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自民党はデータと事実を捨て、近代国家を放棄する覚悟があるか ー 高度プロフェッショナル制度の委員会採決を巡って

この記事はかなり長い。それを断った上で、近代史上最悪とも言える、厚生労働委員会の採決に至るまでの経緯を説明したい。

この経緯は実況していただいた、法政大学の上西教授のツイートを引用している。

 

さて、5月25日、すでに不適切なデータが見つかっていた高度プロフェッショナル制度を審議する衆議院・厚生労働委員会において、再び不備が見つかった。

採決を予定していた当日の朝だ。

厚生労働省は25日の衆院厚労委員会理事会で、ミスが相次いで発覚した労働時間調査について、野党側の指摘で新たに6事業所で二重集計するミスがあったと報告した。

そのような中、厚生労働委員会が開かれた。

 

厚生労働委員会(立憲民主党・西村智奈美)

午前中、まず維新の議員が質問をした後、共産党の高橋議員が限られた時間の中に質問をした。その後、西村議員。

 こうして、加藤大臣に対する不信任が出された。

 

厚労大臣不信任に関する趣旨説明(立憲民主党・西村智奈美)

西村議員が、再び本会議にたち、不信任の理由を説明した。

 不信任理由

 過労死遺族の声

捏造が何故起きたのか?

この答弁は二時間にもおよび、途中、西村議員が過労死遺族の声を紹介して声を詰まらせる場面もあった。

不信任は反対多数で否決され、議論は再び委員会に引き戻された。

 

驚天動地の委員会採決(国民民主党・岡本充功)

www.youtube.com

そして、議論の場は委員会に戻る。ここでも何人かの議員が質問に立ったが、岡本充功議員の質問の最後にそれは起こった。

これはぜひ、雰囲気を理解していただくためには、実際に動画を見ていただきたいところである。

(「紙を出せ」、という野次)

 (「整理しなきゃいけないんじゃないか」という野次) 

驚天動地の採決へ

 これで採決である。

 

データは間違っていた。それはこの朝にも分かっていたことだ。そして、そのデータがどのように間違っていた、書類が出ていない。その中で採決が行われる。誰か理解が出来るだろうか?出来るならやってみて欲しい。

私も国会を見て長いけど、はっきり言ってぶっちぎりで最悪の採決だ。これより酷い採決というのはちょっと想像できない。

持ち時間が来ているから、という理由で「質疑は終了しました」と宣言する委員長もひどいし、間違っていた資料を提出していたのに、修正した資料を出さずに間違いを口頭で答える、というのも言葉を失う話だ。

また、自民党・田村憲久理事の「データの不備は高プロに関係ない」という発言は、語るに落ちるという部分がある。要は、データがどうであれ法案を通すということだからだ。データをもとにした意思決定ができないならどんなデータも紙くずに過ぎない。占星術か卜占で全部決めればいい。

事実に基づく意思決定は、近代の最低条件

近代とはどういう時代であったか。それは、ルールの確立と科学の浸透の時代であった。呪術的な権力を保持していた王政が打倒され、市民革命が起きた。

近世に始まった科学が更に浸透し、迷信や宗教的にタブーとされていたことが次々と覆り、明るい光が当たった。

地球は太陽の周りを回り、人間は猿から進化し、ハンセン病は前世の因縁ではなくマクロファージによるものだとわかった。

科学とは、事実に基づいて判断することだ。それがどれほど今までの見解と違っていても、すべてのものが実験によって証明されるのだ。

そして、近代国家とは、まさに事実に基づいて政策を意思決定することによって成り立っていた国家だったはずだ。

 

しかるに、今日の委員会採決において行われた行動は、事実に基づいて意思決定をするのではなく、すでにある結論に向けて行われただけのものだった。

これほどまでにデータやファクトが軽んじられたことは、私の記憶する限り一度もない。

我々はよく知っている。戦艦を沈めたはずの爆撃機が、実は小舟一つ沈めていなかったことを。そして、その結果日本がどのような煉獄に突き進んでいったことを。

事実を直視できない国家がたどる末路は常に哀れなものだ。だからこそ、近代国家とはまじない師の言葉ではなく常に事実に基づいて判断する必要があるのだ。

近代を捨てる覚悟を問う

高度プロフェッショナル制度の法案自体の酷さは言うまでもないが、その採決に至る経緯は、まさに近代国家の最低条件をずたずたに引き裂くものだった。 

与党の一人一人の議員は、今まさに日本が近代国家としての最低条件を自ら投げ捨てていることに気がついているのだろうか。

大正デモクラシーのあとに何が起こったのか。それを我々はよく知っている。与党と維新の議員の一人ひとりに対し、近代を放棄する覚悟があるのか、問いかけたい。

我々は今、歴史の際(きわ)に立っている。