朝。
言うまでもなく木曜日の朝である。
日曜日、いや土曜日から続く悩ましい事態には何一つとして解決の道が見えずに、現状という名の坂を迷う間もなくただ転げ落ちていくように突き進んでいるだけの日々である。
ツインズ曰く『この重なり合う2つの世界を分離しなければならない』らしいのだが、その方法とやらが全く以て見当もつかず、そしてその前に処置しなければならないという『ピン』を抜くという作業ですら、解決方法すら不明である。
……と、珍しく目覚し時計よりも先に目が醒めても頭の中を疑問符がオクラホマミキサーを踊っている状態では起き出す気にもならなかった。
とはいえ、時間というヤツはコッチの心理状態を全く気にすることもなく歩みを進め、目覚し時計は内蔵された機能に従い突然、騒音を撒き散らした。
やれやれ。
幾ら考えても仕方ないことは考えないことにして目覚し時計を止めた瞬間にオレの部屋のドアが開いた。
「あ、起きてらっしゃったのですね」
その言葉に少なからず驚く。
吉村美代子こと妹の親友であるミヨキチが昨日に続いて今日もオレを起しに来ている。
何故だ?
とは言え、ここは疑問を口にせずに感謝するべきだろう。
えーと。はい。起きてました。
「ふふ。じゃ下でお待ちしてます。はい。タオルです」
何故にオレにタオルを渡すという役をミヨキチが演じているのだろうという疑問が脳内の疑問符オクラホマミキサーの中に入ってくこようとするのだが、横入りは禁止する。
そんな疑問を抱え込むほどにオレの脳内は広くはない。
ミヨキチに関する疑問は『妹の親友の一時的な日常』という脳内フォルダにまとめて放り込むことにした。
いわゆる一つの『若かりし頃の一時的な流行事』として彼女も認識するだろうからさ。
呆れるほどの時間が過ぎた辺りでね。
とはいえ、コッチとしてはそんなに安閑と過ごすつもりはない。
洗顔を済ませ、ミヨキチに朝食を装って貰い、たぶん今日もハートマーク満載であろう弁当を受け取って玄関を出ると……いつもの如く古泉五妃と、昨日からの習慣となったらしい佐々木とツインズの出迎えがあった。
「おはようございます。昨夜はよく眠れたようですね」と五妃が意味深げに微笑む。
そうか?
「そうだね。火曜日の朝の騒動に比べれば平穏無事と言ったところだろう。それにしても……」
佐々木はオレと一緒に玄関を出たミヨキチの前に進むと手を伸ばした。
ミヨキチも疑問符を顔に貼り付けたまま意味も判らずに手を伸ばして握手に応じている。
なんだ? 何の握手を求めている?
「別に気にするほどではない。ミヨキチさん。貴女の存在が彼の心の疲れを洗い流しているようだ。ソレについては歓待の意思を表しても良いだろう?」
佐々木の言葉にミヨキチはぱっと顔を輝かせた後で、紅潮させて俯いた。
あのな、あんまり妹の親友をからかわないでいて欲しいんだが。
既に妹とミヨキチとを見送り、通学路をそれなりに進んだ辺りで佐々木に釘を刺す。
「別にからかっている訳ではない。僕には君の感覚が手に取るように判るのだからね」
あー。それはそうだ。オマエとは感覚をシンクロしているからな。
『それよりも今後のことを確認しましょう』
あのな、五妃。いきなり脳内で話しかけるな。能力を使われるツインズのことも考えてやれ。
と、後ろに付き従うツインズを見ると……何気に眠たそうである。
どした?
『昨夜、能力を使いすぎました』
『御厨様達の出来事は私達にも予想不可能でしたので』
ふう。そうかい。確かにアレには驚いた。
『確かにね。でも今はそんな話よりも論議すべきコトがあるはずだが?』
佐々木よ。急に割り込むな。仕切るのは構わないが。
『では。遠慮無く仕切らせて貰おう』
ちらりと隣を見ると……佐々木は涼やかに微笑んでいる。好きにしろよ。
『では……問題はこの世界を涼宮さんが作ったとして、その論拠を探ってみよう』
なんの話だ?
