もう、つくづく(変な形容をかぶせるようだけど)あっけにとられて。
やっぱり、おれずれてるんだなと。あんまりけんか売るような真似はしたくないんだけど。
変じゃん? 教養のある人はこういう論調から一歩身を引くとおもうんだよね。自ずと引かせるのが教養だとおもうのさ。教養、哲学、弁証法って、有用ではあるけれど有用さを目的にしたものじゃないよね。それ自体だとおもうの。その有用さも、たとえばモンティ・パイソンのあの方とかあの方とか哲学やってるじゃないですか。で、哲学者サッカー。
そうしたひとひねり、もうひとひねり、腸捻転。みたいなさ。
*
教養なんて役に立たないって。あるいは役立つ立たないの文脈に持ち込むものじゃない。で、どっちかっていうと役に立たない。ビジネスはビジネス固有のロジックで十分にまわるよ。せいぜい一般的な社会常識よ。義務教育の範囲プラス自分でこれと決めた専門性で食べてける。会話も潤滑にしたりしない。業界の時局はやりすたりがしゃべれたらそれで十分。変に教養つけちゃったら客先でしたり顔を押し殺すのに大変だって。
柄谷行人だっけかが(おれ柄谷好きだなw)西田幾多郎だったか鈴木大拙を評して「何もないところにひとりで課題を設定して解いて組み立てて壊して」みたいな、西洋哲学史の上だったらやらなくてよかったことを日本に生まれたばかりに近代化の中でひとりでやった稀有な人だってほめてたけど、ってことは西田のことか。教養ってさ、何かひとつの問いをとことん問うて手放せなくて、その問いとの格闘が自ずと引き寄せた、引き寄せざるを得なかった自分専用のエクスカリバーみたいなものじゃん。この本読んだらお仕事に役立ちまっせーって勧められて、せいぜい身体をかすめるのは知識。髪の毛のパラドクスじゃないけれど0本1本2本3本…どこからみどりの黒髪と呼べるでしょうみたいなところがあって、知識知識知識…どっかで教養に質的転化をしてくれるのかしらん。あるいは人格の陶冶をもたらしてくれる? くれるわきゃないよ。くれるとしたら、格闘のほう。
*
読むべきは古典と辞典だと思うよ。たまにブコメとかツイートでいうけど。弩のつく文系としていえばそれと品詞分解だな。なぜ品詞分解をやらない。あれほどアトミックで数学的なものならみなさんきっとやれば面白がると思う。国語とかいう薄汚れちまった吉野弘(とんだとばっちり)にあって筆順と品詞分解だけは確かだ。あれはいいものだ。文学史も第三の新人までは。
*
それともうひとつあって。道々の道ってあるじゃんよ。ないかふつう。
専門哲学、否定しないよ。おもしろいもん。だけど、道々の固有性から真理(そんなもんがもしあるとすれば)に銘々が思い思いのエクスカリバーを手にして歩み寄ってくるほうが、えへんおほん、ヴェーバーの職業(としての学問)人に親和していないか? 近世儒者にもそう述べてるのがいるって渡辺浩先生から習った。だからおおむね(おおむね、だぞ)地位に教養は伴ってくる。おれはそっちに信をおきたい。日々目にしてるあれとかあれとか口のひんまがった76年のモントリオールとか(伏せ字)、あれらはあれらなりに教養はあるんだよ。あるけど性根が口のように、な。或いは目くらましにあってるだけでそもそも大した地位じゃなかった。名は体を表す。あれ、ちがう。
ひとことでいえば、
「地位はあるけど教養がない」人たちの末路
- この類型はがさつ(にすぎる)
- 末路いいたいだけやろ
って警戒心が働いてしまったわけ。で、保守というのはイデオロギーではなく警戒する心性であり政治や党派性からもっとも遠くに位置するという福田恆存に倣えば、おれやっぱり、教養を人に勧めるなんて野蛮だとおもう。