2008年 02月 19日
「やおい論争」のフォローアップ |
さてと、例の「やおい論争」。
"Queer Studies '96"を取り寄せてみました。"性"を巡る問題について、これだけ熱く語っている人たちの活字を追っていると正直クラクラするような気分になりました。それは僕が普段「差別」という問題について意識せずに生活しているからなのでしょうが、それにしても差別だのなんだのといったフレームワークを多用した世界観を持つと、なんだか息苦しい気がしてきます。その中で「少女マンガとホモフォビア」と名付けられた佐藤小論文はむしろライト路線な文章でした。
もっとも「やおい論争」と言っても、ここで言う「やおい論争」は「CHOISIR」(ショワジール)というミニコミ誌で1992年から4年間にわたって行われた一連の論争のことを指しています。「生き方とセクシュアリティを考える女性のためのミニコミ誌」という触れ込みの書物ですから、国立国会図書館にでもいけば閲覧できるのかもしれませんが、10年以上昔のミニコミ誌の現物を見つけるのは容易じゃありません。ですので、以下、まず底本にしているのは1996年7月に出版された"Queer Studies '96"における佐藤雅樹著「少女マンガとホモフォビア」(P.161〜169)という小論文であることを明記しておきます。
「やおい論争」についてより知りたい方は
蜜の厨房『◆ 正しいボーイズラブ講座特別番外編 ◆やおいよりも”やおい論”を書きたいあなたへ』(http://www.bl.mmtr.or.jp/~kitchen/mits/mamesp02a.shtml)
をご覧になられると良いかと思う。
さて、1992年「CHOISIR」誌上にて「ヤオイなんて死んでしまえばいい。ヤオイなんて大嫌いだ。差別してやる。こんな奴らの人権なんて、認めてやらない。まったく、死んでほしい」という佐藤氏の問題提起から始まった本論争。4年後の佐藤氏の小論文はとても穏やかなものだった。いくつか要点をつまみ出してみる。
1.1970年代に少女マンガにおいて草分け的に表現されるようになった同性愛。1978年には"JUNE"が創刊され、80年代には"モーリス"、"アナザー・カントリー"という美青年ホモ映画が公開され、1990年代には「ゲイ・ブーム」という社会現象まで発展した。しかし「そこでイメージされる姿は、現実の同性愛者とはまったく異なるものである。それらは、あくまで異性愛者の女たちの性的ファンタジーに都合よく捏造された姿なのだ」。
2.通称「24年組」を引き合いにし、「ゲイ・ブーム」の誕生に少女マンガが大きく貢献していることをのべている。"CREA"(1991年3月号)に掲載された竹宮恵子のインタビューが引用されている。
「少女漫画界で、性描写がほとんどご法度だった頃に、自ら課している性の禁縛から、少女達を精神的に解放したくて、少年対少年という形に変えて禁縛の裏をかいた。だからゲイを表現したものとは自ずと違う」
3.ところが「二十四年組作家たちが何かを表現する手段として開発した『少年愛』『同性愛』という設定は、『耽美ホモ』という定番の『型』と化し、『様式美』へと堕していくのである」。
4.「受け手であることに飽き足らなくなった女たちは、いつしか、ついに、自らペンを取って表現するということを発見する。アニメや少年誌などのキャラクターを無断使用して、過激なセックスシーンなどを展開させてしまうのである。‥これらは『ヤマなし、オチなし、イミなし』という自嘲的な意味あいから『やおい』と呼ばれ‥巨額な金を動かすほどの『個人的な楽しみ』となるのである」
5.「表現物の中に押し込まれてしまったゲイの側からながめると、女たちは確実に『男』化しつつあるように見える。他者を使って、自らの性的ファンタジーに都合よい役割を演じさせ、あまつさえ、ベッドの中までのぞき見してしまおうというのだから、タチが悪い」
6.「キャラクターには共通していることが一つだけある。つまり、『女を楽しませてくれること』である」(注:このあと男性誌側の問題にも触れている)
7.「『女性差別表現』という言葉がある。『女を欲望の対象としてのみ描き、女の性を商品化する表現』、または『女を男社会に隷属させるためのステレオタイプに押し込める表現』であると理解している。‥では少女マンガにおける同性愛表現、とりわけ、やおい表現物などは『ゲイ差別』にあたるのだろうか?」
ふむふむふむふむ、おもしろいねぇ。
この問題提起がフェミニズム系の雑誌に投稿されたんでしょう?
