昨年起きた、福井県の中学校2年生のいじめ自殺問題。事故等調査委員会がまとめた調査報告書は現時点でもっとも良心的な部類といえる。そのなかに、精神医学が入っている。
精神医学と学校の集団教育は相互に影響しあってきた。これを観察することから「学校の全体主義」の真髄が見えてくる。
本稿(中編)では、まず、精神医学が学校の色に染め上げられる事態と、そこから見えてくる全体主義の形を明らかにする。
学校の色に染め上げられた精神医学の挙動を観察することから、ポルノ的ともいうべき学校の全体主義、さらに全体主義そのものの本質が、くっきり見えてくる。
次に、近年精神医学で勃興してきた「発達障害」という概念について考える。そこから、人間の遺伝的・神経生物的多様性と「障害」概念についてコペルニクス的転回を試みる。
筆者はDSM-5の「神経発達障害」という概念を棄却し、それを<発達-環境>調整障害スペクトラムという新概念に代えることを提唱する。
そして現在学校関連でなされる多くの診断については、
診断名:<発達-環境>調整障害スペクトラム・環境帰責型(学校タイプ)
という、もっぱら環境側にある「障害」を問題化する診断を提唱する。
まず最初に、学校の色に染め上げられた精神医学について典型的な事例を示そう。
学校が精神医学を染め上げる仕方から、学校の奥深い全体主義の本質と、さらに全体主義そのものの本質を見て取ることができる。
事例となるのは、大学病院精神科教授若林慎一郎と榎本和による論文「他罰的な子への嫌がらせ」である。若林は児童青年精神医学を牽引してきた人物でもある(1991年~1994年 日本児童青年精神医学会理事長)。
彼らが書いた内容は、次のようなものだ。
ここには、正気の社会からは信じられないような価値の転倒がある。
若林らは、人に暴力をふるって楽しむ嗜虐者たちを異常視しない。逆に、自分に暴行を加える迫害者(およびその勢いに同調する学級集団)をはっきりと「敵」、「悪」、「赤の他人」と認識する女子中学生の方を異常視する。
そして、自分に暴力をふるい、苦しむのをながめて楽しむ加害者たちを、共に生きるクラスの仲間とみなして自発的に「寄せつけ」、学級集団の大いなる共生に順応するよう「性格の問題」を直すのが、治療の目標であるとしている。
まるで集団レイプされている人に、「気持ちよくなれず、加害者を寄せつけないあなたは精神医学的に問題がある。こころとからだの底から加害者と<共に響きあって生きる!>ことを受け入れようとしない冷感症を治療する」、と言っているようなものだ。
若林らがしていることは、旧ソ連の精神科医が共産主義に逆らう人を精神病とするのと同じである。
上で紹介した文章を読めば明らかに、若林らがE子を異常視する判定ポイント(精神医学的に正常と異常を分ける基準点)は、E子の存在が深部から<学校のもの>になっているかどうかである。
若林らは、こころとからだの深いところから<学校のもの>になって共に生きようとしない、E子のまつろわぬこころを医療の対象とする。学校の生徒でありながら、学級集団に染めあげられないE子は、精神科で治療しなければならない。
若林らの精神科医および精神医学指導者としての言動は、精神医学が学校の色に染め上げられた局面を鮮やかに示している。