『キョン。君が昨夜寝付く前に辿り着いた疑問だ。確かにこの世界が涼宮さんの想像の産物ならばその根拠となるべき事象が存在したはずだ。これまでのSOS団の活動の中にね』
『それにつきましてはボクの方からも言及したいと思っていました。ですが、涼宮さんは満足していたはずです。少なくともボク達はそのように振る舞い、演じてきたはずです』
(確かに。少なくとも涼宮ハルヒがコレまでの活動の中で不満を残していたとは思えない)
不意に割り込んできたのは長門のテレパシー通信である。
横を見れば道の反対側をわしわしと手足を動かして坂道を登っている。
不満は無いのか?
(無い。少なくともこれほどの事態を引き起こすほどの不満が残っていたとは確認できない。時々においては不満が生じていたはずだが、それぞれの解決時には不満は解消していたはず)
あっというまにオレ達を追い越して長門は先へと進んでいく。
(もし……何かが残っていたとすれば、それは不満ではなく疑問のはず)
疑問か。
そうは言っても疑問なんぞどういう風に生じていたのか全く見当もつかない。
そもそも行動原理からして不明なんだからな。ハルヒってヤツは。
『それじゃ……こうしようか?』
どうするってんだ? 佐々木。
『僕がキョン、君の記憶をサーチしよう。当事者からすれば疑問や不満が見えなくても第3者の視点から見れば不可思議なる点が見えてくるかも知れない』
なるほどね。って、オレの記憶を? 検索する?
『そうだ。君の許可さえ貰えれば検索しよう』
ああ。そうだな。佐々木はオレと感覚を共有している。記憶も検索できるのかもな。
『それでだ。五妃君、君はあの完璧なるメイドさん……』
『森園生さんですか?』
『ああ。そうだ。彼女の記憶をサーチしないか? 君の視点では疑問が無くとも彼女の視点で君が解析した場合、涼宮さんは不可解な行動をしているのかも知れない。それが森園生さんの視点と考えでは不可解でなくとも……と考えるのだが如何だろう?』
『確かにそれはあり得ますね』
『そして傍女同士でも君は妖使いとしての能力がある。君としては他の傍女の記憶をサーチするのは不可能ではないはずだ』
『そうですね。では、ボクの記憶は? どなたがサーチするのでしょうか?』
『そうだね。それは僕が行っても良いのだが……先ずはキョンの記憶をサーチして整理してからにしたいのだが如何だろう』
『そうですね。ボクとしましても森さんの記憶をサーチするだけで精一杯でしょうから、ボクの記憶を検索して頂くのは後にしましょう』
なんだかな。他人の記憶を検索するとかというのは人権とかには触れないのかね。
『それは君次第だよ。キョン。僕としては君の懸念を払拭したいというそれだけなのだから』
『そうです。そして傍女となった森さんがアナタの依頼を断るとも思えませんが?』
なんだ? つまり、オレが森さんに頼めと言うのか?
『そうだよ。なぜなら君は……』
『そうですよ。何故ならばアナタは……』
次の言葉は脳内で複数名の声でハモった。
『僕達の(ボク達の)(私達の)御主人様なのですから』
あー。うるさい。解った。解ったから脳内でハモるなっ!
って、あれ? 1人多くなかったか? 誰だ?
『はい。森園生です。御主人様、ご機嫌麗しく』
あれ? アナタまで脳内ミーティングに参加されるように?
『はい。私のことが話題になっているようでしたし、彼女達が朦朧としているようですので私の方からアクセスさせて頂きました』
彼女達というのは後ろのツインズのことだろうと思い、朦朧としているのかと振り返ると……確かに歩き眠りしているようだ。
ある意味、器用である。
それにしても……ツインズの能力を傍女側で使うというのはかなりの能力を必要とするはずだと聞いていたのだが……森さんもそういう能力があるのだろうか?
『いいえ。私には古泉のような妖使いの能力はありませぬ』
では?
