシコ軍は為すすべなく敗れていき、1847年9月14日に首都メキシコシティにアメリカ軍が入城。メキシコは降伏し、グアダルーペ・イダルゴ条約を締結しました。

この条約により、メキシコは領土の1/3、現在のカリフォルニア州、テキサス州、アリゾナ州、ユタ州、ニューメキシコ州、ワイオミング州、コロラド州、ネバダ州をアメリカに割譲することになってしまいました。

アメリカが西海岸を獲得したことによる後世への貢献は、計り知れないほど大きなものがあり、逆にメキシコはこのせいで国の発展の可能性を大きく削がれてしまったのです。

 

2. キュチュク・カイナルジ条約(敗北国・オスマン帝国)1774年

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Work by Cplakidas

黒海への進出を果たしたロシアの悲願

2014年に起こったクリミア危機で、ロシア系住民の賛成多数でウクライナ領からロシア領となったクリミア(大部分の国はこれを認めていない)は、かつてはクリミア・タタールというタタール人が暮らす国で、オスマン帝国の保護下にありました。

女帝エカチェリーナ2世の支配下で西方のポーランドを事実上支配下に置いたロシア帝国は、軍事的・商業的機会を求めて黒海とアゾフ海を目指して南下。黒海を自分の海とするオスマン帝国と衝突し、第一次露土戦争が1768年に勃発します。

ロシアの将軍アレクサンドル・スヴォーロフの活躍でロシア軍は連戦連勝、クリミア半島は制圧され、バルカン半島のモルダヴィアとワラキアもロシア軍の手に落ちました。

1774年にブルガリアのキュチュク・カイナルジで講和が開かれ、これによりオスマン帝国はアゾフ海の港町アゾフと、黒海の要塞ケルチをロシアに割譲。さらにボスポラス海峡とダーダネルス海峡の商業船舶の通行の自由化を認め、さらにクリミア・タタールに対する宗主権の放棄を認めさせられました

クリミア・タタール人はロシアに対する反発を強め、オスマン帝国の支援を求めたため、1787年に第二次露土戦争が勃発。オスマン帝国はこれにも敗れ、クリミア半島はロシア帝国領となりロシア人やウクライナ人の移民が支配するようになり、スターリン時代にはクリミア・タタール人はクリミアから中央アジアへ強制移住させられることになるのです。

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3. トルコマンチャーイ条約(敗北国・イラン)1828年

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Work by Fabienkhan

イラン・カージャール朝の没落を決定づけた条約

南下政策を続けるロシア帝国は、カスピ海とペルシア湾岸の良港を持つイラン・カージャール朝の支配下に置くことでさらなる不凍港の確保を目指しました。

第一次ロシア・ペルシャ戦争に敗れたカージャール朝はゴレスターン条約を結び、ザカフカス地方をロシアに割譲させられ、グルジアにおける主権を失い、カスピ海におけるロシア船の航行を認めることになりました。

ロシアの南下を防ぎたいイギリスは、カージャール朝のファトフ・アリー・シャーをけしかけ、ゴレスターン条約で奪われた土地を取り返させようと、1826年に第二次ロシア・ペルシャ戦争を起こしました。

しかし、カージャール朝の皇太子アッバス・ミールザー率いる軍は各地で連戦連敗を重ね、ロシア将軍イヴァン・パスケーヴィチによって降伏を迫られました。イヴァン・パスケーヴィチは「5日あれば我々はテヘランを陥落させる」と脅し、講和条約であるトルコマンチャーイ条約を締結させました。

これにより、カージャール朝は現在のアルメニアの大部分と、北アゼルバイジャンをロシアに割譲し、カスピ海のロシア船の「独占的航行」を認めることになりました。

さらには、多額の賠償金の他、ロシアのイラン国内での領事裁判権も含まれており、これを皮切りにカージャール朝は他の西欧列強とも似たような不平等条約を結んでいくことになりました。

 

