むかしむかし、皆様が今住んでいる場所よりちょっと南に下がったところに、小さな王国がありました。
 王国は青い青い柔らかい草が生えた、大きな大きな草原の真ん中にありました。さわさわとそれを揺らす風がいつも優しく東から西へ流れていきました。
 大草原の真ん中にある王国の真ん中には可愛いお城がありました。そしてお城の真ん中の部屋には可愛いお姫様が一人おりました。真っ黒い髪に、綺麗な目をした可愛い可愛いお姫様でした。
 早くにお妃さまをなくした王様には、子どもはこのお姫様一人しかいませんでしたので、お姫様はそれはそれは大事に育てられました。その大切にされたこと、風にも日にもあてないほどでした。
 どれだけこの幼いお姫様が大事にされたかというと、お姫様が声をかければどの召使もがすかさず
「なんでしょう。お姫さま。お姫様の望みは、なんでも叶えてさしあげますよ」
 と言いましたし、お父上である王様は毎日顔をあわせれば決まって
「姫や、何か欲しいものはないか? お前のためならなんでもしてあげよう」
 と言いました。
 でもそうすると不思議なもので、お姫様は何も欲しがらず、誰も困らせるようなことも言わず、時間が空けばいつも広い自分の部屋の中で、さやさやと草が揺れる青い丘が広がる、窓の外を飽きずに眺めていました。
 ある晴れた日の昼過ぎに、窓から外を眺めていたお姫様は、青い青い草の中に、白い点がぽつぽつとあることに気づきました。よくよく見てみると、草原には白い羊がのんびりと草を食んでいました。お姫様はそれをじっと見て、やがてその日の夕刻、晩餐の場で王様がいつも通り
「姫や、何か欲しいものはないか? お前のためならなんでもしてあげよう」
 と言うと、お姫様は初めて父上である王様の前で
「お父様、私、子羊が欲しいです」
 と言いました。すると王様は困った顔をしました。子羊なんて、お姫様にはふさわしくないと思ったからです。
「姫や、栗毛の素晴らしい子馬や綺麗な声で鳴く小鳥はどうだい?」
「私は、子羊が欲しいのです」
 お姫様は静かに繰り返したので、仕方なく王様は使いのものを野原にやって、生まれたばかりの子羊を買ってきてやりました。お姫様はお城にやってきた小さな羊を見て目を輝かせて
「私が毎日、世話をするわ。朝にはこの子にたっぷりの飼い葉をやって、夜には身体を拭いてあげるの」
「とんでもない!」
 王様と召使達は口をそろえて叫びました。
「羊はにおうし、段々力も強くなる。なにより羊の世話なんてお姫様のすることではないよ」
 それを聞くとお姫様は寂しそうになり、輝いた目の中の光もしぼんでいきました。小さな羊はお姫様の前から連れ去られていき、自分の部屋に寂しく戻ってから、お姫様は深いため息を吐き出しました。
 そうしてお姫様が子羊を貰ってからまたしばらくして、王様がお姫様に
「姫や、何か欲しいものはあるかい? お前のためならなんでもしてあげよう」
 と聞きました。するとお姫様はちょっと考えて
「私、私の子羊を草原に連れて行ってあげたいのです」
「とんでもない!」
 王様と召使は口をそろえて叫びました。
「草原は暑いし、日に焼ける。なにより羊の番なんてお姫様のすることではないよ」
 お姫様はまた自分の部屋に戻って深いため息をつきました。やがて子羊は大きくなり、そして子どもを生みました。たくさんの子どもができました。やがてその子どももたくさんの子どもを生みました。
 羊達は順調に増えていき、やがて立派な群れになった頃は、可愛いお姫様もすっかり背が伸びて綺麗なお姫様になっていました。綺麗なお姫様はたとえ自由に触れられなくとも、群れになった自分の羊をとっても大切にしていましたし、密かに誇りにも思っていました。
 やがて季節が移り変わり、その毛が羊の身体をむくむくと一回りも二回りも覆うようになると、お姫様はある日、王様に
「姫や、何か欲しいものはないか? お前のためならなんでもしてあげよう」
 と言われると
「私、私の羊の毛を刈って市場に売りに行きたいです」
 と答えました。
「とんでもない!」
 王様と召使は口をそろえて叫びました。
「市場なんてお前が行く場所ではないよ。なにより羊の毛を売るなんてお姫様のすることではないよ」