そうでなくとも自分たちへの差別には敏感な人たちが、平手打ちを食らった気分になったんだろうなと想像できます。で、続きを。
8.「CHOISIR」誌上での「やおい論争」に関わる中で女性側の言い分に次のようなものがあったという。
「私がショックを受けたのは、あなたがやおいを自分に関係あることとして受け止めていることでした」
「ゲイの人たちがやおい本を読むということは、私の世界に土足で踏み込まれたような気がするのです」
「そこで描かれているのは『究極の関係』という『物語』であって、『純粋な欲望』としてのセックスではない」
以下、とても大事な部分なので長めに引用します。
9.「(異性愛者の)男が買うポルノグラフィが女性差別表現になってしまうのは、(異性愛者の)男と女に社会的な不均衡があるからだ。性の商品化自体が悪いのではなく、社会的な弱者(『男対女』という図式においては『女』)」に性の商品化を押しつけてしまうからである」
10.「この強制異性愛社会では、同性愛者は異性愛の情報、価値観に完全包囲されている。自分たちに必要な情報さえ、自覚的に求めなければ与えられない。表現物、情報において、明らかな不均衡があるのである」
11.「『男同士』という型を使ったときからすでに『現実の同性愛者』と切り離しては考えられないのだ。『同性愛』という型を使いながら『そんなつもりはなかった』などと言うのは、あまりにも愚かで無自覚な話である」
12.「『愛』だの『関係性』だのという口実があれば許されるという問題ではないのだ。自分より弱い立場の存在にステレオタイプを押し付けることが『差別』なのである」
そして佐藤氏は「もう一度、自分たちが『男社会』から強制され続けてきたことを思い出したらいい。そして女たちがポルノを批判してきた言説をふりかえってみればいいのだ」と続ける。
ほうほうほうほう。なるほどなあー。
13.「問題は『ホモフォビア(同性愛嫌悪)』なのである。このことは作品の『質』とは無関係だ。『いい』と言われている名作にもホモフォビアは隠されているだろうし、同性愛者自身が描いた表現物にもホモフォビアが潜んでいるかもしれない。内なる『ホモフォビア』に無自覚であることこそ『差別的なるもの』の正体なのだ」
14.「極端な話、『ヤオイ表現物』がどれほどゲイにとって差別的であろうと、存在してもいいんだと僕は思う。しかし、それはあくまで『個人的範囲』の楽しみなのだ。その範囲を逸脱したとき『差別』になりうるということである。『個人的範囲』を逸脱するということは、他者の価値観にさらされるということだ。そのところの一線がわからないやつは『バカ』だ。だから、『私たちの領域に土足で踏み込まれた気がする』なんてバカなことを言う前に、すこしは『恥じ入れ!』ということである。『他人の領域』に土足で踏み込んでるんだよ。潔く謝るか、開き直るんだったら『差別者』の烙印を引き受けるぐらいの覚悟をもってほしいものだ」。
以上が、佐藤氏の「少女マンガとホモフォビア」の概要だ。
意図的に都合の悪いところをカットするようなまねはしていないつもりだ(引用しすぎた感は多々ある)。
論争当時の女性側のいい分は「蜜の厨房」さんを参照してもらえば、ある程度は補完されると思う。彼女らは「やおいはあくまでもファンタジーであり、同性愛者側から不愉快であると言われたら謝るしかない」というスタンスだったようだ。リアル世界に存在している同性愛者についてあまり認識がなかったように感じられる。
雑感的なイメージを述べさせてもらうと、これってゲイから糾弾された「腐女子の品格」みたいなものなのかしら?腐女子、それも彼が論争した相手はそれなりに「ヤオイ界」では有名な人たちだったようだから、とくにプロデビューしているような彼女らを含め、表現者としての姿勢を糾していたように思う。
だからこれは「やおい論争」というタイトルではよく見えない部分があって、「やおいという作品ジャンル」について述べるよりはむしろ、その裏にいる作家の制作動機とその姿勢についての分析だったのではないだろうか?「やおい穴」は実在するのか否かではなくて。
さてさてさて。
この議論が行われてから既に10年以上がたち、議論の前提条件もだいぶかわってしまった。
以前日記に投稿したものも生かしつつ、再度この問題について取り組んでみたい。