4. アイグン条約(敗北国・清朝)1858年

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清朝の混乱に乗じ日本海沿岸の土地を掠め取ったロシア

ロシア帝国と清朝の国境線は、長年1689年にピョートル大帝と康熙帝の間で結ばれたネルチンスク条約が基本でした。それによると、両国の国境はアルグン川・ゴルヴィツァ川・外興安嶺(スタノヴォイ山脈)にするというもので、ロシアの日本海への進出は妨げられていました。

1847年にニコライ1世が任命した東シベリアの知事ニコライ・ムラヴィエフは、シベリアの不凍港の進出を目指してアムール川渓谷にロシア人遺留地を作り、砦を整備して軍備を強化。1860年にアヘン戦争の勃発により混乱する清朝に対し、突如としてアムール川のロシア軍艦から発砲し、「アムール川左岸からウスリー川までの約18万キロの土地の割譲」を含むアイグン条約へ調印しなければ2万のロシア軍が攻め入ると脅しました。

当初清朝はこれを拒否しましたが、アヘン戦争が目下勃発中のため新たな戦線を北に開くわけにもいかず、北京条約において英仏のアヘン戦争の講和と同時に、ロシアの要求を受け入れたのでした。

 これによりロシアは日本海に出る不凍港ウラジオストックを獲得し、中国・朝鮮半島・日本に対する圧力を強化していくことになります。

 

5. サン・ステファノ条約(敗北国・オスマン帝国)1878年

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ロシアの息のかかったバルカン諸国が大挙して独立

 長らくオスマン帝国の支配下にあったバルカン半島では、19世紀後半から民族主義意識と反オスマン感情が高まり、独立に向けた動きが加速していました。そこに南下政策を進めるロシアの思惑が重なり、同じスラブ系民族を支援するという大義名分の元、ロシアがバルカン半島諸国の「解放」を目指すことになります。

1875年〜1876年に起きたバルカンのスラブ人の一斉蜂起を鎮圧しようとするオスマン帝国に対し、1877年4月にロシアがスラブ人の保護を目的に宣戦布告。露土戦争の勃発です。

ロシアが戦いを有利に進め1月には首都イスタンブールにロシア軍が迫ったため、講和条約であるサン・ステファノ条約が結ばれました。

これにより、ルーマニア、セルビア、モンテネグロは独立を承認され、ボスニア・ヘルツェゴビナとブルガリアは自治権を付与され、アルメニア、アナトリア東部はロシアへ割譲されました

ところが、これにより広大な領土を獲得したブルガリアの背後にいるロシア軍が地中海に進出してくることを恐れたヨーロッパ列強が条約に干渉。追加のベルリン条約でマケドニアの地をオスマン帝国に返還することを認めさせました。

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6. フェリーニヒング条約(敗北国・トランスヴァール共和国&オレンジ自由国)1902年

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Photo by AmandaCalitz

南アフリカ・ボーア国家を最終的に廃絶させた条約

 南アフリカでは、かつてトランスヴァール共和国とオレンジ自由国というボーア人(南アフリカに定住したオランダ人を主体とするヨーロッパ系移民)の国家がありました。

イギリスはケープ植民を拠点とし、19世紀後半からダイヤモンドや金の鉱脈が豊かなトランスヴァールとオレンジ自由国の支配を狙って対決姿勢を強めていきました。それに対しボーア諸国はあくまで独立を求めてイギリスと戦います。

2度に渡って行われたボーア戦争では、物量に勝るイギリスと少数精鋭のボーアの戦いはほぼ互角で、戦争が長期間に渡って続きましたが、双方痛み分けというタイミングで1902年に講和が開かれ、フェリーヒング条約が結ばれました。

トランスヴァール共和国とオレンジ自由国はこの条約で「自治は認めるもののイギリスに統合」されることになりました。

この決定に多くのボーア人がショックを受け、痛み分けにまで持ち込んだのに何のために戦ったのかと愕然としたそうです。

 

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つなぎ

 戦争に敗北したからといって、ここまでえげつない要求を飲ませるというのは今では全く考えられませんが、大国の論理や軍事的オプションがいかに優先されていたかというのを改めて感じます。いまも世界情勢は良くなりませんが、この時に比べれば今のほうがずっとマシですね。

 さて、えげつない講和条約は後編に続きます。