 お姫様はその頃にはもう何を言われるかわかっていましたので、悲しそうな目でやはりため息をついただけでした。しかし、群れができると確かに誰か世話をする者が必要です。今までは召使いたちが他の仕事の片手間にやっていましたが、最近ではそれも追いつきません。
 ある日、所用にお城の外にでかけた王様が、一人の若者をつれて戻ってきました。若者はその国にふらりと現れた素性の知れない者で、まだ仕事を持っていませんでした。王様はその若者に、羊の群れを世話させようというのです。
 お姫様は窓からそれを見下ろしていました。見下ろすお姫様は少し怖い顔をしていました。王様はあの若者にお姫様の羊の群れの番をさせようということが、お姫様にはわかっていたからです。そして、それを自分がどれだけやりたいか、王様がわかることはないだろう、ということもわかっていたからです。
 すると王様はお姫様が見ていることに気づきませんでしたが、若者は自分を見下ろすお姫様に気づいて帽子はちょっとあげて笑いかけました。お姫様はふんと顔をそらしました。
 王様はお姫様が思ったとおり、若者に羊飼いをさせると紹介しました。
「さてこれで」と王様は満足そうにお姫様を見て「もう、お前を羊のことで煩わせる必要はない」
 お姫様は悲しくて、その晩は少し泣きました。
 次の日、お姫様は門から少し離れたところに立っていて、あの若者が意気揚々と自分の羊を引き連れて向かってくる前に立ちふさがりました。若者はおや、と少し驚いたようですが、きつい目をしたお姫様を面白そうに眺めました。
「その仕事は、私の仕事なのよ」
「私の仕事ですよ」
 若者は柳の笛をポケットに入れながら陽気に言いました。
「その羊は、私の羊なのよ」
「私の羊ですよ」
 若者が言って唇をひゅうと吹くと、それが終わらぬうちに小柄な一匹の羊が若者の前に飛び出て、若者の掌に頭をこすりつけました。それを見てお姫様は真っ赤になりました。
「私が言うと召使はみんな「なんでも叶えてさしあげますよ」と言うのよ」
「私は言いませんよ」
 するとお姫様は怒った様子を消して若者をじっと見つめました。
「本当?」
「ええ」
「あなたは私の言うことをきかないの?」
「ええ」
「じゃあ、仕方がないわ」
 お姫様はそう言ってお城に戻っていきました。そして王様に向かって
「朝と夕方の少しの間、風にあたりに草原に参りたいと思います」
 と言いました。王様はちょっと考えた後
「いいだろう。朝や夕方は風もなく野原も涼しい。お前が日に焼けることないだろうからね」
 そう言って次の日、王様は羊飼いにお姫様用にパイとぶどう酒が入った籠を持たせ、くれぐれもお姫様に気をつかい、お姫様には常に「なんでも叶えてさしあげますよ」と言うようにと念を押しました。
 お姫様は、お日様が高く昇る少し前と、昇っていたお日様がやがて地平に沈む少し前の、わずかな間しか野原にいることはできませんでしたが、それでも羊の群れと若者と草原に行くことはお姫様の大きな喜びの一つになりました。草原につくとお姫様は朝の光の中で
「その籠の中身はあなたにあげるわ」
 と若者に言ってから、少しの間、草原を歩くことや羊達を追うことを楽しんでいましたが、日がもっと高くなっていくと、それを悲しそうに見て
「私はもう帰らなくてはいけないわ。ここから少しいったところに深い森があるけれど、そこへ入ってはだめよ」
「なぜですか? 森には羊が好む草がたくさん生えているのに」
「恐ろしい大男が三人も住んでいて、入った人を誰でも食べてしまうの。お父様が以前、たくさんの兵を送り込んだけれどみんな命からがら逃げてきたのよ。私も以前、羊が迷いこんでしまって、ずたずたにされて一晩中泣いたわ」
 その話に若者は興味を示したようにほう、と言いました。
「他に大男たちのことでなにかわかっていることは?」
「迷い込んだ狩人が見たといったけれど、大男たちはなんでもすべてが金でできたお城と銀でできたお城と鋼鉄でできたお城に、それぞれ住んでいるのだそうよ」
 お姫様はそう言ってから言葉をきって疑わしげに若者を眺めました。若者が森に入るのではないか、と思ったのです。そんなお姫様の瞳を受けて、若者は
「わかりました。森には入りません」
 と素直に答えたので、お姫様はまだ少し疑わしげな顔を残しながらも、時間が迫っていたので急いで城に戻っていきました。その後姿を見て若者は羊達を丘の上に集めると、真っ直ぐにお姫様の言った森へと入っていきました。