そもそも二十四年組から始まった同性愛表現。それはもともとは少女マンガにおいて性表現を実現するための設定であって、同性愛の裏側には異性愛が隠されていた。タチの少年と、女性器を持たない少女……ウケの少年ふたりの恋愛の成り行きと、そして様々な性行為が描写される。作家と初期の少女マンガの読み手たちはその前提条件を理解していたのかもしれないが、同性愛という「型」を使って読者(主に女性)が遊び始めるようになってから状況は変わっていったのだという。
ボーイズ・ラブのルーツについては2008年1月10日の日記が僕の認識だ。
あれから少し補完された情報を付け加えるならば、コミケというと巨乳美少女という男性向け同人誌を買い求めるオタクを想像しがちだが、実はコミケの発足以来サークル数では圧倒的に女性サークル(女性向け作品を販売しているもの)が多く、内容についても発足当初からオリジナル、パロディを含めて「同性愛もの」は多数取引されていたということくらいだ。
どこから手を付けていったら良いだろうか悩むが、まずは佐藤小論文について語ってゆきたいと思う。
佐藤氏の指摘はおおむね興味深く的を得ていて、フェミニズム系の雑誌で炸裂した「男社会から抑圧されている女」の立場を自認する人たちに「女たちに搾取されるゲイの立場ってどう思うよ?」に「やおい陣営」が総崩れだったことが興味深かった。
「私がショックを受けたのは、あなたがやおいを自分に関係あることとして受け止めていることでした」という無自覚さ加減や、あまつさえ「ゲイの人たちがやおい本を読むということは、私の世界に土足で踏み込まれたような気がするのです」という身勝手な発言には苦笑するしかない。
あまり差別差別と言う気はないが、「男同士の性行為」を物語の主軸にしていてなおかつ金をとっているならば、少なくともリアル世界での「男性同性愛者」から「あんたたち勝手なことを書き散らしているけれど、いったいどういうつもりよ?」と正面から切り込まれて上記の発言しかできないのでは情けない。「おもしろいし、あたしが興奮するから」とか「金のためだよ、金」とか言い切ってくれた方がいっそ気持ちいいんだけどな。
女性ウケの良い美青年がボーイズ・ラブの主役に据えられているのは確かで、それがゲイのステレオタイプになってしまっている点は否定できない。ただし、2000年以降位から「オヤジ受け」とか「毛深いマッチョ」なんてキャラクターが登場してきているので、作家の意図(おもしろ半分に始めたのかもしれないけれど)はともかく状況は少し変わってきているのかもしれない。TVだっていまだに「オカマ枠」は美青年よりも「キワモノ組」ががんばってくれているせいで、「ゲイ=美青年」という図式はあまりあてはまらないのかもしれないし。
やおい少女を擁護できるとしたら、個人的動機のものが経済行為に発展してしまい、多数の目に触れるようになったときに表現者としての覚悟ができていなかったのは仕方ないだろう、ということだと思う。作家個人に期待したいのは、あなた方のメシの種は「同性愛者」というイメージからのくみ上げであって、せめてリアル世界の同性愛者の存在についてすこし意識してみたらどうですか?ということ。そして相手の縄張りに不用意に触らないってことかな。
表現者ということで言えば、すでに叩かれていますが、『とんねるずのみなさんのおかげです』で"保毛尾田保毛男"、"保毛太郎侍"で差別イメージをまき散らしたフジテレビは「つぶれちまえ」と当時僕は思ったものです。あれこそ許認可事業者で、プロの表現者として差別イメージの扱いに敏感にならねばならないはずの立場の人間のやることではないと、怒りを覚えましたね。
佐藤氏も指摘しているように、作品の「質」と作家は別物です。個人的にはホモフォビアな人物が「やおい」をメシの種にして生計を立てているとしたら「なんだかなぁ」と思いますが、それは「やおい」関係者に限ったことではなくて、相手にステレオタイプのレッテルを貼付け、相手そのものをみようとしないことから始まる一連のこと……いつでも自分が別の局面で差別の加害者になり得ることへの警告として心に留めたいと思います。
以上で、「やおい論争」(佐藤小論文にまつわる部分)の話はおしまいにします。
1996年当時に指摘されていたマイノリティとして同性愛者が置かれていた情報不足の問題も、それからすぐにネットで解消されてしまったし、佐藤氏が提唱した「同性愛者自身が自分たちに必要な表現物を出していくこと」についてもマンガに限って言えばいまだボーイズ・ラブ業界に追いつけていない。一方で少女マンガ界「美少年愛」ものの生みの母萩尾望都が、アンチ・ボーイズ・ラブ的作品と言ってよいような"残酷な神が支配する"を発表したりと、いろいろとトピックスがあります。
