少し前になりますが、『リズと青い鳥』を観てきました。昨年公開の『届けたいメロディ』を観そびれてしまっていたので、せめてこっちだけはと。
こういうふうに読めましたという、感想というか主張みたいなものを書いていきます。当然ながら、映画本編ほか『ユーフォ』シリーズのネタバレだらけです。観てない人はまず観てきてください。割と混んでましたよ。
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◆カルテとしての『リズと青い鳥』
もちろん演出技法は素晴らしかったですし、特にBGMとふたりの足音のコラボレーション(それも微妙に連動していない点)は感動的でした。ただ、その話はほかの誰かが散々語ってくれていることでしょうから、ここでは省略します。あくまでも、物語としてどうであったかというところに焦点を当てていきましょう。
一言で言えば、『リズと青い鳥』は現代に蔓延るふたつの病を結果的に表していた、と読むことができました。ひとつはメンヘラ、もうひとつはオタク。詳しくは各項で説明します。
ヒロインに据えられた鎧塚みぞれと傘木希美というふたりの少女が、それぞれどのような病に罹患していて、そしてどのような薬が処方されたのか。そんなカルテとしての『リズと青い鳥』の読み方を提示していきます。
前提として、青い鳥とはメーテルリンクの『青い鳥』を引用した、幸せの象徴であるものと捉えています。そうでなければ、青い鳥をわざわざ使う意味はないでしょう。
映画『リズと青い鳥』オリジナルサウンドトラック「girls,dance,staircase」
◆症例1:鎧塚みぞれとメンヘラ
★特定の他者に過剰に依存する
鎧塚みぞれの症状は、過剰な他者依存。暗い性格で友達もできず、アイデンティティ不全に陥っていた、そんなときに目の前に現れた青い鳥=希美によって救われました。ただしその救いは、あくまで希美がいる限りにおいて。
だからこそ、希美とのつながりをどうにかして保とうとし、それ以外の他者は基本的に無視を貫きます。自由曲「リズと青い鳥」を吹く日など来ないまま一生希美と合わせていたいし、ふたりだけの空間に他者が介入すれば露骨に嫌そうな顔をします。
希美がいるから幸せということは、希美がいなければ幸せになれないということ。少なくともみぞれはそう思っています。こういうところが、『ユーフォ2』4話で田中あすかが指摘した、みぞれの「ズルい」部分です。「独りが怖い」から希美に依存し、「優子ちゃんは保険」なわけです。
こういう依存体質は、一般的にはメンヘラと呼ばれています。もともとはもう少し丁寧な定義があったと思いますが、ヤンデレと対置されるようになった今はこれくらいの意味で捉えておいて大丈夫でしょう。
★特効薬としての剣崎梨々花
ではそんなメンヘラ少女・鎧塚みぞれに処方された薬は何か。それは非常によく効く特効薬、ゆるいコミュニティへの参加でした。
そもそも依存とは自己のアイデンティティ不全、すなわち自分を世界のどこに置けばいいのか分からなくなっているとき、その置き場として機能するものが1つしかない場合に起こります。ならば効果的な治療法は、置き場を複数用意してあげること。
そして、その特効薬として機能したのが、みぞれの後輩・剣崎梨々花でした。ファゴット・オーボエのメンバーが集まった「ダブルリードの会」の結成とお茶会を提案し、何度も玉砕しながらも、次第にみぞれの心を覆う氷を溶かしていきました。
最終的には、みぞれが「ダブルリードの会」をプールに誘ったり、一緒に練習をしたりするようになります。これだけで万事解決とまで言うことは難しいですが、少なくともみぞれは、剣崎梨々花と「ダブルリードの会」の存在なくしては、自分がリズではなく青い鳥だったという読み替えをすることはできなかったでしょう。
ポイントは、希美や「保険」たる吉川優子が個人であったのに対し、「ダブルリードの会」は集団であること。一対一の関係性に終始しようとすると、どうしたってそれだけで閉じてしまいます。開放的な場を獲得したからこそ、みぞれはアイデンティティ不全を克服し、自分から希美に抱きつくことができた=他者によってではなく自分によって自分を表現できたのです。
響け! ユーフォニアム 北宇治高校吹奏楽部、波乱の第二楽章 前編 (宝島社文庫)
★毒にも薬にもなるオーボエ
『ユーフォ2』4話で、みぞれは黄前久美子に言いました。オーボエは「私と希美をつなぐもの」であると。そんな理由で楽器をやっている人間がいると思っていなかった久美子は、驚きと戸惑いを覚えます。