 お日様が空の一番高い場所にあがり、また段々下がって夕方になった頃。弾むような足取りでお姫様が戻ってきました。お姫様は初め、若者と羊たちの姿が見えずに辺りを見回しましたが、丘の上から流れてくる柔らかな音色に気づいてそちらを見て、羊達の中心で腰掛けて柳の笛を吹いている若者を見つけてほっとして駆け寄りました。
「森にはいかなかったわね? 初めて会ったときあなたは私の言うことをきかないといったから、森に入ったんじゃないかと私はあなたのこと、一日中心配していたわ」
「それはどうも」
 若者は素っ気なく言って柳の笛をポケットにしまいました。するとお姫様は気づいたように
「左の肘を、怪我しているわ」
「羊の角に少しひっかきました」若者はなんでもないようにお姫様から腕を隠すと「しかし野原は思った以上に暑いですし、腹もすきますね」
 お姫様は籠をのぞきこんで固焼きパイはすっかりなくなって、葡萄酒も空になっているのに気づき
「じゃあ、明日は私がもう一本葡萄酒と、もう一つ固焼きパイをあげるわ。でも、お父様には内緒にしてね」
 さて、次の日、お姫様はとっておきの葡萄酒と特別なパイを持って若者と羊と一緒に草原に行きました。
 お姫様は前の日よりももっと、草原を歩いたり羊たちと戯れたりすることを楽しんでいましたが、日がもっと高くなっていくと、それを前の日よりうんと悲しそうに見て
「私はもう帰らなくてはいけないわ。ここから少しいったところに深い森があるけれど、どんなことがあってもそこに入ってはだめよ」
「わかりました」
 素直に若者が答えたので、昨日行かなかったこともあり、お姫様は昨日より安心してきびすを返しましたが、端にいた大きな羊の首をちょっと抱きしめて「お前達の誰も、あの人をもう角でつついてはダメよ」とこっそり言いました。
 さて、そんなお姫様がいなくなると、若者は羊達を丘の上に集め、真っ直ぐにお姫様の言った森へと入っていきました。羊達は若者がいなくなっても、丘の上に固まっておとなしく草を食んでいました。
 お日様が空の一番高い場所にあがり、また段々下がって夕方になった頃。弾むような足取りでお姫様が戻ってきました。
 お姫様は初め、若者と羊たちの姿が見えずに辺りを見回しましたが、丘の上から流れてくる柔らかな音色に気づいてそちらを見て、羊達の中心で腰掛けて柳の笛を吹いている若者を見つけてほっとして駆け寄りました。
「森にはいかなかったわね? 昨日は聞いてくれたけど、初めて会ったときあなたは私の言うことを聞かないといったから、森に入ったんじゃないかと私はあなたのこと、一日中心配していたわ」
「それはどうも」
 若者は素っ気なく言って柳の笛をポケットにしまいました。するとお姫様は気づいたように
「右のかかとを、怪我しているわ」
「羊の蹄に少し踏まれました」若者はなんでもないようにお姫様から右足を隠すと「しかし野原は思った以上に暑く喉が乾き、腹もすきますね」
 お姫様は籠をのぞきこんで固焼きパイはすっかりなくなって、葡萄酒も空になっているのに気づき
「あなたはよく食べよく飲むのね。まるで一人で食べているのじゃないみたい」
「働く者の胃袋は、五つあると言いますよ」
 お姫様はふうんと瞳を瞬かせ
「じゃあ、明日は私がもう一本葡萄酒と、もう一つ固焼きパイをあげるわ。でも、お父様には内緒にしてね」
 さて、次の日、お姫様はとっておきの葡萄酒と特別なパイを二つ持って若者と羊と一緒に草原に行きました。
 お姫様はもう草原にいることが生きている証のようなものでした。生き生きと輝いて白い頬には赤みが差して、前の日よりももっと、草原を歩いたり羊たちと戯れたりすることを楽しんでいましたが、日がもっと高くなっていくと、それを死んだ羊のような目で見て
「私はもう帰らなくてはいけないわ。ここから少しいったところに深い森があるけれど、どんなことがあってもそこに入ってはだめよ」
「わかりました」
 素直に若者が答えたので、三日目にはお姫様もすっかり若者を信用して、きびすを返しましたが、群れの外までやってくると端にいた大きな羊の首をちょっと抱きしめて「お前達の誰も、あの人をもう蹄で踏んづけてはだめよ」とこっそり言いました。
 さて、そんなお姫様がいなくなると、若者は羊達を丘の上に集めると、真っ直ぐにお姫様の言った森へと入っていきました。羊達は若者がいなくなっても、丘の上に固まっておとなしく草を食んでいました。