「やおい論争」のその先の話はまた別の機会に。
"Queer Studies '96"を取り寄せてみました。"性"を巡る問題について、これだけ熱く語っている人たちの活字を追っていると正直クラクラするような気分になりました。それは僕が普段「差別」という問題について意識せずに生活しているからなのでしょうが、それにしても差別だのなんだのといったフレームワークを多用した世界観を持つと、なんだか息苦しい気がしてきます。その中で「少女マンガとホモフォビア」と名付けられた佐藤小論文はむしろライト路線な文章でした。
もっとも「やおい論争」と言っても、ここで言う「やおい論争」は「CHOISIR」(ショワジール)というミニコミ誌で1992年から4年間にわたって行われた一連の論争のことを指しています。「生き方とセクシュアリティを考える女性のためのミニコミ誌」という触れ込みの書物ですから、国立国会図書館にでもいけば閲覧できるのかもしれませんが、10年以上昔のミニコミ誌の現物を見つけるのは容易じゃありません。ですので、以下、まず底本にしているのは1996年7月に出版された"Queer Studies '96"における佐藤雅樹著「少女マンガとホモフォビア」(P.161〜169)という小論文であることを明記しておきます。
「やおい論争」についてより知りたい方は
蜜の厨房『◆ 正しいボーイズラブ講座特別番外編 ◆やおいよりも”やおい論”を書きたいあなたへ』(http://www.bl.mmtr.or.jp/~kitchen/mits/mamesp02a.shtml)
をご覧になられると良いかと思う。
さて、1992年「CHOISIR」誌上にて「ヤオイなんて死んでしまえばいい。ヤオイなんて大嫌いだ。差別してやる。こんな奴らの人権なんて、認めてやらない。まったく、死んでほしい」という佐藤氏の問題提起から始まった本論争。4年後の佐藤氏の小論文はとても穏やかなものだった。いくつか要点をつまみ出してみる。
1.1970年代に少女マンガにおいて草分け的に表現されるようになった同性愛。1978年には"JUNE"が創刊され、80年代には"モーリス"、"アナザー・カントリー"という美青年ホモ映画が公開され、1990年代には「ゲイ・ブーム」という社会現象まで発展した。しかし「そこでイメージされる姿は、現実の同性愛者とはまったく異なるものである。それらは、あくまで異性愛者の女たちの性的ファンタジーに都合よく捏造された姿なのだ」。
2.通称「24年組」を引き合いにし、「ゲイ・ブーム」の誕生に少女マンガが大きく貢献していることをのべている。"CREA"(1991年3月号)に掲載された竹宮恵子のインタビューが引用されている。
「少女漫画界で、性描写がほとんどご法度だった頃に、自ら課している性の禁縛から、少女達を精神的に解放したくて、少年対少年という形に変えて禁縛の裏をかいた。だからゲイを表現したものとは自ずと違う」
3.ところが「二十四年組作家たちが何かを表現する手段として開発した『少年愛』『同性愛』という設定は、『耽美ホモ』という定番の『型』と化し、『様式美』へと堕していくのである」。
4.「受け手であることに飽き足らなくなった女たちは、いつしか、ついに、自らペンを取って表現するということを発見する。アニメや少年誌などのキャラクターを無断使用して、過激なセックスシーンなどを展開させてしまうのである。‥これらは『ヤマなし、オチなし、イミなし』という自嘲的な意味あいから『やおい』と呼ばれ‥巨額な金を動かすほどの『個人的な楽しみ』となるのである」
5.「表現物の中に押し込まれてしまったゲイの側からながめると、女たちは確実に『男』化しつつあるように見える。他者を使って、自らの性的ファンタジーに都合よい役割を演じさせ、あまつさえ、ベッドの中までのぞき見してしまおうというのだから、タチが悪い」
6.「キャラクターには共通していることが一つだけある。つまり、『女を楽しませてくれること』である」(注:このあと男性誌側の問題にも触れている)
7.「『女性差別表現』という言葉がある。『女を欲望の対象としてのみ描き、女の性を商品化する表現』、または『女を男社会に隷属させるためのステレオタイプに押し込める表現』であると理解している。‥では少女マンガにおける同性愛表現、とりわけ、やおい表現物などは『ゲイ差別』にあたるのだろうか?」
ふむふむふむふむ、おもしろいねぇ。
この問題提起がフェミニズム系の雑誌に投稿されたんでしょう?
