高畑勲監督の遺作「かぐや姫の物語」5月18日に金曜ロードSHOW!でノーカット放送
昨晩は「ヤマキャス」でえらく盛り上がった。
深夜までありがとうございます。
それを踏まえて。
実は僕は『かぐや姫』を劇場で観ていない。
『魔女の宅急便』から始まった僕のジブリ視聴歴の中で、初めてのことだった。
『WUG』でどうしようもなく忙しかったのだ。
初めて観たのは翌年、なんとジブリの試写室でだ。
そういう「関係者事後試写」みたいなものが当時行われていて、偶然誘われて、行った。
BDは既に買っていたが、せっかくだと思って、封を開けなかった。
ずっと引っかかる部分があった。
「姫の犯した罪と罰」とは、なんぞ?ということだ。
どうも想像がつくようで、つかなかった。
初回観ただけでは解らなかった。
しかしそれには慣れていた。晩年の高畑作品は一度観ただけでは全然解らない。
でも二度観ると印象がガラッと変わってしまうのだ。
そして今回、「金曜ロードショー」で二回目を観た。
やはり二回めだと非常に解りやすい。
「姫の犯した罪と罰」は、かなり容易に理解できた。
「人間になりたい!」ということだ。
しかしかぐやはやがて「人間はもう嫌だ!」と思ってしまう。
それが月へと還るサインだった、と。
この作品は人間でいることの愚かさと、それでも人間として生きたい!というどうしようもない欲求と、そのジレンマに苦しんだかぐやの、いや高畑自身の葛藤の記録だと言える。
「ヤマキャス」でも言ったが、高畑はそこに「それなり」の理由や理屈をつける。
それは嘘ではないのだろうが、しかしトラップだ。
そこにハマって批判をするバカが結構いるが、高畑はそれを見てほくそ笑んでいたことだろう。
この作品の場合は「自然でのびのびと野山を走り、幼馴染と触れ合い素朴な人生を謳歌していたかぐやが、やがて上流社会に無理矢理放り込まれ、そこでのスノビズムに辟易する」という、誰が見ても明らかな内容だ。
これに「やっぱりジブリは自然志向の文明批判なんだ!いつもそうだ!」と読み込んでしまうと、もう三流記事。
そこばかりを見てしまうと、肝心の「罪と罰」が見えてこなくなるからだ。
かぐやにとって「月」とは何だったのか?
それを考えないと、この作品を観たことにはならない。
ぶっちゃけ多くの人が思ったのではないか?
かぐやは都を捨てて、捨丸兄ちゃんと駆け落ちでもすれば、月に還る理由はなくなってしまうのでは?と。
それが強制送還されることになったのはなぜか?
かぐやが人間の「本性」に気付いたからに相違ない。
だからもう元には戻れなかったのだ。
「地球」とは、野山や鳥、虫、けものも含めて、「ユートピア」では決してない。
凄く魅惑的な「ディストピア」なのだ。
かぐやはそれに気付いたからこそ、煩悶しつつも、月へ還る運命を自ら決定してしまうのだ。
そして「月」とは何か?
人間の「本性」を否定したところにある、「ユートピア」なのだろう。
まぁ天国、と言った方が解りやすいだろうが。
そこは全てが合理的で、完璧で、矛盾がない世界だ。
しかしだからこそ、無機的で味気ない、文字通り「人間臭さ」のない世界だ。
ラストシーンの「月からの使者」とBGMは、それを如実に表現している。
かぐやは、いや高畑は、そういう完璧な「理性」に憧れ、そこに辿り着きたいと願いつつ、しかしそれでは「人間」ではいられなくなる、ということに、強く自覚的だったのではないだろうか。
今AI研究が進んでいるようで、どうしても途中で頓挫するらしい。
AIがある程度の知性を持つと、どうしても「人間は滅ぼすしかない!」と結論付けてしまうからだという。
高畑も、そのずば抜けた理性と知性で「人間は滅ぼすしかない!」と、早くから思っていたのだろう。
しかし、その先に何があるというのか?
その堂々巡りの思惟を死ぬまで続けていたのだ。
彼は「感情に溺れるな、理性で捉えろ」と繰り返し訴えた。
しかし、その主張の限界をも、既に見切っていたのだ。
「それでも人間は、感情で生きるしかない」ということだ。
自然に帰ろう、自然で暮らそう、文明なんかクソ喰らえだ!ジブリ作品は一見するとバカのひとつ憶えのようにそう訴え続けてきたように思える。
しかし、それすら人間の「かりそめの快楽」にすぎないという、その欺瞞を、彼らは受け入れ、背負いつつ、「それでも世界は美しいんだ」と訴え続けたのだ。
世界は醜いから美しいんだ、というのが、彼らの出した答えだった。
『かぐや姫の物語』は、それを衒いなくはっきりと示した、高畑勲の遺作に相応しい傑作だ。
そして、「それでもなお生きたい、作品を作りたい」と欲し続けた高畑自身の生き様もまた、自分の思想を完璧に体現していたのだ。
幻となった『平家物語』はどうなっていたのだろう?
