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2018/05/22 火

高畑勲作品を2本、テレビで再見Add Star

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2018年4月5日に高畑勲が亡くなった。正直言って、超悲しいですぼく泣いちゃいます、とは全然思わなかった。その死をまっとうに悲しむには、オレにとって高畑勲は怪物すぎた。そうか死んだのかあ、と思っただけだ。

東大仏文科卒のスーパーエリート高畑勲は思想の人で、豚であるところの大衆、つまり我々度し難き愚民を水槽に入れて観察し、その研究と描写に生涯を費やした人という印象がある。たぶん高畑勲個人はいい人だと思うのだけど、創作では客観的で突き放した、圧倒的に冷徹な作品を作る。

4月13日、日テレは緊急追悼で「火垂るの墓」を放送した。RECしといて、後日久しぶりに観た。公開時に「となりのトトロ」との二本立てを劇場で観て、VHSのビデオソフトで観て、テレビ放送も1回は観たと思うので、たぶん4回目か5回目の鑑賞だ。

公開当時、野菜泥棒した清太を百姓が殴る場面は未完成で、無着色の線画のままだった。高校1年だったオレは「斬新な演出! さすが高畑!」と感心し、まさに高畑勲に叱られても仕方ない明き盲っぷりを露呈していた。それでも反戦映画ではないことは、2回目の鑑賞くらいで判ったと思う。

今回観てみて驚愕したのが、清太が節子に恋人や母親の役を投影し、近親相姦願望を持っていたことを明確に描いている点だった。節子の死後、清太の幻想として描かれる一連のアイドルビデオみたいな場面が凄い。おヌードは勿論、ふりむいて笑顔とか、針仕事=世話焼き=甘やかしプレイとか、敬礼(ミンメイ!)とかひと通りやってみせる。ゾッとするほかない。

「節子は私の母になってくれたかもしれない女性だ!」 とくれば、これは完全にシャア・アズナブルである。まさか神戸弁の中学生と、宇宙翔ける赤い彗星が重なるとは思わなんだ。

節子は幼女なので、ちゃんと母を求めた。だが母の無惨な姿を目撃DQNしてしまった清太からは母を慕う気持ちが消え失せてしまい、その代償に節子にとことんのめり込んでいく。この感じが本当に危ない。そこに節子の意志はもはや存在せず、清太は恋人や母親の依代、偶像、人形として節子を愛でてしまう。押井守の「イノセンス」より16年早い。

きれいに死んだ節子を、腐敗する前=母のように醜くなる前に速攻で焼く清太が涙ひとつみせないこのブッ壊れた感じ、マジでイカレてる。本当にヤバイ怖い映画がテレビで放送されて日本中みんな感動して泣いてる。なんだこれすげえ。宮崎駿が悪魔と契約した表現者なら、高畑勲は表現の悪魔そのものだ。


5月15日には三鷹のジブリ美術館高畑勲のお別れ会があり、宮崎駿が涙ながらに読んだ弔事ならぬ開会の辞、その内容を報道で知った。オレは冷たい人間なので、フーンなるほど、などと思った。

追悼気分さめやらぬ5月18日、日テレは「かぐや姫の物語」を放送した。これもRECしといて、後日観た。劇場2回とDVD以来、4度めの鑑賞だ。

かぐや姫の物語」公開時、印象深い感想のひとつが雨宮まみさんの記事だった。

『かぐや姫の物語』の、女の物語 戦場のガールズ・ライフ

不思議な縁で一度だけ、生前の雨宮さんをお見かけしたことがある(たまたま同席しただけだが)。きれいな、花のような人だと思った。雨宮さんや女性の多くがどのように生き辛く、どれほど抑圧されているかは、がさつなおっさんのオレには想像はできても本当のところは理解できない。それでも、この感想には胸を衝かれた気がしたものだ。まあそれはそれとして、オレはオレの今回も粗雑な感想を書くしかない。

