2018-05-23

自分自分を嫌いになった10代半ばの頃から自分の行動原理他人だった。

人間関係の中で劣等感や、傷つく事が多かったので、その悔しさをバネに何かを頑張り、同じ思いをしたくないのでその他の事を頑張ろう。その為に何か行動を起こそう。

他人反面教師にし、傷つけない。

ずっとそう思って行動をするようにしていた。

しかしここの思考道筋が間違っているかもしれないと感じるようになった。

劣等感を感じる自分と、行動を起こす自分は違う自分なんじゃないか

劣等感は行動の動機となり得ないのではないか

そもそも、行動とは2つを破壊する事ではないか

自分の行動の動機受動である

行動の帰結他者から評価される為に、という赤色の引き金がついて回る。

ここにあるのはあくま他者目線であり、その行動は自分の糧にはなり得ない。なぜなら、自分が嫌いな事をやらされているのだから

インプットしても、情報マイナス感情に包まれ、後には全く残ら ない。

行動したという事に満足して無駄になる。やってもやっても効果が出なくて途方にくれる。

もっと根源的な理由

ならば自分を好きになり自分を認めよう。よく言われる言葉だが、

自分はこの言葉が大嫌いだ。こんな厚顔無恥言葉は無いと思っている。

自分が好きな奴ほど醜い奴はいない。

自分から進んで望んだ事。本当に好きな事を語れる人が心底妬ましい。好きな事をやっている、という無邪気さが自分を追い立てる。

どちらかを選ぶ時が来たと思った。

自分を好きになり自分の為に生きるというかつて軽蔑していた豚の生き方か、今のまま他人の為に、という下らない理想を抱き続けるか。

おそらく後者方法を取れば自分自分を殺さねばならない時が来る。

かつて嫌いだったモノに自分がならなければいけないという茶番

自己詐称

自分他人か。生か死か。東と西。

今日は一日中雨だったなぁ。

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