小学二年生のとき痴漢に遭って、母に言ったら「そういう人はいるから、気をつけなさい」と言われた。
中学生のときにもまた痴漢に遭って、母に言ったら「痴漢にすら相手にされなくて自分には魅力がないんじゃないかって
悩んでいるような女の子もいるかもしれない。需要があるだけましと思わないと」と言われた。
それ以降も露出狂や、チャリで追い掛け回してくる人、ノーマルな痴漢など色々遭ったけど、人に言わなくなった。
社会人になって、会社を辞めていった元同僚と居酒屋で3人で飲んだとき、1人が酔いつぶれて寝てしまい、
起きているほうの元同僚に腕を掴まれて壁に押し付けられて無理やりキスされたということがあった。
通りすがりの知らないおじさんに痴漢されることには慣れていたけど、本名も出身大学も学部も好きな小説家も知ってる
一緒に働いたことのある一つ年下の人間から強制わいせつをされたことにはさすがに衝撃を受けてしまい、
母に言う前に、母に言っても良い方向にはならないと予想はついていたから、数か月間は当該元同僚をLINEブロックしただけで
誰にも言わないで黙っていられたんだけど、結局喋ってしまい、しみじみと私は馬鹿なんだろうなと思った。
父親はというと、私が成績が下がったり部活の試合で良い結果が出せなかったとき、ただでさえ落ち込んでいるのに罵倒してきて
良い結果を出せたときは何も言ってこないような人間なので、そもそも会話が無かった。
山口達也が女子高生を家に呼び出して無理やりキスしたというニュースがあった。
女子高生の母親は迎えに来てくれて、事件を明らかにして、泣き寝入りをしないという選択をした。
日大タックル問題では、加害学生と被害学生の両親がそれぞれ、自分の息子を守り戦うという姿勢を見せている。
こうした「泣き寝入りをせず加害者の責任を問う犠牲者」の存在に立腹し、執拗に叩くタイプの人は大勢いる。
泣き寝入りをしない選択は、「犠牲者の落ち度を責めるばかりで加害者は免責する人々」からの猛バッシングを受ける結果を、ほぼ確実に招く。
でも山口達也の被害にあった女子高生とその家族、内田理事の被害に遭った男子大学生とその家族の戦いを見て、時代が明らかに変わっていることを感じた。
あらゆるいじめは加害した側が悪く、変わるべきなのも加害した側であると、現在は心の底から思えるようになった。
加害者に狙われることを出来る限り予防したり、狙われたときの反撃手段を得ることといった、現実的な解決手段は当然必要だ。
でもその前に、被害に遭った自分を痛めつけているだけの人々が、まだ大勢いる。
性被害だけではなく、パワハラなどの労働問題、学校でのいじめもそうだ。老若男女も問わない。被害に遭った自分を責めている人がたくさんいる。
「加害者にとってどこまでも都合の良い犠牲者」として、自分の健康を害し続けている人々がたくさんいる。
母が大学時代に結婚式場としても使われる大きな料亭でバイトしていて、酔客に尻を触られることがよくあったと言っていた。
予備校でバイトをしていたとき、弁護士事務所で秘書をしていたとき、妙な因縁をつけられたりセクハラされたりがあったとも。
全てを母は笑いながら話し、「バブルだったからね、女性だからってだけでイベントに呼ばれて、
参加費無料なのに貴金属もらったりもあった。女は得」という話に繋げて終わらせようとする。
しかし、私が生まれて専業主婦になり私が小学校高学年になってから社会復帰した母は、
社会復帰以降は一切女性らしさを問われないオフィスワークをし続けてきたし、
50代になったいまは髪を短くして私服はジーパンばかりで、かなりの痩せ型であることもあってシルエットに女性らしさがほとんど見えない。
笑い話ではなく素朴な「嫌なことをされた」「それは辛かったね」というやり取りを、
望みながらも叶わなかったのは、母も同じだったのではないかと今は思う。
内田理事の件と、あとはネトウヨに懲戒請求された弁護士の反撃もそうだけども、
犠牲者に法律のリテラシーがあるからこそ互角かそれ以上に戦えるという例は多い。
たいていの被害告発は告発者が戦い慣れておらず、観客は惰性で加害者を擁護して、犠牲者はプライバシーを失いボコられて終わる。
だからme tooの強要なんてできない。それでも、悪いのは常にいじめる方であると言いたい。
被害予防と、万が一被害にあったときの身の守り方は学びながら、過去に被害に遭った自分を責めることはもうやめて欲しい。
加害者には加害者の事情があるだろうけれども、犠牲になった人間が自分の心や生活よりも加害者理解を大事にする必要は一切ない。
軟弱が下衆の肥やしになるのだ
被害者が可哀相で加害者が悪いに同意見。 母親の受け答えには「女性として重宝されることは良いこと」という感性が伺えて時代の傷跡を見る 誰だって望まない被害にはよろこぶことな...