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【コラム】

筆洗

 映画「赤ひげ」の中に杉村春子さん演じる女主人がおかみさん連中から大根で頭をぽかぽか殴られるという場面がある。撮影は難航した。相手は大女優。殴る方はどうしても遠慮する。満足できない黒沢明監督は何度も撮り直したそうだから、最終的に杉村さんはどれほど殴られたことか▼別の映画の話である。お金を払うから子どもを譲ってくれないかという横柄な男を、父親が腹を立て、殴るという場面。父親役の俳優はどうも強く殴れない▼黒沢監督なら怒るだろうが、その監督はその様子を見て、この父親はいくら腹が立っても殴れない人間なのだと感じ、自分の脚本よりリアルでおもしろいとそのままにしたそうだ▼映画は、「そして父になる」。監督は是枝裕和さん。カンヌ国際映画祭で是枝監督の「万引き家族」が最高賞「パルムドール」を受賞した▼殴るシーンの違いは同じ受賞者の黒沢監督と比べ、どちらがという話ではない。それが是枝さんの方法論である。先入観にとらわれず、人間を知りたいという柔軟な目。それがリアルで味わい深い作品につながっているのだろう▼心弱く、行い悪い人物を決して断罪や非難で描かないのも、先入観を疑う手法と関係があるのかもしれない。「薄汚れた世界がふと美しく見える瞬間を描きたい」。人の弱さ。それさえ是枝監督には美しく見える。世界がその目を評価した。

 

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