インシャラーの使い方
先日、仕事で電話をしていて、ある用件について約束をした後に「インシャラー」と言われました。「インシャラー」とは「神の御心のままに」と言う意味だと聞いていましたので、約束をした後に「神の御心のままに」とはどういうことだろうと不思議な気がしました。「できるかも知れないし、できないかも知れない」ということなのでしょうか?それだと約束をした意味が無くなります。
別な日に、仕事で役割分担をし、スケジュールを打ち合わせした後に「インシャラー」と言われました。その時は、クウェート人1人と香港人1人、そして私の3人で打ち合わせしていたのですが、クウェート人が「インシャラー」と言った後に、すぐに「こんな時、外国人は『インシャラー』と言う言葉を使ってくれるなと言うのよね。」と私の心を見透かしたようなことを言ってくれました。
クウェートに6年住んでいる日系アメリカ人にインシャラーの使い方を教えてもらいました。いつまでにレポートを仕上げることができるか聞かれたときに、「明日までにできます。インシャラー」。明日、何時に来るか聞かれたときに、「10時に来ます。インシャラー」。
どうやらインシャラーとはすべてのことは神様の御心によるので、できなくても私のせいではないですよということのようです。今のところ、私はそのように感じていますが、もっと勉強すれば、違った意味、深い意味が分かってくるかも知れません。
話はそれますが、アラビア語から英語に翻訳された契約書に仕事で関わることがあったのですが、その契約書の免責事項の中に、地震や台風などの自然災害や、戦争などと言った項目の他に “Act of God”と言う項目がありました。”Act of God”というのは直訳すれば「神様のなさること」ですから、考えようによってはこの世のすべてのことが該当するわけで、これでは契約にならないのではないかと思ったのですが、前述の日系アメリカ人に教えてもらった所によると”Act of God”というのは欧米の契約書にも常套句として使われるそうで、実際にはその項目について争いが起きるということはないそうです。
仕事の中に神様が関わって来て、戸惑うことがたびたびあります。異文化に慣れるにはまだ時間が大部かかりそうです。
パキスタンの女性労働者
先日、当地の新聞に掲載されたパキスタンの工事現場で働く女性労働者の写真には驚かされました。若い女性が、左手には2歳くらいの子供をかかえ、頭の上に板を載せ、その上に煉瓦を何と28個も載せて、右手で煉瓦を抑えて運んでいるのです。左手にかかえた坊やが母親の頭上の煉瓦を仰ぎ見ている姿が印象的でした。
日本だったら現場監督が飛んできて止めさせるような行為です。子供を工事現場に連れてきて、ヘルメットも軍手も恐らく安全靴も使用せず、固定していない煉瓦を28個も頭上に載せて、いつ怪我をしてもおかしくないような状況です。しかし、写真の説明には「典型的な仕事」というふうに書いてありました。
パキスタンではこの写真のような状態が「典型的」だとすると、日本の労働環境は相当恵まれていると言うことになります。日本に生まれたことを感謝しなければと思わせる写真でした。
クウェートに乞食出現
クウェートに来てから5ヶ月近くになりますが、ただの一度も浮浪者やホームレスの類を見たことがありません。クウェート人労働者の93%が公務員ですからクウェート人が職にあぶれることはまずありません。外国人労働者も失業すれば国外退去ですから、基本的にはクウェート国内の失業者はほぼゼロのはずです。したがって浮浪者やホームレスはいないと言うことになるはずなのですが、今日の新聞に、女性の乞食が物を恵んでもらっている写真が出ていました。記事によると乞食が目立ち始めており、日中はモスクの近くや商業地区で、夜や早朝は住宅地区で物乞いをしているとのことです。私自身は直接、見たことがないので、半信半疑の状態です。
それはさておき、記事中の市民の反応に興味を引かれました。「クウェートのイメージを損なうので、乞食を無くさなければならない。」「乞食は外国人だ。」「どうやって、クウェートに入ってきたのだろう。」「クウェートのような裕福な国で乞食が街で物乞いをしているなんて不名誉なことだ。」