『恋する乙女の一念……と申し上げておきますね』
えーと。どう返せばいいのかと横の古泉五妃の顔を見ると……ただ単に苦笑していた。
まあ、ツインズ達が『戦陣の天女』と命名するだけはあるなと単純に感心しておこう。
『あら。なんとなくですけど、怒っていいのか喜んで良いのか悩む評価ですのね』
あー。怒らないで下さい。
『はい。解りました。なんといっても私は御主人様の傍女なのですから、何なりとお申し付け下さいませ』
はい。では、記憶のサーチの件、宜しくお願いします。
『了解しました。では私はお近くで待機させて頂きます。それでは御主人様、前に気を付けて下さいませ』
ん? なんのコトだと前方を見ると……昨日と同じような光景が。
つまり、朝比奈さんと御厨雛SEが並んで歩いている。
昨日と同じで何となく足元がおぼつかないのは……あの後、それなりに夜更かしした所為だろう。どういう風に夜更ししたのかは考えない。
「あ、キョンくん。おはようございます」
おはようございます。朝比奈さん。えーと、眼が赤いようですけど大丈夫ですか?
「あ、はい。大丈夫です。ちょっと御厨さんと話し込んでしまいました」
そうですか。それでは仕方在りませんね。ははは……
しかし。朝比奈さんの隣にいるのは昨日とは違い、情報統合思念体の一部である御厨雛SEなのだが。そんなに話し込む……というかイロイロと付き合う必要もないだろうに。
(ずいぶんと低い評価のように思えるのだが。君の思考では私はその程度なのか?)
脳内にテレパシーで話しかけてきたのは言うまでもなく御厨雛SEである。
あー。すみませんね。ですが、昨日のハルヒに一発で見抜かれてしまった以上はそういう評価にならざるを得ないと思うのですが如何でしょ?
(構わない。君に蔑まれると……私には快感となるのだからな)
げ。
目の前で御厨雛SEのくびれた腰の下にあるボリューム在るおしりがきゅんと蠢いたような……
あー。まあ、そういうコトならそれはそれで構わないけどな。
(やーね。キョンくん。私達の操り主さんの一部をそんなに感じさせないでよね。朝の通学路なのよ)
割り込んできた別の声は……説明することもなく朝倉涼子である。
横を見るとその朝倉が道の反対側辺りで清楚な笑みでこちらに小さく手を振っている。
(そんなに御厨雛SEさんを感じさせて……部室でシタいのかしら? その時は私も参加させてよね。学校で3Pなんてゾクゾクするわ)
あー。朝からそんなコトを考えないように。見た目とのギャップがありすぎるぞ。
(なによ。朝からあたしのテレパシー通信回路をみんなに使わせているんだからそれぐらい良いでしょ?)
反論の根拠としては正当と認めるが、発言の方向は間違っていると指摘したいのだが?
(そうですよ。朝倉さん。自重して下さいませ。それでは私達全員の名誉が傷つきます)
割り込んできたのは……トーンからして黄緑江美里さんだろう。
姿を探すと遥か後方で微笑みながらこちらを見ている。
(はい。御主人様。おはよう御座います)
しかしだ……随分と賑やかになったものだ。どうでもいいが。
(そうですね。私はあまり出しゃばらないようにします。それでですが……)
黄緑さんのトーンならば別に構いませんよ。それで何かありますか?
(はい。私も疑問点の洗い出しに参加させて頂いても宜しいでしょうか?)
ああ。構いませんよ。むしろ有り難いです。
(了解して頂きありがとうございます。では、在校生全員の記憶などから複合検索させて頂きますね)
え? 在校生全員?
って、まあ、不可能ではないだろう。何せ情報統合思念体の一部が来ているんだし、それに何故か情報統合思念体の本体も全面的にこの『重なり合う2つの世界』の解消には協力してくれているようだからな。
(確かに。情報統合思念体は涼宮ハルヒ以外にアナタへの興味を増加させている)
抑揚のない声は長門だな。いいのか? そんなコトを言って。
(そうよ。あのね。長門さん。情報統合思念体の意見は私がキョンくんに伝えるんだからね)
(確かにその役目は朝倉涼子に与えられている。しかし問題はない。コレは情報統合思念体の意見ではなく私の分析)
(はいはい。皆様。御主人様の脳内で言い合うのは止めましょう。では、御主人様、お健やかに)
黄緑江美里さんが長門と朝倉の言い合いになりかけていたのを終了させて、佐々木と古泉五妃とかが業務連絡事項などを全員に提案し、それぞれの役目を勝手に確認しあって朝の通学途上の脳内ミーティングはめでたく終了と相成った。
あー。疲れる。
教室に辿り着くと……ハルヒが何故かジロリとオレを睨んだ。
なんだ?