 お日様が空の一番高い場所にあがり、また段々下がって夕方になった頃。弾むような足取りでお姫様が戻ってきました。お姫様は初め、若者と羊たちの姿が見えずに辺りを見回しましたが、なかなか見つかりません。いつもの丘の上にいるのでは、と登ってみると、若者は羊たちの間に腰掛けてはあはあ、と頬を紅潮させ強く息をついていました。
「森にはいかなかったわね? 昨日は聞いてくれたけど、初めて会ったときあなたは私の言うことをきかないといったから、森に入ったんじゃないかと私はあなたのこと、一日中心配していたわ」
「それはどうも」
 若者は滴る汗を拭いながら、上の空で言いました。いつも吹いていた柳の笛は、ポケットにしまわれたままでした。するとお姫様は気づいたように
「左の脛を、怪我しているわ」
「羊の後ろ足に少し蹴飛ばされました」若者はなんでもないようにお姫様から左足を引き寄せて隠すと「葡萄酒を飲みすぎ、パンを食べ過ぎたので、ひっくり返ってしまっていました」
 お姫様は籠をのぞきこんで固焼きパイはすっかりなくなって、葡萄酒も空になっているのに気づき
「明日からやっぱり一本の葡萄酒と一つのパイにしましょう」
「それがいいですね」
 やがて立てそうもないほど疲れて見えた若者も立ち上がり、羊達を引き連れてお姫様は茜色に染まる草原をゆっくりと歩いて城に戻っていきました。
 それからの日々はドジな若者が羊たちに怪我をさせられることもなく、葡萄酒とパイの量に文句を言うこともなく、変わることのない、けれど素晴らしい日々が続きました。風吹き草薫る広い広い穏やかに波立つ青い草原に、のんびりと白い羊達が草を食み、若者は時に柳の笛を吹きます。風が彼らを撫でて新しい世界へどこへなりとも流れていきます。
 日々を重ねれば重ねるほどお姫様は草原と、そんな時間と、羊達の世話と、そしてまあ、もう一つのその場を構成するものに惹かれていき、もうお城の生活にはなんの意味も見出せなくなっていきました。
 ある日、重大な知らせがある、と王様がお姫様を呼び出しました。王様はその知らせを言う前にいつものようにお姫様に向かって
「姫や、何か欲しいものはないか? お前のためならなんでもしてあげよう」
 するとお姫様はきっぱりと答えました。
「私、自分の好きな人と結婚したいわ」
「とんでもない!」
 王様と召使たちは声をそろえて言いました。
「なあ、お前。好きな人と結婚するなんてお姫様のすることではないよ」
「そうですよ。姫様。そんなのは卑しい下々の者がすることです。お姫様のすることは、王子様や王様と結婚することですよ」
 だけれどお姫様は諦めませんでした。
 あくる日、羊飼いと共に草原に行ったとき、お姫様は嬉しそうに草原を回るわけではなく、丘に若者と一緒に腰掛けて
「私があんまり逆らうから、折れてお父様が三日間、剣術大会を開くとお触れを出したの。一番、腕が立つものには、私と結婚させるんですって。国中の人が、参加しにお城に来るわ」そこでお姫様は言葉を切って何気なく羊飼いに目を向けて
「あなたはくる?」
 お姫様が問いかけると若者は腕を組んで丘に転がったまま
「羊の番がありますから」
 とやっぱり陽気に答えました。お姫様はそう、と答えて、世界で一番不幸せな者の顔を若者に見せまいと横を向いて俯きました。そして最初にあったとき、自分の言うことはきかない、と明言した若者を思い出し
「羊の角も避けられない、あなたなんて、怪我をするだけだわ。来てはだめよ」
 お姫様はそう言いました。若者は寝転んだまま、一つ笑っただけでした。
 さて、剣術大会が盛大に開かれました。パパパパとラッパは高らかに始まりの合図をかなで、国中から人々が集まってきました。誰もがわくわくこの催し物を心から楽しんでいましたが、王様の隣の席に座ったお姫様だけは固い固い顔でじっと俯いていました。
 剣術大会に参加せんと、集まってきたたくさんの騎士たちも人々の目を引きました。居並んだのは、それはそれは美しい立派な様子の騎士たちでしたが、その中でも抜きん出て人目を引く立派な騎士がおりました。
 それは鋼鉄の鎧を着た騎士でした。会場に集まった誰一人としてそんな素晴らしい鎧は見たことがありません。騎士はまた鋼鉄の鎧をきた馬にまたがっていて、これがまたこの世に一つとないような素晴らしい馬です。