それはそうで、久美子にとってユーフォニアムとは、上手くなりたいもの=”特別”な自己を表現するツールとしての機能を持つものでした。対してみぞれにとっての(その時点での)オーボエとは、吹くことで希美とのつながりを確認して安心するためだけの、依存性のある毒のようなものだったのです。
ただし、幸か不幸か、みぞれには十分な技量がありました。それは毒としてひたすら摂取していたことによるのかもしれませんが、そのことで逆に、みぞれにとってのアイデンティティ形成のもうひとつの薬ともなります。
それを端的に表しているのが、新山先生に音大への道を勧められたエピソード。これによって希美の症状も明らかになりますが(詳しくは後ほど)、別に希美に依存するまでもなく、みぞれはいつの間にか自己を自分で表現できるツールを獲得していたというわけです。
だから、みぞれは音大を目指します。それが何者にもよらない自分のあり方だから。みぞれにはある程度、希望的な未来が見えました。
◆症例2:傘木希美とオタク
★現実に絶望し理想に酔いしれる
問題となるのはむしろこちらでしょう。傘木希美の症状は深刻です。結論から言えば、希美のそれは一般的に青い鳥症候群と呼ばれるもの。高過ぎる理想とつまらない現実との落差に絶望し、自分にとって何が幸せであるかを見失い、叶いもしない夢を見るロマンチストであろうとします。
恐らく、希美は実のところ吹奏楽やフルートそれ自体にそこまで強い思い入れがあるわけではなく、何かに真剣であるフリをするときにアイデンティティを得られると感じているのでしょう。だからこそ1年生のとき、真面目に活動しなかった吹奏楽部に嫌気が差して、部活を辞めてしまったのです。フルートそのものが好きなら、その選択肢はありえなかったはずですから。
ただし、そもそもそのアイデンティティは一時的に偽造されるものでしかありません。本当に熱狂的に打ち込める何かを見つけられていない希美は、そんな何かを見つけたいという欲望だけを空回りさせていきます。結果的に希美は、叶わぬ理想に思いを馳せるだけの、見つからないはずの青い鳥を探し求めるだけの存在と化しています。
これが何に符合するかというと、オタクです。ただし、鉄道オタクやパソコンオタクのようなものとは違います。ここでいうオタクは、いわゆる萌え豚。アニメで理想的なキャラクターの理想的な日常を堪能し、一方で現実では厳しい学業や労働に従事している人たち。そこそこ仲間もいて、それなりに充実した生活を送っているはずなのに、彼女がいないなどとSNSで不幸芸をしてみせているような人たち。そして、申し訳ないですが、本編ラストでみぞれが希美に抱きつくシーンを尊いと感じ、それが頭から離れないあなたのことです。違ったら失敬。
この映画のよくできているところは、観客をひたすらにリズ視点へ導く点。観客がなぜあのシーンに萌えるかといえば、「リズと青い鳥」第三楽章でみぞれが見事なオーボエを吹くシーン以降、観客の感情移入先がみぞれではなく希美になっているからです。それはこのシーンの直前で、リズを象徴するキャラクターがみぞれから希美にすり替えられていることに起因します。現実では一貫してリズでしかないオタクは、青い鳥=みぞれに承認されるリズ=希美に共感して涙するわけです。
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★麻酔薬としての鎧塚みぞれ
現実に絶望している希美。その絶望の感覚をなかったことにさせてくれる麻酔薬として、希美はみぞれを利用していました。
それが最もよく表れるのが、前述したみぞれの音大志望の一件。みぞれが音大のパンフレットを持っているのを見た希美は、「私、この大学受けようかな」と発言します。当然みぞれも「希美が受けるなら、私も」と返すわけですが、希美はここで、みぞれがこう返してくることを半ば承知のうえで発言しているのだと思います。
そうでなくとも、大好きのハグに応じようとしない、自分より上手いはずのみぞれに口パクで『頑張って』などと伝える(口パクなので正確に何と言ったかは分かりませんが、ラストの発言からこう推定されます)、あがた祭りに(これまた恐らくはOK前提で)誘ってみるなど、あたかも自分がみぞれをコントロールしているかのように振舞います。
そもそもふたりの関係の始まり、中学時代に希美がみぞれを誘ったのだって動機が不明です。なぜクラスで浮いていたみぞれにわざわざ話しかけ、吹奏楽部に入ろうなどと言ったのでしょう。希美はこのときのことを「よく覚えていない」と言いましたが、実際には風景やセリフまではっきりと覚えています。希美にとってこのことが、ちょっとした気まぐれの慈善行為などではない、印象的な思い出であることが分かります。なぜ印象的かといえば、それで自分が安心できたから。
