言葉を使おう。言葉を大切にしよう。言葉は時に人の人生に力を授ける。クラスに誰も友達ができなかった僕は学生時代に書物を友としていた。何故だかクラスメイトが少し幼稚に見えて歩み寄れなかった自分がいた。今思えば情けない話である。書物の中のドストエフスキー先生やゲーテ先生は僕の人生を豊かにしたけれども、今でも気軽に会える学生時代の友人は一人もいない。今ある仲間は大人になってから出会った人ばかりだ。
言葉に興味が湧いたのはきっと本ばかり読んでいたからだろう。本は良い物だと言われ、本を読み続ければ何か人生の答えみたいな事がわかると思っていた。だけれども、肝心な事は大人でも様々な事を経験して表現している作家でさえもあまりわかっていなかった。そのような事に気付けるのにどれだけの時間がかかっただろうか。僕はオジサンになってしまった。
ドストエフスキーは賭博をする為に作品を生み出し続けていたとする。他にも酒や女に溺れた作家や同性愛者の作家などもいる。家庭環境が複雑な作家や社会的マイノリティ、精神的にボロボロの人間が生み出したものが結局は小説や文学と言うものなのだと気付いた。
人生に悩み続けている弱った少年がそのような人間が書いた心を描いたようなものを真に受けてしまうと心がやられる。僕も結局はボロボロの心の中で複雑な人間ドラマの数々を受けて止めが刺されてしまったのだろうか。少年期の終わりの頃は病んでいた。
クラスで上手に友達が作れず、古典文学を愛する少年時代。当時はそれがカッコイイと思っていたり正しいと思っていたのだが、今振り返ると少しヤバい少年である。皆が休み時間に校庭でサッカーをしたり冬にストーブでふざけてお餅を焼いている中、カフカやカミュを読んでいる青春。
- 作者: フランツ・カフカ,Franz Kafka,高橋義孝
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自分なりに言葉を扱ったり、文章を扱うのが好きになったのはきっとこの頃の経験が大きいのだろうけれども、来世生まれ変わったならば高校時代くらいは呑気に仲間と遊んでみたりしたいものだ。結局は当時は悩みに押しつぶされそうな中で探り探り人間関係をやって、消耗しながら日々を過ごしていた。
この僕のブログは所謂、言葉遊びのようなもので日記やエッセイのようなものだと思っているのだが、こういうアウトプットの場を設けると非常に心がスッキリする。誰にも見せない日記でも良いと思う。とにかく自分の考えを毎日毎日出してスッキリするような習慣をつけたらどうだろうか。
もしタイムマシーンがあって過去の自分にもう一度会えるのならば、学生時代の自分に会って日記やブログでも書いてみな、スッキリするよ。と言ってあげたい。そうはいっても歴史に「もしも」というものは無いから仕方が無いのだけれども。悩みぬいたからこそ、今の子の言葉遊びを楽しめている。あなたは言葉遊びをしてますか?