2006年6月9日、ジーコ監督がドイツワールドカップに出場するメンバーを発表した。最後の名前が読み上げられたとき、急に会場はざわめいた。その最後に呼ばれた選手が、巻誠一郎だった。
2005年7月31日、東アジア選手権の朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)戦で日本代表にデビュー。そしてワールドカップ予選では1試合もプレーしなかったものの、本大会のメンバーに選ばれた。ジーコのサプライズだった。
だが、本大会では苦しみを味わう。2006年ワールドカップで日本は1分2敗と1勝もできず、巻の出番はブラジル戦の60分間のみに終わった。
ワールドカップ前から、巻は「取材しづらい」選手として知られるようになっていた。メディアにはほとんど話をしない。言葉数も少ない。取材を申請しても断られるケースもあった。そこから、「巻はワールドカップのメンバーに入り、人が変わった」という評判が立っていた。それまで好人物として知られていただけに、余計に非難を浴びることになった。
2007年、イビチャ・オシム監督が率いる日本代表合宿で、練習後に巻が報道陣の前に現れた。そのとき、巻に寄っていったのはたった1人の記者だけ。巻はしっかりと立ち止まると話し始めた。まるでみんなに聞いてほしいというような大きめの声で。
「妻に言われていろいろ考えました。これからはちゃんと話をします」
その言葉どおり、そのときから巻は昔の巻に戻った。メディアとのギクシャクは急に解消したとは言えなかったが、それでも巻は話すようになった。
巻はこのときの話を覚えていないという。だが、その前後のことは強烈な記憶として残っているようだ。そして今回、巻は誠実に、自分と自分の気持ちの変化を語ってくれた。(文中敬称略)
昔は人の目を見て話すことができなかった
僕は昔から――今でもそうなんですけど――コンプレックスの塊のような人間だと思っています。サッカーに関してはすべてにコンプレックスがありました。足下のテクニックもそうだし、走力や身体とか、考え方とか。
だから人と接するのが上手じゃないというか、人見知りだった。なるべくなら、あまり人にチヤホヤされたくないというか、人に関わってほしくない。今はだいぶ社交的になりましたが、昔は本当にそう感じていました。
人の目を見て話したりというのもできなかったんです。仲良くなると普通に話せますが、それでも人に心を開くことがなかなかできない。本当に仲いい友だちでも、人に心を許すことは今でもないと思います。
僕はそういうタイプの人間なんです。そういうコンプレックスがいろいろな根底にあります。サッカーにしても、私生活にしても、メディア対応にしても。
僕はスターじゃない。持ち上げられると恥ずかしい。普段の生活でも、できれば僕の話題に触れてほしくない。もちろん、「応援してます」「頑張ってください」という声援はものすごくうれしいんですよ。でも、「この人はワールドカップに出て」なんて知らない人に紹介されるのは好きじゃないんです。
マスコミに叩かれたオシム監督時代…そして記者に心を閉ざした
日本代表に入ったときは、とんとん拍子というか、パッといきなり入ったんです。最初は、久保竜彦さんが負傷して、その代わりとして招集された鈴木隆行さんもケガをしたので、代役の代役として招集されました。そしてプレーした東アジア選手権で、日本代表があまり調子がよくなかったから、ポンポンと試合に出してもらえたんです。
でも僕は2003年にジェフでプロになって、2004年まではずっとサブ。2005年にコンスタントに試合に出られるようになったばかりで、やっとゲームのリズムに慣れたところです。それでもいつも練習でも試合でも怒られるのは僕だった。当時は1つずつのプレーにすごく緊張しながらやっていました。試合に出ているのに、過度のプレッシャーがかかっている。「ミスしちゃダメだ」「必死にプレーしなければいけない」とかそんな気持ちです。
それが急に日本代表に選ばれました。自分では自分のことを代表のレベルじゃないと思ってたのですが。そうなると「ボロが出ないようにしなければ」と必死ですよ。「人が1回、2回プレーするときに、3回、4回と走って量でカバーしよう」と思って、駆けずり回る。そういう状態だったので、代表では戸惑ったというか、あまり心地よくなかったです。
