この二つのフレーズを言うだけで、数分後には私の目の前にチキンかあさん煮定食が届く。
「チキンかあさん煮」はチキンカツをさらに煮たものであり、冷静に考えればおかしな食べ物だ。
揚げ物のサクサク感はなくなり、煮たせいで衣は外れやすい。いい年をした大人にとって決して体に良い食べ物ではないと思う。
二ヶ月ほど前、営業先の近くの大戸屋の席に座り、にこやかな店員にいつもと同じフレーズを伝えた。
店員Aは、何の問題もないという感じで私のテーブル上でのことを済ませ、次のオーダーを取りにせわしなく動いた。
七分ほどあと、いつもより遅いということに気付く。まあそんなこともあるだろう。そう思ってもうしばらく待つ。店員Bが少し暇そうに店内を歩いていた。
私の横を通り過ぎた時、私はくれぐれもとげのない声で「あの、まだ来ていないんですが」と伝えた。
店員は、「申し訳ありません。今作っておりますのでもう少々お待ちください。」謝罪の気持ちをきちんと伝える声と表情だった。
厨房に戻った店員が何かを伝えると少しあわただしくなった。きっと作り忘れていたのだろう。
私の隣にスーツを着た男性が座った。右手に持ったスマホに視線を落としながら、店員Bに「チキンかあさん煮定食」と伝えた。
私は、ほんの少し、嫌な感じを覚えた。二分もたたないうちに、店員Aが「チキンかあさん煮定食」をもって厨房から現れた。
軌道が違う。そう感じた数秒後、出来上がったばかりのチキンかあさん煮定食は、スーツの男性の目の前に置かれた。
スーツの男性はスマホを左手に渡しつつ、箸で素早くカツを刺した。
私には「その定食は私のではないですか」そんなことを口に出す勇気はなかった。
そういう日もあるのだと思い、レジの店員に事情を説明し、店を去った。
別の日。会社の最寄り駅の近くにある店で、私はいつもどおり同じフレーズを店員に伝えた。五分もすれば届くはずだ。先日の出来事は稀なことだ。
そう思いながらスマホをだらだらと見ながら届くのを待つ。炭水化物を食べすぎるのは良くない。でも、大戸屋に来た時に覚悟は決めている。
大盛りのご飯が来るのを待つ。だが来ない。
六人ほどの学生さんたちが入店、入り口近くのテーブルに通される。外でメニューを見て決めていたのか、流れるように注文する。
女性は小鉢とデザート、男性は鶏と野菜の黒酢あん定食だろうか。
六人の注文が終わって一分もたたないうちに、店員がそのテーブルに「お待たせしました」と言いながら何かを置いている。
どう見てもチキンかあさん煮だ。特徴的な土鍋は遠くからでもよく見える。
「早いねー」ということでも言っているのだろうか。テーブルが賑やかそうだ。そりゃそうだ。その定食は俺のだ。こんなことが続けて起きるのか。
先日よりも強いイライラを抱え、店員に嫌味を言いながら店を出た。
そして今日、家に帰る途中、妻からメッセージが届く。「今日は外食にしたい。」良いに決まってる。
毎日仕事をしている妻に、食事も作ってくれなどと思っていない。
どこに行きたい、食べたいものある?そう聞くと妻は「大戸屋でいい。」分かった、断る理由はない。
家でつくるのに疲れた妻は、外食するときでもなるべく和食を選ぶ。
テーブルに座って、妻はエビの豆鼓炒め、私は当然「チキンかあさん煮」を注文する。
いい香りが私のところにも届いた。
数分後、「チキンかあさん煮」を持った店員が厨房から出てきた。さすがに今日も他の人に届けることはないだろう。そう思った矢先、
店員は厨房近くの初老の男性の席に「チキンかあさん煮」を置いた。男性は店員の方を見ながら何か言いたそうだ。
店員はそれに気づかずその場を離れた。
初老の男性は箸でおかずをつつく。カツをひっくり返すような動作をする。ご飯を一口食べる。しばらくして店員を呼び止める。
店員は机の上に置かれた伝票と見比べながら、頭を深く下げながらそれを持ち上げる。その食べさしの「チキンかあさん煮」を持ちながら
店内を歩き回る。私のテーブルに少し目をやりながら、厨房に戻っていった。注文を間違えたと思ったのだろうか。
妻は、「遅いね」と言いながら半分以上食べ進んでいた。しばらくすると厨房から店員が出てくる。まさか食べさしの「チキンかあさん煮」を
もって私の方に向かってくる。何事もなかったかのように「お待たせしました」と言ってお盆を私の前に置いた。明らかにご飯の形がおかしい。
チキンカツの衣がご飯についている。それに気づいた店員が、お取替えしますねと言って“ごはんだけ”をもって厨房に戻った。
「おいおいおい」心の中で数回つぶやき、店員が戻るなり「これ、他の人の食べさしですよね。こんなの・・・」と伝える。
怒りは抑えた。出来上がってから時間がたち、熱さを失った上に、他人に衣をはがされた「チキンかあさん煮」はただの残飯だ。
店員は照れ笑いをしながら「あ、あ、そうですよね。はい、すぐに作り直します。」と言った。
私は、妻に事情を話した。妻はほとんど食べ終わっていた。私は厨房に向かい、キャンセルすることをにこやかに伝えた。店員は平謝りをしていた。
私は「チキンかあさん煮」が食べられなくなる呪いでもかけられたのだろうか。そんなこと、あるはずがない。
明日、何事もなかったかのように大戸屋に行き、注文すれば食べられると思う。でも、もう注文しないだろう。
あれは私のような中年が食べて良いものではないのかもしれない。
誰しもミスはある。もう少し待てば、他人が頼んだ「チキンかあさん煮」が私のもとに届いて食べられただろう。
今まで何百回といった大戸屋を恨む気持ちはない。でも、「チキンかあさん煮」を食べることはもうないと思う。
こういう目にあう人って居るみたいだね 注文間違えられるとか、自分の所に届かないとか、最悪忘れられてずっと待ってたり… 不思議と同じ人ばかりそういうのにあたるって話を聞く ...