クウェート社会の底辺を支えている外国人労働者は乞食になる前に失業して国外退去させられるというのが実体だと思います。クウェートは外国人労働者の割合を減らして、クウェート人の比率を上げていこうとしています。クウェート人が自らクウェート社会の底辺を支えるようになれば、クウェート人の乞食というのも出現する可能性があります。しかし、当分の間、クウェート社会の底辺を支えるのは外国人労働者という状況は変わらないでしょう。
ファイラカ島訪問
先日、休日を利用してクウェート沖合のファイラカ島に行ってきました。フェリーで片道1時間半程度です。フェリーは東京湾横断道路ができるまで川崎と木更津を結んでいたフェリーとちょうど同じような船でした。休日とあって観光客が多く、車にキャンプ用品や食料品を満載した人達もいて込み合っていました。羊が一匹フェリーに乗っていました。おそらく、キャンプで料理されたのでしょう。帰りには羊は乗っていませんでした。
フェリーから眺めたアラビア湾は遠目には美しいものの、間近で見ると東京湾ほどではないものの濁っていました。波が静かなせいか、車止めがしてありませんでした。
ファイラカ島は周囲が30km程度の平べったい島です。湾岸戦争当時、イラク軍の前線基地として占領され、無数の地雷で覆われているそうです。砂地や海岸を歩くとき、私は警戒して、車が通った後や、先に人が歩いていった後を歩いていきました。フェリーから下りるときに、自動小銃を背負った警備兵が乗客から身分証明書を集めていました。帰りには身分証明書を返してもらいましたが、不審な乗客を警戒しているようでした。
ファイラカ島には古代の遺跡があり、自由に見学できましたが、猫に小判で特に価値を見いだせませんでした。それよりも印象に残ったのは現代の遺跡でした。以前は多くの人が住んでいたようですが、現在は人が住んでいない住宅が多数放置されていました。中には湾岸戦争の時のものと思われる銃撃の跡が残っている家や車も残っていました。ファイラカ島のような狭くて平坦な島を襲撃されたら、住民は逃げることも隠れることもできなかったでしょう。
島には漁民または警備兵の家族でしょうか、子供達がいました。小型のバイクを乗り回して遊んでいました。たいていの子供がすれ違うときに「ハーイ!」と挨拶をしてくれました。クウェート本土ではそんなことはまずありません。めったに来ない東洋人が来たので珍しかったのかも知れません。
古代の遺跡と現代の遺跡以外は特に見るところもなく、3月中旬というのに刺すように強い日差しの中を、ただただ歩き回ってくたくたになりました。大輪のひまわりが咲いていたのが印象的でした。
(写真はアラビア湾を進むカーフェリー。アラブの地図にペルシャ湾はなく、代わりにアラビア湾と書かれています。)
目を背けたくなる写真
クウェートの新聞は時々、目を背けたくなる写真を載せますが、昨日の新聞には強烈な写真が3枚も載っていました。
1枚目は交通事故被害者の写真。道路を横断しようとしていたところを、2台の大型乗用車に続け様にはね飛ばされ、血まみれになって道路に横たわっている被害者の写真。目を見開き、口を開けてうつぶせに倒れていました。
2枚目はインド人の青年が首吊り自殺した写真。ぶら下がったままの状態で、前後左右から写した写真が掲載されていました。これはさすがに正視することはできませんでした。イスラム教では自殺は犯罪として扱われます。
3枚目はインドでゲリラが何人も射殺されて、死体が一列に並べられている写真。この手の写真は毎週のように掲載されています。
日本人でもホラー映画が好きな人もいますので、特にショックを受けない人がいるかも知れません。しかし、新聞に掲載されている写真は現実に起こったことです。私にはちょっと耐えられませんでした。
最新のニュースを掲載するのが新聞の役目ですが、それにしてもあまりに写真が生々しくて、一般の人には精神衛生上、宜しくないような気がしました。以前にも書きましたが、クウェート人と日本人で感覚の違いがあるようです。