 しかし、騎士の素晴らしさはそれだけではありませんでした。ぴかぴかと輝くその鎧に負けず、騎士は風のように疾走し、稲妻のように剣を振るい、あっという間に一人の残らず他の騎士を馬上からなぎ払ってしまいました。誰も文句のつけようのない見事な勝利に、王様はほうほうと喜ばれ
「あの者はきっとどこぞの名のある王子だろう。ああいう者が姫の婿には相応しい」
 と上機嫌で言い、隣のお姫様はぎゅっとスカートの端を強く握りました。
 その日の金の花かごは当然その騎士が得ました。渡すお姫様の前で鋼鉄の騎士は優雅に礼をしたものの、失望に満たされたお姫様はつっけんどんにそれを差し出して、あれだけ活躍した騎士にたいして言葉一つもかけずにきびすを返してしまいになりました。
 さて、大会の次の日。興奮の余韻を残したままの騒がしい城下とはうってかわって、静かに風薫る草原にお姫様はまた羊飼いと一緒に出かけました。いつもの場所に来るとお姫様は腰掛けて
「昨日は、あなたが来なくてよかったわ。とっても強い騎士がいたから。でもお父様は明日もまた、大会を開いて一番強かった人に金の花かごを差し上げるんですって」
「そうですか」
 と羊飼いはなんでもないように答えました。お姫様はちょっと息を詰めて
「あなたはくる?」
 お姫様が問いかけると若者は腕を組んで丘に転がったまま
「羊の番がありますから」
 とやっぱり陽気に答えました。お姫様はそう、と答えて、世界で一番不幸せな者の顔を若者に見せまいと横を向いて俯きました。そして最初にあったとき、自分の言うことはきかない、と明言した若者を思い出し
「羊の蹄も避けられない、あなたなんて、怪我をするだけだわ。来てはだめよ」
 お姫様はそう言いました。若者は寝転んだまま、一つ笑っただけでした。
 さて、二日目の剣術大会が盛大に開かれました。パパパパとラッパは高らかに始まりの合図をかなで、先の素晴らしい試合のことを口にしながら、国中から人々が集まってきました。誰もが前にもましてこの催し物を心から楽しんでいましたが、王様の隣の席に座ったお姫様だけは固い固い顔でじっと俯いていました。
 剣術大会に参加せんと、集まってきたたくさんの騎士たちも人々の目を引きました。みなが先日金の籠を得た鋼鉄の騎士を探しましたが、その中にさらに人目を引くある騎士にみなの目は釘付けになりました。
 それは銀の鎧を着た騎士でした。銀の鎧は、鋼鉄よりももっともっと輝いて、宝石のような光沢を見ていました。会場に集まった誰一人としてそんな素晴らしい鎧は見たことがありません。騎士はまた銀の鎧をきた馬にまたがっていて、これがまた先の馬よりもっともっと素晴らしい馬でした。
 そして騎士の素晴らしさはそれだけではありませんでした。
 ぴかぴかと輝くその鎧に負けず、騎士は隼のように疾走し、雷雨のように立て続けに剣を振るい、見事な手さばきで他の騎士を馬上からなぎ払いました。観客達は銀の騎士の戦いぶりは昨日の鋼鉄の騎士よりもっともっと素晴らしいと思いました。誰も文句のつけようのない見事な勝利に、王様はほうほうと喜ばれ
「あの者もきっとどこぞの名のある王子だろう。昨日の者は素晴らしかったが、ああいう者が姫の婿にはもっと相応しい」
 と上機嫌で言い、隣のお姫様はぎゅっとスカートの端を強く握りました。
 その日の金の花かごは当然その騎士が得ました。渡すお姫様の前で銀の騎士は優雅に礼をしたものの、失望に満たされたお姫様は、そっぽを向いたままそれを差し出して、あれだけ活躍した騎士にたいして一度も目をやることもなくきびすを返してしまいになりました。
 さて、大会の次の日。興奮の余韻を残したままの騒がしい城下とはうってかわって、静かに風薫る草原にお姫様はまた羊飼いと一緒に出かけました。いつもの場所に来るとお姫様は腰掛けて
「昨日は、あなたが来なくてよかったわ。前よりもっと強い騎士がいたから。でもお父様は明日もまた、大会を開いて一番強かった人に金の花かごを差し上げるんですって」
「そうですか」
 と羊飼いはなんでもないように答えた。お姫様はちょっと息を詰めて
「あなたはくる?」
 お姫様が問いかけると若者は腕を組んで丘に転がったまま
「朝に急いで羊を野原につれていって。それからあなたのところに行きますよ」