以前書いた感想はこれ。

観たぜ「かぐや姫の物語」 挑戦者ストロング

「かぐや姫の物語」 追記 挑戦者ストロング

今回の放送を観て、発見がひとつあった。映画の後半、かぐや姫が月に帰らねばならぬとなった後、屋敷の中の作業小屋でわらべ唄の続きを歌う場面。ここに妙なインサート映像が3カット入るのだ。まず夕焼けの海と陸、雁の群れ。次は海辺を空撮でトラックバック、駆けてきた男と幼子が波打ち際で立ち止まる。最後は海辺に立つ松の木の下で、月を見つめる男と子供(2カット目より少し大きいようだ)。

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劇場での初見時にはなーんだ妙なカラオケ映像だな程度の印象で全然気にしてなかったのだけど、今回観てびっくりした。松があるのは松の原、つまり松原、ということはこれって羽衣伝説の結末を描いてるんじゃないのか。地上を離れ天に去る天女の俯瞰視点で、砂浜を走って見送る夫と我が子の姿を。そして天女が去った後も、むなしく月を見つめる親子の姿。いつか月から、天女が(母が)帰ってくると信じているのだろうか。羽衣伝説のストーリーは常識だろうから、ここでは説明しない。

オレは昔、能の「羽衣」を観たことがある。観世流だった。この「羽衣」では天女は漁師からすぐ羽衣を返してもらい、その場で天女の舞を踊る。幽玄なる舞に漁師と我々が陶酔するうちに、天女は天に帰ってしまう。そういえば、手塚治虫の「火の鳥」にも羽衣編というのがあった。舞台劇をそのまま漫画にしたような実験的なやつで、あまり好きじゃなかったが。

さてアニメに戻ると、唄い終えたかぐや姫は嫗にこう言うのだ。

「遠い昔、この地から帰ってきた人がこの歌を口ずさむのを、月の都で聞いたのです」

「月の羽衣をまとうと、この地の記憶は全てなくしてしまいます」

マジか。「羽衣」の天女は、かぐや姫のパイセンだったのだ。「羽衣」はいつの話なんだかよく判らなかったんだけど、さっきネットで調べたら奈良時代に編まれた「風土記(古風土記)」によるものらしい。この映画は劇中設定を平安時代としているから、時系列上も確かにパイセンなのである。

つまり高畑勲のヨタ話はこういうことだ。「羽衣」の天女は月から奈良時代の地上にやってきた。この天女はあろうことか地上で愚民と結ばれ子をなしたので、事態を重く見た月世界当局は天女を本国へ強制送還し、記憶を奪ってしまった。天女が覚えているのは、地上のわらべ唄のみ。その不思議なわらべ唄を聞いてしまった月人の少女は生命の坩堝たる地球に憧れちゃって仕方なく、決死のテロリズム精神で大気圏単独突入。平安時代の竹林に落っこちて、翁に拾われた。羽衣伝説と竹取物語を股にかけた、壮大なクロスオーバー作品。今川泰宏監督の「ジャイアントロボ THE ANIMATION 地球が静止する日」かよ。

そうと判れば、月に赤ん坊の姿が重なるラストカットの説明もつく。あれは地上におけるかぐや姫の幼少の姿の回想かと思ってたが、そうであれば月と重なるのは具合が悪くて変なのだ。あれは月で姫がこれから生む赤子の姿なのだ。なにしろ姫は、地上のマイルドヤンキー捨丸兄ちゃんと空中セックスして身ごもっている。生まれてくる赤子は成長し、地上のすべてを忘れた母こと元かぐや姫がブッ壊れたレコードプレイヤーのように唄うわらべ唄に魅了され、いつの日か地上にやってくるのだろう。歴史は繰り返す。赤子の性別は判らないので、今度はどの昔話に登場するキャラクターになるのやら、想像もつかない。海に落ちて竜宮城の乙姫になるか、スケール間違えて一寸法師になるか。これが高畑勲の、まんが日本昔ばなしスーパースター列伝構想なんだよ! な、何だってェー! お後がよろしいようで。

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