既に機嫌が悪いというのは勘弁して欲しいところなのだが、原因を探っておいた方が良いだろう。
どうした? 随分と不機嫌そうだが? 変なモノでも食べたか?
「変なモノって何よっ? まあ……昨日の弁当は変だったけど」
昨日の弁当って、オマエはいつも学食……って! ああ。そうだ。昨日はオレの弁当をハルヒに献上していたな。
あのミヨキチ特製ハートマーク山盛り弁当を。
「あっと。妹さんの愛だから変でもないか」
どっちなんだよ。
って、そうだ。古泉などの解説によりあの弁当は妹が作ったってコトになっていたな。
「ま、あの妹さんもそういう歳になったというコトか」
まあ、そういうことだ。
「あーあ。なんか過ぎてみればあっという間よね」
そうだな。
ん? なんか変だぞ。突然、回想モードに入ったのか?
「もう一度、高2あたりからやり直したいものよね」
んん? どういう風の吹き回しだ?
「そう思ったりしない? もう一度、繰り返してみたいって」
そんなにこの2年間が物足りなかったか?
って、2年? 2年間の記憶がどうかしたのか?
「別に。何となく思っただけよ」
そ、そうかい。
んー? まさかハルヒに『2年前の世界』の意識が芽生えたのか?
「それより。見たわよ」
コッチの心の中の動揺を無視してハルヒは意地悪そうな笑みを浮かべる。
えーと。なんのコトだ?
「今朝も佐々木さんと一緒だったじゃない。今度は購買に予約しとかないとね。昨日みたいに買いそびれないようにして、昼休みを充実して過ごさないと」
ハルヒはGZK限界を超えた高エネルギー宇宙線のような瞳の輝きでオレを見ていた。
……何か企んでいるのか?
「見たのはそれだけじゃないわよ」
え?
「あの光陽園学院の制服を着た双子ちゃん達はなんなの?」
げ。
そうだ。どうして外で歩くことを認めていたんだオレは?
えーとだ。何かしら言い訳しておいた方が良さそうだが、何も思い浮かばない。
「あれかしら?」
アレって何だ?
「月曜日にアンタを襲ったのってあの子達じゃないの?」
正解だが簡単に認める訳にはいかない。かといって否定する気にもならず、結果として黙っていた。
「その子達を従えるなんて出世したものね」
その子達を従えることがどうして出世したという評価に繋がるのかが解らない。
「いいのよっ! 世間ではそういう風に評価するのっ!」
オマエの言う世間とやらが一般常識だった試しが……
いや。反論は心の中に留めておこう。
ハルヒが納得すればそれでいい。今となっては余計なことで思考能力の一部を費やしたくはないからな。
オマエが納得するならそれで良いさ。
「でしょ? キョン、アンタも素直になったわね。良い傾向よ。その方向で進化した方が良いわよ」
オマエに進化の方向性を指図されたくはないが、まあ良い。
懸案事項を山ほど抱えている身でハルヒという暴走機関車に振り回される展開は極力遠慮したい。
生返事で答えてオレは担任が入ってきたのを渡りに船とばかりに前を向き、ハルヒの励起したルビーのような視線から逃れることにした。
それでも……
その後の講義中、オレは背後のハルヒの春と真夏と残暑とをひとまとめにしたような不気味なオーラの輝きに圧倒されて講師が何を言っているのかなんて全く頭の中に入っては来なかった。
「……君。聞いているのかね?」
御陰でこのように講師に名指しされたことなぞ全く気にもならず……って、おいっ!
マズイじゃないかっ!
「えーと。すみません。聞いて……」
(ゲルマン民族の侵攻によりローマ帝国が滅亡したように、大衆の趣味嗜好の移動は既存の価値観を容易に破壊する。時には巨大な企業の行く末をも左右することがある)
「はい?」
「聞いていたのかね? 大衆の嗜好と資本主義の危うさについて歴史的な事象から……」
講師の睨み顔に圧倒されオレは頭の中に浮かんだ文章をそのまま言葉にした。
「……なんだ。聞いていたのか。だったらいい」
講師は途端につまらなさそうな顔をオレに見せつけてから講義に戻った。
あれ? 今のは何だ?
