ジャッキーがハリウッドで失敗?あんた「レッド・ブロンクス」以降のアメリカでの人気を知らないのか?と言われるのを承知で、このタイトルにしてみました。あえて失敗と書いたのは、ヒット作が出た後も本人の思惑とは違った受け取られ方をしてしまい、それが「ハリウッド進出には失望した」という発言に繋がっていると思われるからです。
1.ハリウッド進出への熱意
ブルース・リーの「燃えよドラゴン」(73年)がアメリカで製作されヒットしてから、香港の映画会社ゴールデン・ハーベストは次のアメリカ進出を目論んでいました。そしてアメリカで成功したブルース・リーは、香港で尊敬の対象となり、映画俳優ならいつかはアメリカで成功したいという機運がありました。
ジャッキー・チェンは香港でトップスターになり、日本で人気を得たことで、次にアメリカ進出というのは当然の流れでした。彼は並々ならぬ意欲で、ハリウッドに進出します。
2.最初のハリウッド進出
「燃えよドラゴン」の監督、ロバート・クローズを迎えて、カンフー映画「バトルクリーク・ブロー」(80年)が製作されました。しかしジャッキー・チェンは監督と衝突を繰り返します。衝突の原因はアクションシーンの演出で、映画の出来栄えにジャッキー・チェンもロバート・クローズも満足がいかず、当たり前ですがヒットしませんでした。
※「バトルクリーク・ブロー」のポスター |
次に「キャノンボール」(81年)と「キャノンボール2」(83年)に出演します。パート・レイノルズ主演のカースタント映画で、レーサー役の1人として、コメディリリーフとしての出演でした。映画はソコソコのヒットでしたが、オールスターキャストで撮られたため、ジャッキー・チェンの名前はさほど話題になっていません。
※アメリカ向けポスターの多くには、ジャッキー・チェンの顔はありません。 |
そしてB級映画の巨匠、ジェームズ・グリッケンハウスを監督に迎えた主演映画「プロテクター」(85年)が製作されます。アメリカを舞台にした刑事もので、ジャッキー・チェンは刑事役でした。しかしここでも演出を巡って監督と衝突を繰り返し、出来栄えに満足しないジャッキー・チェンは自腹で権利を買い取り、再編集してしまいます。そのため本作には、グリッケンハウス版とジャッキー版の2種類が存在し、どちらもヒットしませんでした。
これ以降、ハリウッドからは遠ざかることになります。
3.なぜ監督と衝突を繰り返したのか
「バトルクリーク・ブロー」も「プロテクター」も、ジャッキー・チェンのアクション・シークエンスが問題でした。ハリウッド映画では、ジョン・ウェインの「スポイラース」(42年)から、大男がフラフラになるまで渾身の力をこめて殴り合うのが定番でした。雨の中で殴り合うのを定番化したのもこの映画です。
※ジョン・ウェインの「スポイラース」 |
アメリカでアクション指導をしていたブルース・リーは、アメリカの観客にどうすれば自分を魅せることができるかを熟知していました。リーは「燃えよドラゴン」で、ジョン・ウェインのように一撃で殴り倒すだけでなく、スピードと動きのキレを見せつけました。2m近いジョン・ウェインのような迫力が出ない小柄なリーは、このスピードとキレで観客の目を釘付けにしたのです。
ジャッキー・チェンがハリウッドに進出した際に、ハリウッドが求めたのはアメリカの俳優にはない、このスピードとキレでした。しかし武術を学んだ経験のないジャッキー・チェンには、リーのようなスピードやキレはありません。彼の持ち味は身の回りも物を小道具に使う、コミカルなアクション・シークエンスです。これはハリウッドが求めたものではありませんでした。
ドタバタと何発も殴り、お盆や花瓶を使って倒すのは、アメリカでは主人公のピンチを助けるヒロインの動きです。現在のように香港映画が流通し、「マトリックス」もヒットした現在ならジャッキー・チェンのアクションも違ったとらえ方をされていますが、当時のアメリカでは主役の男性の動きではなかったのです。
4.アメリカへの働きかけ
香港のゴールデン・ハーベスト社にとって、アメリカ市場の開拓は悲願でした。そこでジャッキー・チェンの進出失敗後も、さまざまな映像をアメリカに持ち込んでいました。その中でジャッキー・チェンの映画「ポリスストーリー3」に関して、アメリカ側からこんな質問があります。