そうでなくとも自分たちへの差別には敏感な人たちが、平手打ちを食らった気分になったんだろうなと想像できます。で、続きを。
8.「CHOISIR」誌上での「やおい論争」に関わる中で女性側の言い分に次のようなものがあったという。
「私がショックを受けたのは、あなたがやおいを自分に関係あることとして受け止めていることでした」
「ゲイの人たちがやおい本を読むということは、私の世界に土足で踏み込まれたような気がするのです」
「そこで描かれているのは『究極の関係』という『物語』であって、『純粋な欲望』としてのセックスではない」
以下、とても大事な部分なので長めに引用します。
9.「(異性愛者の)男が買うポルノグラフィが女性差別表現になってしまうのは、(異性愛者の)男と女に社会的な不均衡があるからだ。性の商品化自体が悪いのではなく、社会的な弱者(『男対女』という図式においては『女』)」に性の商品化を押しつけてしまうからである」
10.「この強制異性愛社会では、同性愛者は異性愛の情報、価値観に完全包囲されている。自分たちに必要な情報さえ、自覚的に求めなければ与えられない。表現物、情報において、明らかな不均衡があるのである」
11.「『男同士』という型を使ったときからすでに『現実の同性愛者』と切り離しては考えられないのだ。『同性愛』という型を使いながら『そんなつもりはなかった』などと言うのは、あまりにも愚かで無自覚な話である」
12.「『愛』だの『関係性』だのという口実があれば許されるという問題ではないのだ。自分より弱い立場の存在にステレオタイプを押し付けることが『差別』なのである」
そして佐藤氏は「もう一度、自分たちが『男社会』から強制され続けてきたことを思い出したらいい。そして女たちがポルノを批判してきた言説をふりかえってみればいいのだ」と続ける。
ほうほうほうほう。なるほどなあー。
13.「問題は『ホモフォビア(同性愛嫌悪)』なのである。このことは作品の『質』とは無関係だ。『いい』と言われている名作にもホモフォビアは隠されているだろうし、同性愛者自身が描いた表現物にもホモフォビアが潜んでいるかもしれない。内なる『ホモフォビア』に無自覚であることこそ『差別的なるもの』の正体なのだ」
14.「極端な話、『ヤオイ表現物』がどれほどゲイにとって差別的であろうと、存在してもいいんだと僕は思う。しかし、それはあくまで『個人的範囲』の楽しみなのだ。その範囲を逸脱したとき『差別』になりうるということである。『個人的範囲』を逸脱するということは、他者の価値観にさらされるということだ。そのところの一線がわからないやつは『バカ』だ。だから、『私たちの領域に土足で踏み込まれた気がする』なんてバカなことを言う前に、すこしは『恥じ入れ!』ということである。『他人の領域』に土足で踏み込んでるんだよ。潔く謝るか、開き直るんだったら『差別者』の烙印を引き受けるぐらいの覚悟をもってほしいものだ」。
以上が、佐藤氏の「少女マンガとホモフォビア」の概要だ。
意図的に都合の悪いところをカットするようなまねはしていないつもりだ(引用しすぎた感は多々ある)。
論争当時の女性側のいい分は「蜜の厨房」さんを参照してもらえば、ある程度は補完されると思う。彼女らは「やおいはあくまでもファンタジーであり、同性愛者側から不愉快であると言われたら謝るしかない」というスタンスだったようだ。リアル世界に存在している同性愛者についてあまり認識がなかったように感じられる。
雑感的なイメージを述べさせてもらうと、これってゲイから糾弾された「腐女子の品格」みたいなものなのかしら?腐女子、それも彼が論争した相手はそれなりに「ヤオイ界」では有名な人たちだったようだから、とくにプロデビューしているような彼女らを含め、表現者としての姿勢を糾していたように思う。
だからこれは「やおい論争」というタイトルではよく見えない部分があって、「やおいという作品ジャンル」について述べるよりはむしろ、その裏にいる作家の制作動機とその姿勢についての分析だったのではないだろうか?「やおい穴」は実在するのか否かではなくて。
さてさてさて。
この議論が行われてから既に10年以上がたち、議論の前提条件もだいぶかわってしまった。
以前日記に投稿したものも生かしつつ、再度この問題について取り組んでみたい。
そもそも二十四年組から始まった同性愛表現。それはもともとは少女マンガにおいて性表現を実現するための設定であって、同性愛の裏側には異性愛が隠されていた。タチの少年と、女性器を持たない少女……ウケの少年ふたりの恋愛の成り行きと、そして様々な性行為が描写される。作家と初期の少女マンガの読み手たちはその前提条件を理解していたのかもしれないが、同性愛という「型」を使って読者(主に女性)が遊び始めるようになってから状況は変わっていったのだという。