と、斜め前方を見ると朝倉が顔を黒板に向けながらこっちに向かってVサインをしている。ちょうどハルヒには他の生徒の影になって見えない角度で。
あー。そうか。ありがとよ。
(どう致しまして)
何にせよ助かった。
(大したコトじゃないわ。佐々木さんからキョンくんのサポートをするようにミーティングで言われていたからね)
あれ? いつのまにそんなコトが?
(それはね……)
(朝のアナタの脳内ミーティングの最後に佐々木さんから提案された。アナタの記憶を佐々木さんが検索するため講義中は上の空となりやすい。それを全員でバックアップすることになっている)
(ちょ、ちょっと長門さんっ! 勝手に割り込まないでよね。その説明は同じ教室にいる……)
(説明は私が行う。朝倉涼子、アナタは講義の内容に注意して)
(はい。はぁい。解りました。ふん。どうせあたしは長門さんのバックアップですよーだ)
かわゆく拗ねているつもりらしい。
わざとらし過ぎて長門のいつもの抑揚のない言葉が心地よくなる。
(ありがとう)
ああ。静寂を感じさせる呟きが心に染みる。
(ふーんだ。あ、そうだ。あたしの周りにいるコ達の……を捧げ物にしようか?)
なんのコトだ? なんか悪い予感がする。
(あたしの尻尾……あのツインズちゃん達によってあたしに授けられた能力を使おうかな? って思ってみただけよ)
だから、なんだそれは?
(あの『尻尾』の能力を使えば……今あたしの周囲にいる……そうね、5人ぐらいのコのアソコにアナタの形になった尻尾を『挿し込むコト』ができるわよ。そしてその感触はアナタに伝えられるはず)
あのな。そんなコトをしてどうなるってんだ?
(あら素敵じゃない。講義中に誰にも悟られることなく教室で好きな相手を好きなように感じさせて悶えさせられるのよ? そしてアナタは周りのコ達の御主人様になる。素晴らしいコトだわっ!)
あのな、そんなエロく、かつ、できそこないの18禁ゲームみたいなことを脳内できゃぴきゃぴと会話しないでくれ。いいな? 念のためにもう一度言う。そんなコトはするな。
(はぁい。ま、そんなコトをしたらあたしがシテ貰うチャンスが減ってしまうわね。ありがとうございます。御主人様。あたしとシテ頂く機会を減らさないで頂けるなんて傍女として……)
もういい。
朝倉とのテレパシー通信を遮断させて、脳内で呟く。やれやれだ。
しかし……だ。
こういうフォローだったら今日が抜き打ちテストだったら良かったのに。
と思うオレの呟きが天に届いたのかどうかは不明だが、次の数理解析なる難解な講義は抜き打ちテストであった!
こういう時にこそ脳内通信回路を使わずにいつ使うというのだ?
……実力ではないのは認める。
若干の良心の呵責から逃れるため、ラス前と大ラスの問題は自分の解析能力の全てを使って挑んでみたのだが……案の定というか、規定事項と言うべきか、ひとっ欠片も答えらしき文字もしくは記号はオレの脳からは出てこず、脳が指令を出さない以上は指先が何も記述することはなく、時間は過ぎていった。
のだが……
余計なことに講師は全員の答案用紙を再度配り、生徒達に採点させ始めたっ!
ええいっ! よっぽど採点作業を省きたかったのだろう。この手抜き講師め。と心の中で悪態を吐く。
吐いたところで事態に変化は現れず、結果として脳内カンニングが教室内に明らかになってしまった。
更に余計なことに最後の二問はオプション(アンド起死回生的配点)だったらしく、その手前の点数配分で100点満点であったっ!
我が人生の中において数学で満点なぞ有り得ない快挙である。いや怪挙であったと意識的に誤字を用いた方が良いだろう。
何故ならば……
オレの背後からのマグマの輻射熱のようなオーラが太陽コロナの域に達しようかと思えるぐらいに増大してしまったからであるっ!
