「『底辺校』出身の田舎者が、東大に入って絶望した理由」(http://gendai.ismedia.jp/articles/-/55353)
この記事を書いた阿部幸大氏は、1980年代に釧路で生まれ、地元の高校を卒業。東大進学を経て、現在はアメリカ・ニューヨーク州で学術研究生活を送っている。自らのこの経歴を顧みて、氏は教育格差と地域格差が重なった現代日本の姿をリアルに描いている。
これが大きな反響を呼んだという。地域と学歴にかかわる分断状況への関心が、それほど高まっているということだろう。氏の出自の「田舎」と、到達した「東大」は、まさに別世界だ。この両極の間には、容易に乗り越えがたい分断が確かにある。
もっとも、描かれたストーリー自体は、私には既視感のあるものだった。そのあらすじが、程度の差はあれ、2016年に全米ベストセラーとなった『ヒルビリー・エレジー』と瓜二つだったからだ。
こちらの著者J・D・ヴァンスも、やはり80年代生まれで、アメリカ中部ラストベルトの失業、怠業、低賃金、麻薬や少年犯罪、家族の崩壊などが蔓延する田舎町から一人抜け出し、紆余曲折を経てアイビーリーグのイェール大学のロースクールへの進学を果たし、青年実業家としての成功を勝ち得ている。
ヴァンスは、自らが見た上下2つの「世界」の落差を描き、今のアメリカ社会の分断状況を白日のもとにさらした。おりしもトランプが大統領選に勝利したタイミングであり、この自伝は、アメリカ社会における秘かな分断の進行を考えるきっかけともなった。
翻って、近代以降の日本を思い返してみると、そこでも「田舎」と「東大」の対比の構図が好まれていたことが思い出される。
夏目漱石の一連の作品でも、川端康成の『伊豆の踊子』でも、司馬遼太郎の『坂の上の雲』でもこのモチーフが使われている。著名な経営者の立志伝では、田舎からの大学進学は定番中の定番エピソードだったし、NHKの朝の連続テレビ小説の半数以上は、世間を知らない地方女子が、大都会に進学・流出するストーリー構成だ。
問題はここからだ。こんな単純で古典的な構図の話なのに、なぜ今になってこの記事が多くの現代人の心の琴線に触れたのだろうか。そこに私は、時代が新局面に入っているということを感じ取った。
アメリカであれ日本であれ、社会が右肩上がりに成長していた時代には、子どもが親より高い学歴を経て、親とは異なる地位に至るのは当たり前のことだった。だから、社会階級の上層と下層を、自らの人生の経過の中で複眼的にみることができる人は数多くいた。
しかし今は、分断線の向こう側の世界を全く知らないまま、同じ生活環境で生まれ育ってきた人たちが、若い世代を中心に数を増している。だから阿部氏の生い立ちをみて、「こんなことがあるんだ/いや、あるわけがない!」という新鮮な驚きが表明されたのではないか。
このような社会の分断は、集団間関係の隔絶によって決定的なものになる。
ただ上下差があるということだけなら、格差という言葉を使っていれば事足りる。だが、それが膠着し、集団間の交流がなくなり、「あちら側とこちら側では、人生・生活が全く交わらない」という社会システムの機能不全が生じたとき、格差社会は分断社会に変わるのだ。
アメリカでは、WASP階級とヒスパニック移民層は別々の言語を使い、異なる街区に住み、別の店で異なる商品を買い、別々の教会に行く。イギリスでも、中産階級と労働者階級が異なる政策を支持し、異なる文化をもつ。この危うい状態から、共生の理念が失われると、容易に分断社会が到来することになる。