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好きな作家とそのファンと好きな作家のフォロワーの関係

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オタクを多少なりとも長くやってると、昔から好きだった作家に影響されたデビューした作家に遭遇することがある。最近では好きな作家のフォロワーのそのまたフォロワー、なんてのも珍しくなくなってきた。


秋田禎信の読者である私にとっては、「サクラダリセット」「いなくなれ、群青」の河野裕先生なんかはフォロワーの代表格である。「エンジェル・ハウリング」が好きで「サクラダリセット」のイラストを椎名優先生にお願いしたり、「小説家になろう」に「エンハウ」をイメージしたSSを投下したり。「オーフェン」「エンハウ」だけならまだしも「閉鎖のシステム」や近作である「ハルコナ」までもインタビューで熱く語ることができるのが現役のガチ信者感あって安心できる。リスペクトを公言し、好きな作者と対談したりアンソロに参加したりアニメに出演したりする作家や声優に対して「でもこの人、今も追っかけてるのかな……」と考えてしまうのは私の悪い癖だ。

好きな作家のフォロワーへの共感


好きな作家にフォロワーが存在するのは、基本的には嬉しい。自分の好きなものが他の人にも影響を与えていると思うと、私が偉いわけじゃなくてもなんとなく誇らしい気分になる。また同じものを観たり読んだりして育った作家とは当然同世代であることが多く、こちらと向こうを繋ぐ紐帯を勝手に見てしまう。逆にひと回りくらい離れてる世代でもそれはそれで受容の広がりを感じられてニヤニヤが止まらない。


こういった親近感をこじらせると、容易に「好きなものが同じ/世代が同じというだけで有名人に対して妙に馴れ馴れしい奴」になってしまうので、注意が必要だ。これがデビュー時から知ってたとなると、馴れ馴れしさは加速し「ワシが育てた」にあと一歩まで近づく。「サクラダ」や「階段島」シリーズを読んでたとはいえ、河野先生の講演を秋田の読者として聴きに行ったのはさすがに失礼だったと思う。


sube4.hatenadiary.jp


声優の握手会行ってその人と仲がいい他の声優の話をする声ヲタムーヴみたいな……。「サクラダ」1巻にサインしてもらう時に交わした会話もそのことだったしなあ。河野先生、あの時は本当に大変失礼しました。

フォロワーの作家の名前で布教活動大作戦


今現在も売れてる作家がインタビューなどで影響を公言すると、ファンはここぞとばかりに「あの作家が影響を受けたナントカ! 読んでみて読んでみて」と勧誘を始める。好きな作家の愛読書はチェックしておきたい、という今も昔も変わらないオタクムーヴをつっつくのは費用対効果の高い布教手段なのだろう。ブギーポップ再アニメ化第一報の際は、内容より何より西尾やきのこが影響を受けた! あの! という紹介がtwitterを飛び交った。西尾もきのこもデビュー年代的にはかどちんとそんなに離れてるわけではないのに、「若者世代の旗手に影響を与えた俺たち世代の作家」みたいな扱いを受けてた不思議。かどちんをそういう風に売り出した「ファウスト」と太田が悪い。


私自身、好きな作家が影響を受けた作品も好きな作家に影響を受けた作品にもたくさん触れてきた。いずれも、影響を受けた、こういう共通点がある、作風が似てる……と言われればなるほど確かにと納得する。ただまあだからといって同じ面白さ、同じ読書体験を私に提供してくれるかというと、また別の話で。秋田の愛読書だったりフォロワーだったりと聞いて読んでみてガッチリハマったのはマーガレット・ミラーくらいかなあ。


sube4.hatenadiary.jpsube4.hatenadiary.jp


……逆に、フォロワーの作品を読んで「やっぱりなんか違う」と思えるのは幸せなことだ、とは言えるだろうか? ↓

フォロワーの作品を読む


これこれこういうところが好きな作家ってのがいたとして。こっちの嗜好が仮に変わらなかったとしても、作家の方が変わらないとは限らない。というか大半は時間の経過に伴って何らかの変化が見られるだろう。本人が意図したものかは分からない。それを進化と呼ぶのかどうかは受け手による。作者はインタビューなどで初期の作品に対して若書きだ、読んでられない、と言い、現在確立された執筆スタイルや創作論について独自の理論を展開する。でも、どんなに論理的に説明されても昔のほうが良かったと感じるファンもいる。


ラノベ作家のように数年にわたって特定のシリーズを集中的に執筆する場合、作風が変わったというよりたまたまそのシリーズが性に合っただけかもしれない。……いずれにせよ、私達が変化と見るものがこちらの意に沿うものではなかった場合、「好きな作家」は「好きだった作家」という箱に移し替えられる。で、そうした時、「好きだった作家」本人より「好きだった作家のフォロワー」の方が私の好きだと思った部分を受け継いでくれてたりすることもある。秋田にしても、例えば「エンジェル・ハウリング」の透明感のある文体のみを求めるなら、近年の他作品より河野裕「階段島」シリーズのほうが近いかなあと感じてしまったり……。普段は「最近は〇〇みたいなラノベがなくて寂しい。〇〇みたいなラノベない?」みたいなpostに対して「いや〇〇は今も続いてんだからそれ読めよ」「〇〇の作家は今も書いてるんだからそっちチェックしろよ」とか愚痴ってるこの私が! そんなヘタレたことを!


特定の作家や作品に寄りかかったオタクライフを送っていると、これが何より怖い。好きなものの影響を受けた作品に触れて、自分が好きだったものが何だったのか、本当に自分はこれが好きだったのか見失って、アイデンティティがクライシスする。フォロワーの作家に対しても不誠実な読み方だろう。漫画に影響を受けた小説家とかアニメに影響を受けた漫画家とか、ジャンルが違えばもう完全に別物として認識できるんですけどね。



結局のところ、好きな作家は私ではないし、どんなに影響を受けてようが好きな作家のフォロワーは好きな作家自身ではない。作風やらテーマやらが似てようがそうでなかろうが大した問題ではない。フォロワーの作品にジェネリックな小説として触れていても、読み続けていけば、いつかその作家にしかないものを見出すことができる。そこさえきちんと踏まえていれば色々大丈夫。とは思うものの……言うは易し、の典型だなあこれは。――そんなことを、「デート・ア・ライブ」の橘公司先生が執筆した「プレオーフェン」の短編を読みながら考えてました。ドラマガ30周年記念企画の一環だそうです。「スレイヤーズ」や「フルメタ」も載ってるよ。