案の定、講義が終った直後の休憩時間にそれは爆発した。
「キョンっ! アンタ凄いわっ! いつの間にそんなに賢くなったのっ? 変なモノでも食べた?」
食べてはいない。それはだな、脳内で長門や朝倉が……と事実を告げる訳にも行かずに、昨夜の山勘の一夜漬けがたまたまクリティカルヒットしただけだと声に出しておいた。
「そう? なんにしてもそのレベルに達したというのは喜ばしいことだわっ! 誉めて上げるっ!」
だからそんなに大声を出すなっ!
谷口が呆れているじゃないか。ついでに国木田も呆れていたが、それは単に記入ミスをしてしまった自分を責めるが為の表情だったと記憶しておいてやろう。国木田はともかく谷口は誤記入以前の問題だろうが。
ちなみにだ……
ハルヒはオプション問題を両方解いておきながら最初の方の問題を単純ミスしており、朝倉は慎ましやかにというかワザとらしくと言うべきかオプション問題の1つを正解とし、途中のを幾つか誤記入していた。
つまり、最高得点はハルヒと朝倉であり、オレは第3位タイであった。
人生最高得点でも3位かい。という嘆きは分不相応であると自戒しておいてやろう。
実際、インチキだったしな。
しかしだ。こんな調子でインチキしていたら何の実力もないままに優等生として扱われてしまう。それは避けるべきだろうと良心がオレを責めるのは致し方ないことである。
虎の威を借る狐の気分が解っただけでも良しとしておきたいところなのだが、後ろのハルヒが過剰なる期待をオレに抱いてしまったのではないかという懸念をタネにして「だったらこのままインチキをしておいた方が良いだろう」とオレの悪しき心が呟いてくる。
あー。余計な懸念を抱えてしまった。
などというオレの心労は時間の流れというヤツから一切無視されて昼休みとなった。
部室に行くと既に長門と朝倉が来ており……初めっから部室にいるであろう佐々木と御厨雛SEが共に談笑するでもなく全員がオレに微笑み視線を投げている。
いや長門は黙々と本を読んでいたのであるが、全員が黙して声を出していない。
オレを含めて5人もいるのに……静寂である。
ツインズもいつの間にやら腕から出て長机に突っ伏して眠り始めた。
そんなに疲れているのか?
だが眠るんだったら、隣の部屋とかのソファが良いぞ。
しかしだ。えーとだ。なんというか、7人もいるというのになんか疲れる静けさである。
そしてなんというか、何となく桃色の気配というか雰囲気が部室の中に充満し、オレを包み、まとわりつくようである。
誰か何か会話してはくれないか?
(その必然性を感じない)
(そうよ。こういう風に脳内で色んなコトを話し合えるのに音声にする必要性を感じないわ)
(確かに。まあ、話せというなら話すことはやぶさかではないが、何について議論すればいいのだ? 有機生命体の進化の可能性と限界に対する一考察で良いか?)
長門と朝倉と御厨雛SEの声が脳裏に響く。
あのな。そんな疲れる話題をする気はさらっさらにない。
とは言え沈黙はもっとマズいような気がもの凄くする。
何せ目聡すぎるハルヒが購買から食料を買い込んで到着するのは目に見えているからである。
何と言うべきか……警察がアジトに踏み込んでくるのが解っている盗賊の一味になったような気分だと言えばお解り頂けるだろうか?
「ふふふ。キョン、心配せずに座ったらどうだい?」
佐々木よ。そんなに堂々とするな。ますますコッチが心配しないといけなくなるような心境に陥ってしまうじゃないか。
「気にすることはない。涼宮さんが来れば一気に賑やかになる。それに……」
後ろのドアが開き、入ってきたのは……古泉五妃である。
いつもの如くというかこの世界での昼でのトレードマークとなりつつあるホテル特製のバスケットを下げている。
「会話のタネを提供するのは僕と古泉君で充分だろう?」
「そうですよ。気にする必要はありません。万が一涼宮さんが買い損ねた時を想定して今日は多めに包んで貰いましたし」
ああ。そうかい。だったらソッチは任せるさ。
しかし、何となくだが役者が足りないような気がしている。
それは誰だという疑念は嵐のような足音で掻き消されることとなった。
「やっほーっ! みんなお待たせっ!」
ハルヒの存在証明のような雄叫びである。
誰も待ってなぞいないが待っていたことにしといてやろう。
「やほほーっ! ハルにゃんと購買で買い占めてきたよーっ!」
「わわわっ! 落としそうにな……あわわわ」
鶴屋さんが両手にレジ袋を提げ、朝比奈さんは両腕で段ボール箱を抱えている。
ああ、そうか。足りないと思っていたのは鶴屋さんと朝比奈さんであったか。
鶴屋さんさえいれば話題と賑やかさに事欠くことはなく、朝比奈さんがいればオレの心が不安定になることも……在るといえば在るがそれでもオレの精神安定には必要かつ不可欠なる存在である。
つまり、オレの懸念は鶴屋さんと朝比奈さんという上級生によって何処かに吹き飛んでいる。
ふう。コレで安心して弁当が食える。
……ではないっ!