 若者がそう答えたとき、お姫様は世界で一番幸せな者の気分になりました。白い頬がぽかぽかと温まり薔薇色に染まりました。お姫様はその日、若者がどれだけそっけない言葉を言っても、一向に構わず幸せそうに笑っていました。
 さて剣術大会の朝早く、お姫様はとっておきの葡萄酒を持って若者のところへやってきて
「私は今日の準備があるから残念だけれど草原にはいけないわ。でも、これをもっていて草原で飲んで。一番美味しくて力がつく葡萄酒よ」
 そう言って渡された葡萄酒のビンを若者は受け取り、珍しく一人で羊たちと草原に出掛けました。若者は今日はもうお姫さまが戻るのを待つでもなく、まっすぐにいつものように森に入ろうとしました。けれどその前に、籠の中の葡萄酒を思い出し、二スウのナイフで蓋をこじ開けて若者は葡萄酒を飲もうとしましたが、それを近づけたところで、若者はふと何かに気づいたようにその手を止めました。
 それから傍らの羊の足元に少し葡萄酒をたらしてみました。羊は興味深そうにそれをなめました。葡萄酒をなめた羊はすぐに草原に横になって高いいびきをかき始めました。若者はそれを見て、葡萄酒に栓をして丘に置いたまま、森に入っていきました。
 さてさて、今日でついにお姫様の結婚相手が決まると、剣術大会に参加しようと、続々と集まってくる騎士たちの中に、一日目と二日目と同じように羊飼いの若者の姿はありませんでした。
 今日、騎士たちの中でも特に人目を引いたのは、鋼鉄の騎士でも銀の騎士でもなく、金の鎧をまとった騎士でした。その鎧は表面に風景が映りそうなほどぴかぴかに磨かれて、日の光に強く輝いて千里先からでもその光が届きそうなほどです。馬はこれがまた鋼鉄の騎士の馬と銀の騎士の馬をあわせても到底足りぬほどの素晴らしさでした。
 王様はその騎士を一目見て大変興奮して身を乗り出し
「あの者はきっとどこぞの名のある王子に決まってる! 前の鋼鉄の騎士よりも銀の騎士よりももっと、あの者こそが姫の婿には相応しい!」
 さて、試合が始まると、その黄金の剣を抜き払い、騎士はばったばったと他の競争相手を倒していきました。他の騎士たちは一人ではとても叶わぬ、と見て数人がかりで騎士に向かいますが、時の流れのよう広い競技場を一息で横切り、その手に握られた剣は言葉のように鋭く風を切り馬上から他の騎士たちを次々になぎ倒していきました。
 あらかたの騎士が姿を消し、優勝者は金の騎士に決まった、と誰もが思ったその時です。競技場にふらりと一人の騎士が姿をみせました。
 新たに現れた騎士は、金の騎士には及ばないものの、雲のように真っ白ななかなか見事な鎧をまとい、羊の毛のよう真っ白ななかなか見事な馬にまたがっていました。が、いかんせん、馬に乗りなれていないのか、その背にへばりつきようやく落ちないようにしている、という有様で、情けないことこの上ない姿に会場中の人間がいっせいに笑いました。
 それでも騎士はなんとか上体を起こしておっかなびっくり馬を進めて、競技場の真ん中までくるとえっちらおっちらと苦労して剣を引き抜き、重たそうにその切っ先を金の騎士につきつけたので、観客の笑いはさらに大きくなりました。
 挑戦された金の騎士は軽く手綱を引き寄せて、からかうように新たに現れた騎士に近づいていきました。白の騎士もなんとか馬を向かわせ――
 そして次の瞬間。
 バシーン、と水面を思い切り叩くような、ミサの扉を叩くような、死人も飛び起きそうな人々の度肝を抜いた激しい音が響き渡りました。その音に打たれたように、人々はびっくりして笑いを飲み込みました。多くのものが何がおこったのかわかりませんでした。それは本当に一瞬の出来事であったのです。
 白の騎士がそれまでの不慣れさを脱ぎ捨てて、腕はやはり稚拙ではありましたがそれを上回る鋼鉄よりも銀よりも金よりも硬い意思の力で、火花散るような全てをこめた凄まじい一撃を金の騎士に繰り出し、金の騎士がとっさに金の盾で受け止めたのです。あとほんのわずか反応するのが遅れれば、金の騎士はそれをくらい落馬してしまったでしょう。
 さすがにこれには肝を冷やした様子の金の騎士は、なんとか受け止めた剣を払って、慎重に距離をあけ「何者だ?」と低い声を初めて出しました。白の騎士はなんだか奇妙な声を精一杯はりあげて
「わ、わたしは姫の羊飼いだ!」
 と叫びました。すると言葉を失っていた人々の、ぽかんとした顔がやがて徐々に緩みだし、それから先ほどよりももっと盛大な笑いが大波のように寄せてきました。