そして日本代表に入ったことで劇的に自分を取り巻く環境が変わりました。変わり過ぎるくらい。
メディアに取り上げてもらえるようになって、一言言うと、それが10ぐらいに広がって伝わってしまう。自分のことをよく言うのは好きじゃないのに、伝わっていく中で「デカいことを言っている」と広がってしまったこともありました。そういうのが好きじゃなかった。自分の記事を読んで「こんな人間じゃないのに」って気持ちが暗くなった。
それで話すことが少なくなりました。特にワールドカップのメンバーに選ばれたときは、キーワードというか「利き足は頭」とか「努力は人を裏切らない」とか、そういうのばかりが一人歩きしちゃっていた。いいイメージなんですけど、そういうイメージだけが先走っていた。
だからあまりうれしくなかったですね。もちろんワールドカップの前は、メディアの人がいろいろいいことを書いてくれてポジティブな雰囲気を作ってくれたので、それには感謝していました。
でも僕はワールドカップのメンバーに選ばれてもそうでなくても、どちらでもいいと思っていましたから。選ばれたらうれしいとも思っていましたけど。そこまでの過程で僕は満足できていたんです。
逆にワールドカップで負けた後は、代表選手はメチャクチャ叩かれましたね。そしてワールドカップ終わった後も取材の申し込みがたくさん来たのですが、自分としてはあんまり話したくなかった。何かを言ってそれが誰かの批判に取られるもイヤだったので。だからチームの人に「なるべくワールドカップの取材って受けたくないです」と言っていました。
だからメディアの人からはピリピリしていると思われていたのかもしれません。それでも、最初のうちはまだ話してたんです。でも、オシム監督が代表を率いるようになって、代表チームが点を取れなくなった。僕もジェフでもあんまりゴールが取れなかったし、代表でも取れなくなってしまった。
オシム監督は、それまで率いていたジェフからたくさん選手を選んでいました。だから阿部勇樹や僕はオシム監督のサッカーの代名詞みたいに表現されていました。そして代表の調子が悪いと、たちまち僕たちが叩かれた。
ただ、そんな事態は自分でもある程度予想はできていたんです。いいときは持ち上げられるけどダメになったら叩かれるんだろうという思いもありました。だから調子のいいときも多くを話したくなかったんですよ。
仲間との食事でも輪に入らない性格…妻はそんな性格を理解しつつも記者への態度を一喝した
メディアと話さなくなってしばらくすると、だんだん何を言ってもネガティブに捉えられるようになっていきました。僕が一言言うと、それがネガティブに捉えられて、それで僕はもっと話さなくなっていました。そういう負の連鎖に入っていってしまった。自分でもどうしればいいか考えたのですが、やはりあまり話さないほうがいいんじゃないかと思っていました。
もちろんサッカーは好きだったし、そのときは楽しんでいました。けれど、ジェフの状況はよくなくなって、一気にチームメイトがたくさんいなくなってしまった。それでさらに話さなくなった。
結婚したのが、そのタイミングでした。そしてすぐに子どもができた。
当時の僕は家にストレスを持ち帰ることが多くなって、妻と一緒にいてもイライラしていました。妻も妊娠しているからストレスがある。それでこれではダメだと1回きちんと話をしました。
話をする前に、妻はいろいろな人から「誠ちゃん、あまり記者と話してない」と聞いていたようです。それに妻は、元々僕が話し下手で人とコミュニケーションがうまく取れない、社交的じゃない、すごく仲のいい人とご飯を食べながら話してても輪に入らないという性格もよくわかってくれていました。
そういうことをすべて知った上で、妻から「それじゃダメだ」という話をされました。
「記者の人たちに話をしたくないという気持ちはわかるよ、なかなか結果も出ないし。けれど、今の声を本当に聞きたいのは記者の人じゃないんだよ。記者の向こうにいる人たちが聞きたいのよ。サポーターの人だったり、千葉の人たち。みんなうまくいかないときも、苦しいときも応援してくれていたでしょう? 一生懸命支えてくれていたのに、その人たちに背中を向けているんだよ」
「だから記者に話していると思わないで、その先にいる人たちに、自分の声で自分が今どういう気持ちで、どういうことをしたいのか、伝えたほうがいいんじゃない。そういう人の中には小さな子どももいて、応援してくれているんだよ」