ハルヒが風雲急を告げる大声を張り上げた。
「それ……誰っ?」
ハルヒが素早く視界にロックオンしたのは長机に突っ伏して寝ているツインズであるっ!
そういえば昨日はハルヒが到着すると同時にオレの腕の中に退避していて、ここでツインズとハルヒが対面するのは初めてであったっ!
って、あれ? ハルヒよ。オマエは今朝、ツインズがオレと一緒に登校しているのを見ていたんだろう?
何故に今この場ではそれを忘れたかのように指摘するんだ?
と、理路整然としているのか判らんがそういう風に指摘したとしても、ハルヒの機嫌が良くなるとも限らず、過去の事例を参照すれば反って悪化するような気もする。過去の事例が何なのかは思い出せないが情緒不安定なのはコイツの専売特許にしても良いのではないかと思う事態だけは山のように思い出してしまう。
野球の試合に負けそうになったというだけで閉鎖空間を作り出して神人とやらを団体で暴れさせたりな。
そんな過去の事例はさておき、ここは何と言ったらいいのかと慌てふためくオレ。
静かに微笑するだけの佐々木と古泉。
黙々と本を読んでいる長門。
笑顔を凍りつかせている鶴屋さんと朝比奈さん。
面白そうに眺めている朝倉。
「それがどうした?」と言わんばかりに事態を飲み込まない御厨雛SE。
寝息を立てているツインズ。
誰か何か言ってくれないかと心の中で懇願しても誰も動かないのでオレがハルヒに立ち向うこととなるのは……馴れたくはないが、いつもの普遍的な緊急事態対応である。
しかたない。
嫌嫌なる態度を不必要なまでに表情に浮かべて立ち上がってやろう。
「何で11人もいるっていうのよっ? ここはSOS団の部室で不法侵入は認めないんだからねっ! 校内を引き回して晒し者に……」
何処かでチラリと聞いたようなフレーズに時代がかった意味不明な刑罰を織り交ぜて喚いている。
言っとくがそんな刑はないぞ。
「うるさいわねっ! キョンっ! そんなモノは作った者勝ちなのよっ!」
事後法で捌いたら国際機関から非難されるぞ。人権擁護委員会とか。
……ツインズが妖怪であり人ではない以上、人権が存在するか否かという疑問は脳内から一時排除する。
「うるさいわねっ! 一事不再理よっ! 司法取引は現時点でこの国の法律には記載されてはいない以上、誰が何と言っても判決を翻すことは法治国家として有り得ないわっ!」
だから、いつからオマエは法治国家の代表となったのか? というかいつ判決を下したんだ? というかそういう法律をいつ作った? とかいう疑問を返したら最後、次の瞬間にはハルヒ永世大統領兼終身首相とハルヒ最高裁唯一判事とハルヒ唯一最高議会議長が発生しないとも限らんので口に出したりはしない。
代わりに口にするのは……ありきたりな釈明である。
よく見ろ、ハルヒ。(釈明にもなっていないのはこの際目をつむってくれ)
「なによ。見てるわよ」
彼女達は光陽園学院の制服を着ている。(言うほどではないが釈明を思いつくまでの時間稼ぎである)
「そんなの一目瞭然よ。それがどうかしたって言うの?」
つまり彼女達は一昨昨日にオレを襲った方々だ。(事実である。従って間違いではない。……言い切るほどではないが、無意味なる自信をオレにもたらす根拠である)
「そうね。そういえば今朝、見たわね」
(そうだ。それだな) つまり、彼女達はオレを襲ったことを反省し、ついでに……
「ついでに?」
(えーとだ。先を考えてはいないが言い切っておこう) この学校に転校したいと申し出ている。(それで先はどうするんだオレは?)