「姫の羊飼いだと! わしが雇った男だ。わしがあれっぽちの金で雇った男だ。それが姫の婿になりたいと!」
 と王様が指し示して笑えば召使達も
「あの城で一番役立たずな羊飼い! 羊の世話をするしか脳がない男。羊の番しかできない男。それが姫の婿になりたいと!」
 と声をあわせて笑いました。すると観客も調子をあわせ
「ただの羊飼いが姫の夫になろうとさ! なんてあつかましく馬鹿なんだろう! ほらごらんよ、子ども達! あれが抜け作というもんさ!」
 と笑いました。金の騎士もこれにはハハハと高らかに声をあげて笑っていました。
 しかし、渦のような嘲笑の中で、けれど白の鎧をまとった騎士はそれに立ち向かい、びくともしませんでした。王に向かい、召使に向かい、人々に向かい、笑い声の中を進みだして、騎士は白いマントを翻し、凛とした高い声を出しました。
「ただの羊飼いが姫の夫になってなにが悪いのだ。ただの姫が羊飼いを好きになってなにが悪いのだ。ただの姫が草原を愛し羊を愛しその世話をしたいと望むことがなにが悪い。砂糖菓子を与えながらそれらを奪うことが愛することなのか」
 そう言って白の騎士は金の騎士に向かいました。騎士はまだ高らかに笑っていました。
「まだ私を笑うか」
「私は笑うさ」
 金の騎士はそう言って、自分の金の兜を一気に剥ぎ取りました。
「だって姫の羊飼いは私だ」
 その瞬間、笑いに包まれていた競技場は水を打ったように静まり返りました。そこに満たされたのは、死者の部屋よりももっと深い沈黙でした。素晴らしい馬にまたがり、素晴らしい金の鎧をまとった羊飼いの若者はいつものように
「姫ににらまれて一日目の金の籠を手に入れた鋼鉄の騎士は私。姫に顔を背けられて二日目の金の籠を手に入れた銀の騎士も私だ」
 そう言って若者がどさりと地面に投げ出したものは、確かにまぎれもなくお姫様がいやいや二人の騎士に手渡した二つの金の籠でした。若者はその次に兜を捨てました。剣も捨てました。鎧も何もかも投げ捨てて、いつもの羊飼いの若者になって身軽に馬を飛び降り、白い騎士の下へと歩いていき、馬上からじっと白の騎士を見上げました。
「このままでは私の負けになりそうだから、慈悲を請います。他の誰もあなたに近づけなかった、あの二つの籠に免じて、引き分けということにしていただけませんか?」
 その言葉にそれまで固まっていた白の騎士もまた、動き出してゆっくり白の兜をとりました。会場にいた誰もが、もう声をあげられる余裕はありませんでしたけれど、兜の下から現れたのは艶やかな黒い髪を少し乱して、息を切らしたお姫様でした。お姫様はとても疲れたように、馬の背にもたれて
「あなただとは、思わなかったわ」
 と言いました。若者は少し悲しい色を瞳にひらめかせ「あの葡萄酒は羊に飲ませました。それほど私が信頼できませんでしたか?」
 するとお姫様は馬の背にもたれたまま、目を閉じて少し考えた後
「いいえ。ただ、私、あなたに、こんな大会なんか出て欲しくなかったの。立派な騎士姿のあなたなんか、好きじゃなかったの。草原で羊を連れて柳の笛を吹いているあなたが好きだったの。それになによりあなただけには私を賞品としてなんか、見て欲しくなかったの。でも、私と結婚したいと言っても欲しかったわ。だから、私、あなたの口から来ると聞ければそれで十分だったの。この大会をやると決まった日から、一生懸命、馬術も剣術もひそかに習って。たった一撃だけ。それが私のできる全て。でもあなたが来てくれないといったから、一日目も二日目も出ることができなかった」
 若者はそれを聞いて少し苦笑して、馬上から姫を抱き下ろしました。そこへ貴賓席から王様と召使たちが汗をたらして駆けつけてきました。王様は泡も吹かんばかりの様子で、ぎょろりと目を向けて、自分が雇ったはずなのに初めて目にするよう若者の方を見て、すがるように
「お、お前はどこかの国のお忍びの王や王子ということはないか?」
「いいえ。ただの羊飼いです」
 若者は陽気に答えました。王様は食い下がりました。
「な、ならば貴族でもいい。男爵公爵伯爵…」
「いいえ。ただの羊飼いです。あなたが雇った」
 若者は陽気に答えました。
「でも私のために命を賭けてくれたお姫様に報いるだけのものは、いくらでも持っています」
「王族や貴族ではないものを、姫の夫とするわけにはいかん!」
