常野さんとの出会い/米田 量

常野さんを最初に知ったのは、不登校50年のインタビュー記事からだった。その時は、特に常野さんに強い印象があったわけではなかったが、不登校が自分の原点であり、そこを参照項にしないと何事も考えられないという強い言葉は記憶に残っていた。

ことそこに関しては、人から何を言われようとも、別のように考えることは拒否すると言っていると思った。この人は理屈を述べていたとしても、理屈の人ではないと思った。彼の結論は、その一点を固持することによっておそらく既に決まっているのだと思った。

 

常野 いまの私の精神病と登校拒否体験が、どう重なるのか重ならないのかはわかりません。でも、私は登校拒否という体験が自分の原点だと思っていて、なんでも登校拒否とつなげて考えようとするところがあります。大学ではフェミニズムやカルチュラルスタディーズを勉強しましたが、常に登校拒否体験を参照しながら、そういう理論を学んでいました。

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山下 ご自身のなかで、何がそんなにworseなのですか。
常野 精神の病が問題ですかね。あと、バイトは再開するかもしれませんが、現時点で無職で、障害年金はもらっていますが、将来の経済的な心配があります。
山下 くどいようですが、それは登校拒否経験とダイレクトにつながっているんでしょうか。
常野 先ほども言いましたが、私の人生の原点は登校拒否なので、すべてのことは登校拒否とつながっているんです。そこを参照項としながらでないと、何ごとも考えられません。

 

そしてこのインタビューを読んで一週間後ぐらいに常野さんは急に亡くなった。知ったばかりの人がこの短い間に亡くなることに衝撃を受けた。加えて常野さんは自分より二歳若かった。常野さんという個人の実際を全く知らない。しかし常野さんの死は僕の感じ方を変えた。

僕も中学二年から不登校だった。大検をとり、学部では偏差値が高いところは落ちたのに、大学院進学で試験が英語と小論文だけだった京大に入って、学歴が高くなった。全く不適応だったが、学歴はステイタスになってその後人から認められやすくなった。

もちろん常野さんのほうが圧倒的に優秀なのだけれど、何か自分と常野さんが同じような感じがしたので揺り動かされたのだろう。

それまで僕にとって、今後もしばらく生きていかなければならないというのは重いことだった。正社員になるようなメンタルも動機もなく、不安定で、なにがしかの自営業ができればと思いつつ、何年経っても自営業の確立はできなかった。フリーターとして、事故や病気がなければ、この先10年ぐらいは普通に生きられるだろう。だが年も40をこえ、今の生活はだんだんとではあるが、不本意に目減りしていくもののように思えていた。

週に2回の夜勤以外は自由で、時間がある生活をしている。だがその時間を持て余していた。だが持て余していたといっても、その時間を「将来のために」何か資格でもとって確実にしていくというようなことに割く動機は全然生まれなかった。さして面白いとも思ってないのにSNSで時間を潰すようなだらだらした時間を過ごしていた。

ところが常野さんの死後、ふと気づくと時間を持て余して辛いと思うようなことはなくなっていた。時間があるのにそれを「有意義」に使えないのに苦しむという自家中毒のような状態が薄れていた。一方、だらだらと時間を潰すSNSやネットが本当につまらないという感覚が高まった。惰性で興味をもったふりをしていたことに対して、エネルギーを割くことができなくなった。自分を充す次の何かに移行できているわけではないが、こういうふうにつまらなさがいっぱいになるということは、いい高まりだと思う。今まで踏み出さなかったことに少し踏み出すようなことが多くなった。

 

もう一つ、常野さんの生き方から自分を見ることができたことがある。

それは彼の強烈に実感を求めるような生き方からだ。

ネットで少し検索した程度の情報だけれど、常野さんが東浩紀さんの番組に乗り込んだり、ヘイトスピーチのカウンターとしてその身を投げ出したこと、不登校を醜いものとして受け入れさせるというような、世間と厳しく対峙するスタンスをとることなどは、彼にとって必要な、極度に強い精神的実感をもたらすためにあったのではないかと僕には思えた。

