少年時代、僕は努力礼賛者だった。全てが欲しかった。学業の成績もスポーツのレギュラーも異性からのモテも全部欲しかった。でも、全部思い通りに行かなくてスーパーマンにはなれなかった。勉強は高校生になってから成績が振るわなくなったし、スポーツはあと一人を超えられなくてレギュラーになれず、ファッションを頑張って多少女の子からモテても、結局は好きな人と両想いになれなければ意味が無いと感じた。
結局、社会を構成する人として当たり前の事を当たり前にやって、好きな事を使ってなんとか自分の世界を構築していく事が大切なのかなと大人になった今では思う。僕は本や読書、文章やWEBでのコミュニケーションが好きだった。 だから今はWEBを使って文章やコンテンツを作ってお金を小刻みにだが稼いでいる。
学校ではロボットみたいに規格化される人間でいるような事が求められいたが、もはや産業社会が終わりつつある情報社会ではそういう普通の人の価値は下がって行くし、多少問題を抱えている人間でも生きていけたり一人前の顔をできる世の中になるのではないかなと思う。それこそが真の個性である。
昔は同性愛者というと大きな問題だったが、今ではそういう差別を無くそうという動きがある。障害を抱えている人にも居場所が与えられている。そういう世の中になってきているのだ。僕の感覚では上の世代ほど常識や世間体や当たり前のハードルが高く、人を差別する酷い人が多い。
僕は大人が嫌いだ。いや、上の世代が苦手なのかもしれない。それとも、子どもの頃に与えられた受けさせられた教育が肌に合わなかったからかもしれない。とにかく社会への苦手意識が強い。でも、何とかそれなりには生きている。普通と言う言葉が辛いなと思うようになったのは自分自身が普通になり切れなかったからだ。
僕は頑張りたくない。いや、頑張るんだけどもう頑張っても勝てない事だらけだ。悲しいけれども、僕は感情を殺したロボットみたいに合理的に振舞ったり演技をしたり、誰かを露骨な風に攻撃したり裏切るのはフェアじゃないと思う。でも、社会はそういう人間が好まれたり上手に立ち回るんだろう。
仮面を外して生きたい。いつからかそう思った。仮面を外して生きるとは素で生きるという事、ありのままで生きるという事、当然ながらそれはモロに様々な影響を受ける。素で振舞って否定されればとても悲しいし、素で振舞って肯定されればとても嬉しい。全員と上手くやる事はできないけれども、誰かが僕の事を気に入ってくれたり好きだと言ってくれたり、必要としてくれればありがたい。
然りの境地に立とうとするのはとても辛いけれども、それだけの価値があるのではないかなと思う。泥まみれの少年期の青春を終えて、死にかけた青年期を終えて、大人になった僕はフラフラと生きているけれども、楽しいよ。今辛い人も自分の好きな事やできる事や得意な事で自分を出していけたら良いね。あなたの場所はきっとあるよ。