2018年05月20日
『スッタニパータ 八つの詩句の章(01)欲望~最上についての八つの詩句 』
音声動画だけで学ぼうとすると見えない部分がある。この欲望の節などその典型だろう。
だが、書籍になった経典を眺めていればそういったことにも気づけると思う。
例えば、この「欲望」のあとにには、「洞窟についての八つの詩句」「悪意についての八つの詩句」などといったような節がつづく、こうした流れから、それらの節は大きく分けて色界・無色界・欲界という立てわけがされていることが推察できるといえる。
無論、この「欲望」の節は欲界に相当するものだろう。
また、「洞窟についての八つの詩句」は色界であり、「悪意についての八つの詩句」は無色界であろう。
その欲界、色界、無色界というのは――
欲界とは、基本的に姿形あるモノに対して欲望を抱いているものが住む境涯=界。
したがって「欲望」の節は欲界について説かれているのだろう。
色界とは、欲望を捨て去ってはいるが、いまだ自分の肉体そのものに執着している境涯。
したがって「洞窟についての――」の節は色界について説かれているのだろう。
やれ、ダイエットであるとか、やれ、自分のこの部分がコンプレックスだなどと執着しているのが簡単にいえば、色界の境涯といえよう。
もっとも、現実には執着を捨てろといっても、捨てられるものではないので、これはこういう欲であるとか、これはこういう執着であるということを、明らかに見極めて(明らめて)、それに対処しなさいと経典にはきちんとあるわけだ。
激流をまっすぐ渡りきるとはそういうメタファーなわけだ。
この流れがどれくらい早く、どれくらい深い、そう知っていれば、激流の川であってもまっすぐ渡ることは出来るわけだ。
つまり、捨てるとは知り尽くす、考え尽くしたうえで、(足るを知ったうえで、それに見合った)対処をするということだ。
また、無色界とは、身体とは諸行無常の仮の実存だと知り尽くし、自分の肉体への執着も捨て去った境涯。
だが、まだ心による偏見や先入観が捨て切れていない境涯。
したがって「悪意についての――」の節は無色界(心=意)について説かれているのだろう。
ここで捨て切れていないのは、物に対するものではなく、いわゆる正邪善悪といった観念・概念のことだ。
このように、三界というのは法華経でいう十界論のような構造になっているわけだ。欲界が最も執着の多い境涯で、色界、無色界へと修行を進めることで、少しづつ執着を捨てていくということ。
したがって、心の世界での執着を捨てる方法が、「悪意についての――」のあとにつづく「清浄についての八つの詩句」から先になるわけだ。
そして、「清浄についての八つの詩句」とそれにつづく「最上についての八つの詩句」では、非常に大切なことが説かれている。
「清浄で無病の、清らかな人をわたしは見る。人が全く清らかになるのは見解による」と、このように考えることを清浄であると知って、清らかなことを観ずる人は、(見解を、最上の境地に達し得る)智慧であると理解する。
――と。
つまり、ものの見方(認知・認識のしかた)で最上の境地に達せるのだと釈迦は言ったということだろう。
したがって、最上になれないものの見方とはすなわち偏見であると、釈迦はつぎの節で説いている。
世間では、人は諸々の見解のうちで勝れているとみなす見解を「最上のもの」であると考えて、それよりも他の見解はすべて「つまらないもの」と説く、それ故にかれは諸々の論争を超えることはない。
――と。
法華経こそ最第一の経典である。仏教は「平等」こそ真理と説いてはいるが、法華経が最も優れていると説いてよいなどといった「法華の慢」だけは許されるとかなんとかいって、他を見下す「見解」をしてる時点で、日蓮の見解など信用が置けないということだ。
それは確かに、あらゆる経典を披見してみれば、法華経が各種経典にある部分観を総まとめした総体観にたっている面で優れているといえばそうだろう。だからこそ聖徳太子をはじめとする賢人たちが法華経を釈し尊んできたのだろうから。
しかしだからといって、他の経典に真理がないわけではないわけだ。空を知りたいなら、法華経より般若心経のほうが優れているともいえるし、縁起を知りたいなら、華厳経のほうが優れているともいえるわけだから。
法華経狂信者はその辺りを考慮せず、釈迦の言葉も顧みず、自分たちの信じている経典こそ最第一だなどと他を見下し、傲慢になり慢心しているわけだ。そしてこれこそが、真理を見抜く智慧(正しい見解)に至れぬ大きな執着なわけだ。
したがって、そうした見解はもはや仏教ですらないと言えるわけだ。
すべては平等であるという見解を示せない者は、仏教徒ではない。