ニャート

旧「一橋を出てニートになりました」。出版社を過労で退職→引きこもり→派遣社員を経て、働き方や社会のあり方について思うことを書いています。

「正しく」よりも「やさしく」ありたい、そのためのメモ

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goldheadさんの「栗城史多さんの事故について」への下記のコメントに、自分のブログのあり方を考えさせられた。

この人の文章はいつも良い悪いとか正しいか間違いかの前に、一番弱くて愚かな者に寄り添ってる。本人そんな大層なつもりないやろけど、でも常に優しさを感じる。正しいことだけ好きな人はそういう世界で生きればいい

愚かな者に寄り添う。
いい言葉だ。

常に感じていた、goldheadさんと私との器の違いが何なのか、やっと自覚できた。
私には、愚かな者に寄り添える度量とやさしさが足りない。

ここでは、栗城氏についての意見は書かない。
栗城氏は「正しい」登山家の批判を受け入れるべきだったという意見があり、その通りではあったと思う。

しかし、goldheadさんのように「栗城氏のことはよく知らないけど、ラジオの話は面白かったし、悪いやつじゃない」と思う人もいていい。
皆が皆、栗城氏の行動を「正しく」評価して批判しなければならないわけではない。
多様な意見があり、それを素直に言える場がある世の中のほうが、絶対良い。


このコメントが心に突き刺さったのには、一つ理由がある。
3月から今まで、持病が悪化してネットを見られなかった間に、一人のうつ病ブロガーさんが自ブログを削除していたのだ。

調べたら、彼女をよく思わない人たちが、匿名掲示板で彼女の父親を特定して個人情報を流したため、本人が掲示板で謝罪しブログなどを削除したらしい。

彼女は、主に下記について批判されていた。

  • ブログやtwitterで楽しくゲームなどに興じる様子が見られるが、障害年金2級は妥当なのか
  • 遊べるほどの元気があるなら、デイケアに通うなど働くための努力をすべきだ
  • うつ病ブロガーは少ないので、彼女が代表のように目立っているのがいやだ
  • そもそも本当にうつ病なのか(この指摘をした人は、彼女に限らず精神疾患すべてを気のせいだと評価している)

彼女を批判している人は、(彼女よりも金額が少ない)障害年金3級をもらっていたり、健康だけど仕事が続かなかったりする人たちだった。

中には、ブログが消えただけでは満足せず、彼女自身が「消える」まで叩き続けると言う人もいた。
ネットでしか知らない人に対して、そこまでの憎しみを抱く人は、リアルな世界で何かしら追いつめられているのだと思う。そう思うと気の毒でもある。

弱い人がより弱い人を叩く、日本社会を縮小したようなその構図に、やり切れなさを感じた。

私がこの騒動で思ったことは、

  • 「正しい」うつ病患者とは何か
  • 「正しさ」を追求するあまり、彼女をブログ削除にまで追い込んだ行為は「正しい」のか

ということだった。

批判した人たちが想定する「正しい」うつ病患者は、おそらく、

  • ずっと寝たきりでブログやtwitterなどできない
  • 少しよくなってきたなら、遊んでいないで社会復帰のための努力をする

という患者なのだろう。

彼女を批判する中には、同じく精神疾患を抱えている人たちもいた。
彼女を「正しくない」と批判することは、自らのあり方も狭めることになる。

うつ病患者は、必ずしも寝たきりではなく、いろんな症状の人がいる、とゆるく定義しておいた方が、自分自身も生きやすいと思うのだが。

私は、人の本音を読むのが好きなので、彼女のブログは面白かった。
彼女を批判する人たちがカチンときたポイントも理解できるが、そんなことより面白いブログが読みたかった。

私も精神疾患持ちだが、障害年金等を利用したことはない。
だけど、利用している人をずるいとは全く思わない。
利用できるものは利用して、より負担少なく生きる方が、病気だって治りやすいし生きやすい。
私は働き続けているが、実家が裕福で、両親に心の余裕があるのなら甘えたってよいと思う(うちはどちらも無理だが)。

何より、他人を攻撃するくらいなら、そのエネルギーを病気回復のために取っておきたい。
人を敵視し続けるのは、とても疲れる。

精神疾患持ちだからこそ、強い感情は持たずに、省エネで生きたい。

さらに、彼女を「うつ病患者として正しくない」と批判して、父親を特定しブログ削除に追い込んだ人たちは、その行為を「正しい」と思っているのか。
それは、ただの私刑だ。

表現の場を奪われて、彼女が自殺するかもしれないとは思わなかったのだろうか。
むしろ、それが望みなのか。

自分の行為を「正しい」と盲信して突き進むことは恐ろしい。
「正しく」よりも「やさしく」ありたい。

人は、常に「正しい」選択肢を選べるとは限らない。
間違った選択肢を選んでしまった人を、「正しくない」「自己責任」と責めても、生きやすい世の中にはならない。
それよりも、なぜ選択を間違えてしまったのか、その背景に寄り添えるようになりたい、と強く思ったのでメモしておく。