「ヘリコプターから主役の男性が列車に飛び降りる場面は、どうやって撮影したんですか?」
ゴールデン・ハーベスト社の担当は「見たままです。主演のジャッキー・チェンが、走っている列車にヘリから飛び降りました」と答え、質問した側はショックを受けます。
「クレイジーだ!頭がおかしい!」
こうして「ポリスストーリー3」は、ハリウッド関係者の間で「イカれ俳優がクレイジーなスタントを行った映画」として知られていきます。ゴールデン・ハーベスト社は、糸口をつかみました。アメリカ市場の糸口は、ジャッキー・チェンのスタントでした。そこでアメリカ市場を前提にし、スタントを中心にした映画「レッド・ブロンクス」が製作されました。
※命綱なしで主演俳優がこんなことをやるなんて、クレイジーすぎますよね。 |
5.再びハリウッド市場へ
96年にアメリカで「レッド・ブロンクス」が公開された時、配給会社はスタントマン抜きで俳優が全てのアクションを行っていることを宣伝材料にしました。アメリカにもスタントマンを極力排する役者はいましたが、「レッド・ブロンクス」の過激さはそれらを上回っていました。
※「レッド・ブロンクス」のポスター |
そして「レッド・ブロンクス」は、ハリウッドの関係者にスタント以外にも目を向けさせました。ジャッキー・チェンのコメディアンとしてのセンスです。そしてこれが新たな企画を生みました。コメディアンのクリス・タッカーとの共演作品「ラッシュ・アワー」(98年)です。
コメディを軸にしたアクション映画なので、ジャッキー・チェンのドタバタした動きも活かせました。黒人とアジア人のダブル主演は客層が限定されるという見方もありましたが、1億ドルを超える大ヒットになり、ジャッキー・チェンのスタントマンを使わないアクションはここでも話題になりました。
6.ハリウッド進出を失敗と書いた理由
ジャッキー・チェンが香港で主演を務めるようになった頃、香港映画はどれもブルース・リーの映画のコピーでした。しかし本格的に武術を習った経験がないジャッキー・チェンには、ブルース・リーのような動きはできず、またブルース・リーの真似では役者として大成しないという不安もありました。
プロデューサーの要求とオリジナリティとの葛藤の中で生み出したのが、バタバタと動き回るコミカルなアクション・シークエンスで、これが評判になりジャッキー・チェンの代名詞になります。
しかしハリウッドに進出すると、またしてもブルース・リーの真似を要求され、それでは自分らしさが出ないと自分のスタイルを通そうとして衝突してしまいました。ですからジャッキー・チェンは、単にアメリカで成功したいのではなく、自分のスタイルで成功したいと思っていたのではないでしょうか。
「ラッシュ・アワー」の成功は、ジャッキー・チェンの名前をアメリカに知らしめました。しかしこの成功は、ジャッキー・チェンは単体では主役を務められないことを証明し、彼のアクションはコメディリリーフとしてのみ機能することを証明しました。そしてアメリカでの評判は、彼のコミカルなアクションよりもスタントだったのです。
ジャッキー・チェンが「アメリカ進出は失望」と語るのは、自分のスタイルが否定されたからだと思います。
7.時期も悪かった
80年代にジャッキー・チェンがハリウッドに進出した頃、ブルース・リーに続くカンフースターとして、チャック・ノリスが人気絶頂でした。チャック・ノリスは空手の有段者で、大きな大会での優勝経験が何度もあります。さらにブルース・リーと仲が良く、彼の映画にも敵役で出演していました。
※チャック・ノリス |
英語が十分に話せないアジア系のジャッキー・チェンでは、興行的に敵わないのは当然ともいえるでしょう
8.まとめ
本人が望む形と求められるものがミスマッチだったのが、成功の妨げになったのは間違いないと思います。その一方で、アメリカで成功していたら、その後の数々の失言は致命的なダメージになっていた気もするので、これで良かったのではないかとも思います。
「どこかの国で、地震や津波が起こればよい」というカリフォルニアでの発言は、なんとか取り繕うことができました。しかし泥酔して放送禁止用語を連発したり、数々の女性蔑視発言はアメリカではヒステリックな批判を浴びたでしょうし、弁解のしようがないレベルのものもありました(これらは徹底して日本のメディアは報道しないですね)。