常野さんは強烈に対象とぶつかることを生きていたのではないかと思った。その思想についても、冒頭に転載した山下さんとのやりとりから想像されるのは、思想はいわば常野さんが強烈に闘う必然を提供する理由としてあればそれでよかったのではないか。

栗田隆子さんの常野さんへのメッセージのなかにも、常野さんの「恐ろしいほどの酒量」と「絶え間ない喫煙」についての言及があった。抱えきれないものを抱え、それを生きるということを常野さんはしていたのではないか。

 

私は常野さんの、特に亡くなる最後の1年くらいの震える手、恐ろしいほどの酒量、絶え間ない喫煙の姿に対して、本当に失礼だと思いつつも、「生きづらさ」という言葉がどうしても頭をよぎってしまった

 

自分の不登校時におこったことを思い出していた。強烈なさいなみがあって、自分がそれまで拠っていた自分が破綻したとき、今後経済的に豊かになるとか、結婚して家庭をつくるとか、そういうものはもう自分を動かす動機にはならなくなっていた。それを得るために今の苦しみを我慢するとか、何の割りにもあわなかった。そんな虚しい「人参」ではもう動けなくなっていた。

廃人のようにやる気がなくなって、(死ねもしないのに)無理して生きるなら死んだほうがいいというのが自分のリアリティになった。別にそんなリアリティを持つことがいいとは思っていないが、どうにもならなかった。今のところ何をやってもそのリアリティなのだ。わけわからないことに踏ん張るのがもう嫌だし、やろうとしてもできなかった。虚しくてできない。

何か強烈な自己破綻の体験をした人は、実際に体やリアリティが変わってしまって、もうそのようにしか体を動かせないし、自分を動機づけることができなくなるのではと思う。僕は人にぶつかるということについては極度に恐れがあった。それを避けて行き詰まりをつくるという生き方だった。

一方、能力もあり、人にぶつかることも恐れない常野さんは、自分自身のリアリティを表現するために、強烈にぶつかれるものにぶつかっていくことに動機づけられていたように見えた。それは自分に巣食うさいなみを強烈さをもって打ち消すことであり、その表現をもって世界と関わっていくことであるのかと思った。

問題を解決し、長く生きるのがいいと前提している人にとっては、常野さんの強烈な生き方は本当に自分に向き合ったものではなく、強烈な実感を得ることで向き合いを避けたと捉えられるかもしれないと思う。

けれど、僕は今、そういう成熟志向とかどうでもいいもののように思える。

北海道のべてるの家の人たちは強烈にエネルギーを使ったため、寿命が短いことも多いらしい。問題を解決しなかったりしないまま死んだらその生は残念だったり、中途半端だったのだろうか。

 

正しさというものがあるだろうか。

何かあるべき到着点を設定するなら、ある行為は無駄であったり、足りなかったりするだろう。だが誰もがその「ゴール」に到着するために十分な時間や資源を持ちうるだろうか? 僕には世界はまるでそのようには思えない。与えられるものも奪われるものも自分で決めることはできない。

持っているものでできるだけのことをした。世界と自分なりのぶつかりをした。個人としてやることは、それだけではないだろうか。人の納得というところにおいて重要なことは、自分として持っているものを使って、溜まっていたものを十分に出したかどうかなのではないか。

 

直接会ってもない常野さんについて思ったことは、全て勝手な想像だ。だが常野さんのその生き方が僕に状態の移行をもたらした。僕は常野さんの死によってつかまっている沼から少し移行することができた。それは確かだ。勝手ながら、常野さんは、別の可能性を生きた自分として認識され、それが僕の日々の感じ方を不可逆的に変えた。これが僕の常野さんとの出会いだ。

誰かが亡くなると、その人は詩になるのかと思った。自分にとって、その人は何かの一つのメッセージとして、一つの問いとして、せまってくる。

 

2018年5月24日 米田 量