「その望みを、私は叶えませんわ」
 真っ赤になって言い切った王様に、若者が何か言いかけたとき、ふと静かなお姫様の声が響きました。それは先ほど、姫が白の騎士だったとき、王様に向かって召使に向かって観客に向かって言ったよう、凛とした気高い響きを持った声でした。
「私が羊を飼ってはいけないことも。羊の世話をしてはいけないことも。羊を連れて草原に行ってはいけないこともみんなみんな。あなた達の望みを、私はもうこれから叶えるつもりはありません。私は、草原に行きます。さようなら、お父様」
 ぽかんと立ち尽くす王様と召使を残して、若者と姫君は甲冑も馬も全てを置いて、観客もぽかんと見まもる中を身軽な足取りで門を堂々と出て行きました。その後ろから二人の羊の群れだけがメエメエと言いながらお城から出てついてきました。草原にやってきて、そしてお姫様は言いました。
「ここに住みましょう。家を建てて、羊たちの世話をして、暮らすの。一日中あなたと羊と草原にいってよく日に焼けて羊の毛を刈ってそれを市場に売りに行って暮らしましょう」
「じゃあさしあたっては、雨露をしのげる場所として森の中に参りましょう。金と銀と鋼鉄の家がある。あそこのどれかにしばらく住んでその間に新しい家でも建てましょう」
 それを聞いてお姫様はびっくりして
「ダメよ。森には三人の大男がいて、わたしもあなたも羊たちもみんな引き裂いてしまうわ」
「森には大男はいませんよ。私が前に倒しました。最初の日に、森の中の大男があなたの羊を引き裂いたと聞いてから」
 それを聞いてお姫様はさらにびっくりして
「どうやって倒したの? お父様のたくさんの兵もあの大男たちからは命からがら逃げてきたのに」
「なに、あなたが下さった一人分にはちと多いパイと葡萄酒と柳の笛と二スウのナイフと生きていくための勇気が少し。それさえあれば誰でもできる仕事でしたよ」
 お姫様はちょっと若者をにらみました。
「あれだけ私が森に入るなと言ったのに、あなたは私の言うことを本当にきかないのね」
「ええ、最初から」
 頭の後ろで腕を組んで若者はひょうと答えました。お姫様はけれどふとあることに気づき
「でも、どうして剣術試合には来てくれたの? 私が言ったのに」
 するとそれを聞いた若者は愉快そうに笑って、お姫様の手をとりいいました。
「私が行きたかったからです」
 そうして二人と羊達は仲良く森の中に入っていき、やがて羊の毛で紡いだ晴れ着を着て婚礼をあげました。


 豊かな草原と森の草を食べて、羊達はころころ育ち、たくさんの子どもを生んで、年々数を増していきましたから、この群れが森から草原に現れるとき、さあっと白い波が緑の砂地に寄せてくるようにも思えましたし、羊達が散らばって草原の草を食んでいるときは、遠い所からそれを見た人は、あの丘にはなんとたくさんの白い石が転がっているんだろう、と思いました。
 そんな草原に腰掛けて、若者は毎日、伸び伸びと柳の笛を吹きましたし、お姫さまは高くあがった太陽の下でその笛の音にあわせて踊ったり、若者に寄り添って耳を傾け過ごしました。羊たちと同じように、その光景に加わる人間の数も少しずつ増えていきました。
 何年も何年もたったある日、お城から一枚の手紙が届きました。その後で、たくさんの羊たちとその羊に戯れて歩く五人の子どもをつれて、若者とお姫様が城に戻ると、寂しくて寂しくて寂しくて息もつまらぬばかりに成り果てた王様は泣きながら彼らを迎えました。
 幾年月日がたったとしても王様は王様でしたから、やっぱり羊飼いの婿と日に焼けたお姫様と羊たちにまだちょっと躊躇いを見せましたが、五人の孫達のキスをかわるがわるに受けてから、王様はようやく、日に焼けた肌も羊の臭いも悪くないな、と思いました。
 羊はいつも草原に出て草を食み、子どもたちはころころと遊びまわり、お姫様と若者と王様はそれを丘に腰掛けてのんびり見守ります。若者が吹く柳の笛の音が、風と共に高く遠く舞い響いて、そのお話を私に聞かせてくれました。そうしてみんな、末永く幸せに暮らしたそうなので――。


 私の話は、これでおしまいです。



 
 <羊飼いのお姫さま>       ――フランス民話<ひつじかいのわかもの>より





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