結構前に指を凍傷で切り落としたとかいうニュースを見たことがあった。その時は登山家大変だな、どうしたらそんな危険なことできるんだろうなあ程度しか思っていなかった。
ところが死んでからこの方が随分しんどい立場に追いやられていたんだなあと理解できた。ほうぼうからのニュースを見るに登山家としてとりわけ実績があるわけでも、天才だったわけでもないようだ。にもかかわらず知名度や立場はあるという割と不思議な立場にあったということだろう。
だが日本ではままあることで、小保方晴子氏とかAKBとかもこの位置なんじゃないだろうか。何故か大した実績も能力もないということが客観的にわかるはずなのにメディアが看板として使うということがある。栗城氏が可愛そうなのは命に関わるジャンルで持ち上げられ活動に誘導させられたということだ。
誰でも成功者に憧れることがある。どの分野でもいいから成功して褒められてお金持ちになって、そんな風に思う。だがどこまで行っても俗物根性にはか弱いメンタルしかつかない。
漫画みたいな天才として将棋の藤井7段や野球の大谷選手が挙げられるが、彼らは金や名誉よりも自分の好きなこと、一日中やっていられることに夢中であることが傍からでもわかる。成功者が名誉を求めないとは思わないが、自分ができもしないことで成功を夢見ているわけではないだろう。
自分の大好きなことで、夢中になれることで邁進した結果、誰もその分野で並ばないなんてことはあるかもしれないが、一つ一つ成功を積み上げることができないことで頂点に立つなんてことはありえないだろう。
たいていの普通の人はそこで自分にゃ無理だな、と謙虚になって大言壮語を吐かなくなって、周りにも趣味程度でやっているんですよ、なんて言ったりして、奴らとは違うことを腹におさめる。
だが時折、それができないのか、やりたくないのか、とにかく天才達の舞台に上がってしまう凡人がいるようだ。それらは大衆からすればマイナーな分野でそれは起こりやすいように見える。リケジョという人材不足のステージで不相応な立場を手に入れた結果マスコミに祭り上げられ、不正がバレて失墜した小保方晴子なんかもその例のように思う。
登山ファンには失礼だが、この分野はそんなに衆目の目を集めているようには思えない。同じスポーツでも野球選手なみに稼いでいるようには思わない。特に日本では。だからこそ、業界メディアは衆目を集めるスタープレーヤーを必要としていたのだろう。本人も凡人であることに気づいていながらそれを認めて退場することを選ばずに、プロの土俵に残った。メディアはそれを利用した。
栗城氏は35歳。僕は31歳だからわかるんだけど、この年ぐらいになると地に足の着いた立場が欲しくなる。家庭でも出世でもいいんだけど、偽物と罵られない程度の、勲章のようなもんが。比較的若いけれど、まだまだ若いって言えない時期。インタビューを見ても、ちょっと焦りがあるんじゃないかと思う。
天才達は1つの敗北や、失敗で潰れるメンタルを持っていない。というよりかは好きなことをやるんだから、負けても失敗しても好きなことを続けるだけ。満足ってものがないんだろう。低い山から高い山へとドンドンチャレンジして、レベルを上げていく、ただそれだけなんだろう。マスコミとか評価とか気にしないでとにかくやりたいことをやった結果、誰にも真似できない高みに行ってしまうような。
だから焦りってものを感じさせない。天才はどうにも見ていて安心感がある。平凡な人たちは、つまずくと平静でおられず周りの目が気になり、実績がでないことに焦る。例え無謀でもチャレンジしないよりマシだとか思い始める。そんな時、気分転換だとか趣味なんだとかいう逃げ場がなければどうなるだろう。退路がなければ実力以上のデス・ロードを歩くしかなくなる。そして登山という分野は力量を見誤れば死ぬ。
金とパフォーマンスと周囲の期待を背負った結果、彼は死んだのだろう。
登山メディアは気づいていたはずだ。だけど栗城さんはバズらせることができたんだろう。それはお金になるから。長期的には何か成果がなければバズ効果も落ちてくる。だから彼は世界でも無類の目標を立てるような立場に、死地へと追いやられたように思う。炎上商法のように、業界をバズらせるために。
だから凡人を持ち上げるのは犯罪行為なんだよ。凡人は成果を積み上げるレベルも低ければ、スランプが気にならないほどハマれる力もない。余計な視線を振りほどくこともできない。だがその場所に残りたい一心だけで続けるようになる。それは精神も立場もぶち壊す行為だ。
天才は壊れない。最後まで好きなようにやる。
だが凡人は周囲のプレッシャーだけでいとも簡単に、精神も生活も壊してしまう。
普通の人たちは大舞台に上がる前に退場しなければならないんだ。