そう怒られましたね。それでやっと「あぁ、そうだ」って気付きました。「じゃあ変えよう」と。
僕の声を聞きたい人がいたんだと思い出しましたね。1人でも2人でも応援してくれる人がいたらそれでいいんじゃないか。そういう人が1人でもいたら真摯に話さなきゃダメだ。そういうところから話そう。良くても悪くても、その人たちのために話そう。そう考えられるようになりました。
記者の人たちのためではなく、その先にいる人たちに自分の言葉を伝えよう。僕はちっぽけなプライドはいらないと思っていたのですが、それでも自分の中では頑固というか、意地もできていた。でも、そういう意地もいらんなと。
そこからですかね。またちゃんと向き合って話すようになったのは。そうやって自分が正面を向いて話すと、周りも受け入れてくれるというか、真っ正面から話をしてくれるので、「ああ、オレ、ちっちゃかったな、人間的に」と思いましたね。でも、今でも自分は話が上手じゃないと思っていますよ。
いまでもヘタクソで普通の人間 これがありのままの僕です
またちゃんと話が出来るようになりましたが、その後も環境は大きく変わりました。
ジェフはチームメイトたちがいろいろなチームに行ってしまった。僕はチームに残って、サポーターとチームの環境のために自分のすべてをつぎ込もうと思っていました。そしてジェフで引退するだろうと思っていたのですが、結局離れることになった。それでも、今もジェフのサポーターを僕は応援しています。
もちろん、僕は今、熊本の選手で、熊本のサポーターに応えなければいけないと思っていますし、熊本のためにプレーしています。
こうやってサッカーができる環境があるだけでもありがたいと思います。2010年にはロシアでプレーし、2011年は中国で試合に出ましたが、言葉も通じないし、ろくに練習着もユニフォームもなかったりしたし、そういうのに比べると幸せな環境です。今は昔ほど気を張ることもなく、いろんな人を受け入れられる広い心を持てるようになりました。海外で、厳しい環境も経験しましたから。
僕は今でもヘタクソです。それに身体能力が高いほうじゃない。大学でも中の下ぐらいで、ジェフでは下の中だった。ジャンプ力もスピードも持久力も無いし、人並みちょっと下。だから、どういうところで貢献できるかということだけを考え、気持ちで身体を動かしています。
泥臭いプレーを恥ずかしいと思うこともありました。身体が動いて調子がいいときは何してもうまくいくので、泥臭いプレーをしなくてもいろんなプレーがうまくいく。
でもうまくいかなくなったときに自分のプレーを模索すると、原点はそこなんです。人がやりたがらないプレーをする。泥臭い混戦になって、そこから味方にこぼれたら自分のパスだと思ってるし、それでもいい。味方が点を取ったらそれでもいい。今では恥ずかしいという気持ちは微塵もありません。
そして僕を見て、プロにも普通の人がいると思ってもらえればいいと思っています。僕は普通にファミレスにも行くし、ディスカウントショップにも行きますよ。アウトレットにも行く。特に今は着飾った感じは全然無いです。
自分はそんな普通の人間です。だから、このインタビューが記事になるかどうかわからないぐらいだと思ってます。でも、これがありのままの僕です。
巻誠一郎 プロフィール
駒澤大学を卒業後、2003年にジェフ千葉に入団。ポジションはFW。
2005年にジーコ監督率いる日本代表に選出され、2006年にはドイツW杯にも出場。
2010年にはロシア、2011年には中国への移籍を経て2011年、東京Vに移籍しJリーグ復帰。2013年からはロアッソ熊本でプレーを続ける。
熊本県出身、1980年生まれ。
取材・文:森雅史(もり・まさふみ)
佐賀県有田町生まれ、久留米大学附設高校、上智大学出身。多くのサッカー誌編集に関わり、2009年本格的に独立。日本代表の取材で海外に毎年飛んでおり、2011年にはフリーランスのジャーナリストとしては1人だけ朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の日本戦取材を許された。Jリーグ公認の登録フリーランス記者、日本サッカー協会公認C級コーチライセンス保有、日本蹴球合同会社代表。