「転校? そんなコトをしてどうなるっていうのよ?」
(えーとだ。ええいっ! 言い切ってしまえっ!) つまりSOS団に入りたいんだそうだ。
「え? なんでそうなるワケ?」
疑問がハルヒの瞳の中で渦を巻き、熱帯性低気圧を発生しつつある。
あー。その先は考えていないというか思いついてはいない。
「そこから先はボクから説明しましょう」
割り込んできたのは昨日と同様、古泉五妃である。
あー。後は任せる。口から出任せ解説はオレにはできないからな。
「つまり、彼女達は反省しているのです」
以下は古泉五妃の解説である。
光陽園学院ツインズは月曜日にオレを襲ったことを間違いだったと反省し謝罪したいと申し入れた。そのため昨日はオレの家から登校するまでに従い、他のコ達の襲撃に備えることとしたのだが、そう簡単には誰も襲撃してきたりはしない。
このままでは謝罪に相当しないと考えたツインズは光陽園学院からこの北高専に転校し、四六時中、オレに従うことを考えた。
それが彼女達が考えた謝罪である。
おい。随分と跳躍し過ぎている行動じゃないのか? それは。
そんなんでハルヒが納得する訳が……
「なんだ。そうだったの」
あれ? 納得している。
「そうなんですよ。彼女達は昨日のうちに光陽園学院には転校を申請し、今朝ほど北高専に編入手続きを申請したそうです」
おーい。いいのか? そんなコトを言って。今からハルヒが職員室に殴り込みに行ったらどうするんだ?
オレの心配を読んだのか、古泉が脳内で追加説明を始めた。
『ご心配なく。今頃、『組織』の手の者が事態の裏付けに回っています』
そうか。それなら安心……って、オマエが今ココで言ったコトを誰が……
(今、森園生が職員室に向かっている)
不意に長門が追加解説をしてきた。
そうか。森さんがいるのなら……って、どうやって森さんがこの事態を知ったんだ?
(古泉五妃が『妖使い』の能力を使い、傍女である森園生に連絡した。彼女自身もまたこの学校に臨時講師として復帰することを画策していたと思われる)
なるほどね。あれ? 森さんが? 臨時講師として戻ってくるのか?
(そう。それは……)
長門の視線が本からついっと移動して御厨雛SEを突き刺した。
(……御厨雛SEへの追加指導の可能性を考慮してだと思われる)
なるほどね。
(そこで納得するというのは私としては不本意だ。だが、不可解なる有機生命体の行動だと判断しておこう。それに……そういう風に私を見ているというのは感じて……)
はいはい。暫く黙っていて下さいませんか。御厨雛SEさん。
「ふうん。なるほどね。SOS団にね……」
腕組みして考えるフリをしているハルヒほど何も考えてはいないことだけは確かなのだが、次の瞬間にはとてつもないことを思いついたりするで誰も突っ込まないし、静観している。オレもだが。
そしてハルヒが次に発した言葉は……ありきたりと言えばありきたりであった。
「じゃ、入団テストしないとねっ!」
ああ。やっぱりそうなるか。
「さあ、どんなテストにしようかしら」
ハルヒは無駄な元気を大声と化して周囲に響かせて活動室だか、その手前の倉庫だかにスキップしていった。
どんなテストでも構わん。テストに受かっても受からなくても結果に大差はない。ツインズが新入団生となるかテスト生となるだけの違いである。
ハルヒの大声にやっと目覚めたツインズは揃った動作で目を擦り、何事かときょろきょろしている。
朝比奈さんがこの場にいなければ『愛くるしい小動物動作コンテスト グランプリ』に輝くような仕草であった。
朝比奈さんがいる以上はツインズは次点に甘んじて頂くしかないのだが。
などと意味不明な感慨に耽っているオレの耳に不可解な言葉が届けられた。
「あれ? 何コレ? こんな短刀、見たこと無いわよ」
直後っ!
世界がぐるりと回転した。
……気づいた時、周囲は変わっていた。
朱と黒と白の世界。
地面は闇。遠くの空は朱。所々にある流れる白。
ここは……何処だ?
『動乱の木曜日 異世界編』へ続く