ラストでは、才能のない自分が何となく変われると思ったから、空虚な理想として音大志望を口走ってみたのだということを、希美自身が認めます。これを告白してもなお自分を「特別」だと言ってくれるみぞれがいることが希美にとっての救いであり、そして観客としては一番の萌えポイントとなります。
以下は山田尚子監督のインタビュー記事からの抜粋です。
希美にとって、「みぞれのオーボエが好き」という言葉って、たぶん一番言いたくなかった言葉だと思うんです。みぞれの才能を認めて、自分の負けを認めることは、一番やりたくなかったことだけれど、頑張って、その言葉をひねり出して伝えた。その時の一つ区切りがついたような希美の感覚を大切にしたかったんです。
出典:https://a.excite.co.jp/News/reviewmov/20180425/E1524583422500.html
要するに、「みぞれのオーボエが好き」というのはみぞれに対する希美の敗北宣言であり、絶望的な現実を受け入れることだったというわけです。結果、希美は理想としてのみぞれを利用して得る虚構のアイデンティティを捨て、一般受験のための勉強を始めることになります。
ところで、希美は解放された青い鳥について「また帰ってくればいいのに」と発言しています。ここから意地悪な読み方をすると、希美はあのラストで、前提として自分を受け入れてくれると分かっていたうえで、みぞれ=青い鳥に対して自分を見損なわせるようなパフォーマンスをした、と考えることもできます。
そもそも、みぞれが青い鳥に自己投影をしたとき感じたように、リズはズル過ぎるのです。「これが私の愛のかたち」と言って扉を開け放つリズを前にすれば、リズのことが大好きな青い鳥は「飛び立つしかない」わけですから。
もしそうだとすれば、希美の病理は消えていません。単にみぞれを閉じ込める鳥籠が大きくなっただけ。みぞれがいつかそれに気付いたときがふたりの終わりであり、それまでに希美が本当の意味でみぞれを解き放つことが必要です。
★諸刃の剣となりうる下方修正
現実を受け入れて自己像を下方修正するのは、もちろん重要なことです。ただ、何でもかんでも「これが現実だ」と諦めるのは、果たして健全なあり方といえるでしょうか。
極端なことから言うと、希美にはまず、音大を諦めずに本気で頑張ってみるという選択肢がありました。過大な自己像をあえて修正せず、それに見合った自分になれるよう手を動かす。仮に成功しなかったにしても、そうやって本気で過ごした半年は、希美にとってその後の人生を変える十分な原体験になったはずです。
実際にはそうはせず一般受験を選んだ希美ですが、恐らくは大学も学部もしっかり考えてはいないでしょう。少なくない高校生が同じような思考回路で大学受験に臨んでいる現実があるとは思いますが(私だってそうでした)、それがマジョリティだから正当化できるかといえば、そんなことはありません。この希美の選択は、せいぜい問題を先送りにした程度です。
もちろん、先送りにした後しっかり取り組んでくれれば、それで構いません。大学に入ってから自分にとって大切な何かを探すのも、決して遅くはありませんから。ただ、目の前の現実に甘んじ続けて下方修正を繰り返し、結果何もしないまま沈んでいく……なんてことにはなってほしくないですね。
◆みぞれと希美を踏まえて、私たちはどう生きるか
あくまで鎧塚みぞれと傘木希美という「互いに素(disjoint)」なふたりの繊細な関係性に焦点を当てた『リズと青い鳥』ですが、ここから私たちのいるこのリアルに持ち帰れるものがあったとすれば、以上のような点だといえるでしょう。
メンヘラにせよオタクにせよ、根底にあるのはアイデンティティ不全。自分の立ち位置が分からないとき、他者や過大な理想に自己を預けて、安易に安定を得ようとしてしまいます。しかしその安定は、非常に脆いものでしかありません。
本当に安定した自己を手に入れたければ、大事なものをなるべく多く持っておくことが大切です。自分にとって何が大切か、今一度考えてみるといいんじゃないでしょうか。あとは、そうですね、いろんな人にとっての青い鳥になればいいんだと思います。不可避にリズになる私たちですが、同時に青い鳥になることで、私たちは紫色の存在になれます。
「物語はハッピーエンドが一番」ですから、自分の人生という物語がハッピーエンドで終われるよう、ちょっと頑張ってみるといいかもしれません。私も頑張ります。
味噌汁ぶっかけは許してほしいなぁ……。