ボーイズ・ラブのルーツについては2008年1月10日の日記が僕の認識だ。
あれから少し補完された情報を付け加えるならば、コミケというと巨乳美少女という男性向け同人誌を買い求めるオタクを想像しがちだが、実はコミケの発足以来サークル数では圧倒的に女性サークル(女性向け作品を販売しているもの)が多く、内容についても発足当初からオリジナル、パロディを含めて「同性愛もの」は多数取引されていたということくらいだ。
どこから手を付けていったら良いだろうか悩むが、まずは佐藤小論文について語ってゆきたいと思う。
佐藤氏の指摘はおおむね興味深く的を得ていて、フェミニズム系の雑誌で炸裂した「男社会から抑圧されている女」の立場を自認する人たちに「女たちに搾取されるゲイの立場ってどう思うよ?」に「やおい陣営」が総崩れだったことが興味深かった。
「私がショックを受けたのは、あなたがやおいを自分に関係あることとして受け止めていることでした」という無自覚さ加減や、あまつさえ「ゲイの人たちがやおい本を読むということは、私の世界に土足で踏み込まれたような気がするのです」という身勝手な発言には苦笑するしかない。
あまり差別差別と言う気はないが、「男同士の性行為」を物語の主軸にしていてなおかつ金をとっているならば、少なくともリアル世界での「男性同性愛者」から「あんたたち勝手なことを書き散らしているけれど、いったいどういうつもりよ?」と正面から切り込まれて上記の発言しかできないのでは情けない。「おもしろいし、あたしが興奮するから」とか「金のためだよ、金」とか言い切ってくれた方がいっそ気持ちいいんだけどな。
女性ウケの良い美青年がボーイズ・ラブの主役に据えられているのは確かで、それがゲイのステレオタイプになってしまっている点は否定できない。ただし、2000年以降位から「オヤジ受け」とか「毛深いマッチョ」なんてキャラクターが登場してきているので、作家の意図(おもしろ半分に始めたのかもしれないけれど)はともかく状況は少し変わってきているのかもしれない。TVだっていまだに「オカマ枠」は美青年よりも「キワモノ組」ががんばってくれているせいで、「ゲイ=美青年」という図式はあまりあてはまらないのかもしれないし。
やおい少女を擁護できるとしたら、個人的動機のものが経済行為に発展してしまい、多数の目に触れるようになったときに表現者としての覚悟ができていなかったのは仕方ないだろう、ということだと思う。作家個人に期待したいのは、あなた方のメシの種は「同性愛者」というイメージからのくみ上げであって、せめてリアル世界の同性愛者の存在についてすこし意識してみたらどうですか?ということ。そして相手の縄張りに不用意に触らないってことかな。
表現者ということで言えば、すでに叩かれていますが、『とんねるずのみなさんのおかげです』で"保毛尾田保毛男"、"保毛太郎侍"で差別イメージをまき散らしたフジテレビは「つぶれちまえ」と当時僕は思ったものです。あれこそ許認可事業者で、プロの表現者として差別イメージの扱いに敏感にならねばならないはずの立場の人間のやることではないと、怒りを覚えましたね。
佐藤氏も指摘しているように、作品の「質」と作家は別物です。個人的にはホモフォビアな人物が「やおい」をメシの種にして生計を立てているとしたら「なんだかなぁ」と思いますが、それは「やおい」関係者に限ったことではなくて、相手にステレオタイプのレッテルを貼付け、相手そのものをみようとしないことから始まる一連のこと……いつでも自分が別の局面で差別の加害者になり得ることへの警告として心に留めたいと思います。
以上で、「やおい論争」(佐藤小論文にまつわる部分)の話はおしまいにします。
1996年当時に指摘されていたマイノリティとして同性愛者が置かれていた情報不足の問題も、それからすぐにネットで解消されてしまったし、佐藤氏が提唱した「同性愛者自身が自分たちに必要な表現物を出していくこと」についてもマンガに限って言えばいまだボーイズ・ラブ業界に追いつけていない。一方で少女マンガ界「美少年愛」ものの生みの母萩尾望都が、アンチ・ボーイズ・ラブ的作品と言ってよいような"残酷な神が支配する"を発表したりと、いろいろとトピックスがあります。
「やおい論争」のその先の話はまた別の機会に。
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コンタクトレンズも定額制の時代に
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by cool-october2007
| 2008-02-19 19:29
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