僕は屋上屋だと思ってしまうのだが、さぞ刺激的な映像だったに違いない。
僕なりに想像ができてしまうのだが、それに関しては別の機会にて。
昨晩は「ヤマキャス」でえらく盛り上がった。
深夜までありがとうございます。
それを踏まえて。
実は僕は『かぐや姫』を劇場で観ていない。
『魔女の宅急便』から始まった僕のジブリ視聴歴の中で、初めてのことだった。
『WUG』でどうしようもなく忙しかったのだ。
初めて観たのは翌年、なんとジブリの試写室でだ。
そういう「関係者事後試写」みたいなものが当時行われていて、偶然誘われて、行った。
BDは既に買っていたが、せっかくだと思って、封を開けなかった。
ずっと引っかかる部分があった。
「姫の犯した罪と罰」とは、なんぞ?ということだ。
どうも想像がつくようで、つかなかった。
初回観ただけでは解らなかった。
しかしそれには慣れていた。晩年の高畑作品は一度観ただけでは全然解らない。
でも二度観ると印象がガラッと変わってしまうのだ。
そして今回、「金曜ロードショー」で二回目を観た。
やはり二回めだと非常に解りやすい。
「姫の犯した罪と罰」は、かなり容易に理解できた。
「人間になりたい!」ということだ。
しかしかぐやはやがて「人間はもう嫌だ!」と思ってしまう。
それが月へと還るサインだった、と。
この作品は人間でいることの愚かさと、それでも人間として生きたい!というどうしようもない欲求と、そのジレンマに苦しんだかぐやの、いや高畑自身の葛藤の記録だと言える。
「ヤマキャス」でも言ったが、高畑はそこに「それなり」の理由や理屈をつける。
それは嘘ではないのだろうが、しかしトラップだ。
そこにハマって批判をするバカが結構いるが、高畑はそれを見てほくそ笑んでいたことだろう。
この作品の場合は「自然でのびのびと野山を走り、幼馴染と触れ合い素朴な人生を謳歌していたかぐやが、やがて上流社会に無理矢理放り込まれ、そこでのスノビズムに辟易する」という、誰が見ても明らかな内容だ。
これに「やっぱりジブリは自然志向の文明批判なんだ!いつもそうだ!」と読み込んでしまうと、もう三流記事。
そこばかりを見てしまうと、肝心の「罪と罰」が見えてこなくなるからだ。
かぐやにとって「月」とは何だったのか?
それを考えないと、この作品を観たことにはならない。
ぶっちゃけ多くの人が思ったのではないか?
かぐやは都を捨てて、捨丸兄ちゃんと駆け落ちでもすれば、月に還る理由はなくなってしまうのでは?と。
それが強制送還されることになったのはなぜか?
かぐやが人間の「本性」に気付いたからに相違ない。
だからもう元には戻れなかったのだ。
「地球」とは、野山や鳥、虫、けものも含めて、「ユートピア」では決してない。
凄く魅惑的な「ディストピア」なのだ。
かぐやはそれに気付いたからこそ、煩悶しつつも、月へ還る運命を自ら決定してしまうのだ。
そして「月」とは何か?
人間の「本性」を否定したところにある、「ユートピア」なのだろう。
まぁ天国、と言った方が解りやすいだろうが。
そこは全てが合理的で、完璧で、矛盾がない世界だ。
しかしだからこそ、無機的で味気ない、文字通り「人間臭さ」のない世界だ。
ラストシーンの「月からの使者」とBGMは、それを如実に表現している。
かぐやは、いや高畑は、そういう完璧な「理性」に憧れ、そこに辿り着きたいと願いつつ、しかしそれでは「人間」ではいられなくなる、ということに、強く自覚的だったのではないだろうか。
今AI研究が進んでいるようで、どうしても途中で頓挫するらしい。
AIがある程度の知性を持つと、どうしても「人間は滅ぼすしかない!」と結論付けてしまうからだという。
高畑も、そのずば抜けた理性と知性で「人間は滅ぼすしかない!」と、早くから思っていたのだろう。
しかし、その先に何があるというのか?
その堂々巡りの思惟を死ぬまで続けていたのだ。
彼は「感情に溺れるな、理性で捉えろ」と繰り返し訴えた。
しかし、その主張の限界をも、既に見切っていたのだ。
「それでも人間は、感情で生きるしかない」ということだ。
自然に帰ろう、自然で暮らそう、文明なんかクソ喰らえだ!ジブリ作品は一見するとバカのひとつ憶えのようにそう訴え続けてきたように思える。
しかし、それすら人間の「かりそめの快楽」にすぎないという、その欺瞞を、彼らは受け入れ、背負いつつ、「それでも世界は美しいんだ」と訴え続けたのだ。
世界は醜いから美しいんだ、というのが、彼らの出した答えだった。
『かぐや姫の物語』は、それを衒いなくはっきりと示した、高畑勲の遺作に相応しい傑作だ。
そして、「それでもなお生きたい、作品を作りたい」と欲し続けた高畑自身の生き様もまた、自分の思想を完璧に体現していたのだ。
幻となった『平家物語』はどうなっていたのだろう?
僕は屋上屋だと思ってしまうのだが、さぞ刺激的な映像だったに違いない。
僕なりに想像ができてしまうのだが、それに関しては別の機会にて。