1話目だけは、何年かに1回は見返す機会があった。だがどちらかというと「見せる」というシチュエーションで、自分自身が没入して見返す感覚ではなく、冒頭の渋谷センター街の描写やコギャル(死語)など、流石に「古さ」を感じてしまうなぁという印象だった。
しかし、NAVI機材など部分的には風化していても、普通の生活環境、学校描写などは案外今と左程変わらないのではとも思った。
「serial experiments lain」の物語は、千砂という少女の自殺から始まる。
冒頭登場間もなく姿を消す少女――という在り様は、「Alice6」と重なると気づき、四方田千砂という名前になった。
「予め失われた少女」が即ち四方田千砂なのだった。
死んだ子からメールが届く――、というフックで始まるこの1話のストーリーは、言うまでもなくホラー仕立てとなっている。
ここで私が用いる「ホラー」は、原理主義的な意味でのホラーであって、サイコ・ホラーは本来ホラーの範疇ではなくスリラーである。
ゲーム版がサイコ・スリラーであったとして、シリーズを全体としてホラーにしようとは全く考えてはいなかった。その頃の私は(原理主義的な)ホラーに飽き飽きしていた。
しかし、ネットワーク・コミュニケーションなるものをアニメ・ストーリーとしてどう構築していくか、「盛り込みたい事柄」は山とあれど、それをどういうトーンで提示していくのかは1話を書き始めた時の私には全く算段が出来ていなかった。
というよりも、そんな判り易い話法でやってもたかが知れる。どれだけアウト側に偏心していくかの方が重要であり、1話を書き始めた時点で想定可能な全体構成なんて価値が無いとまで考えていた。ここまで演繹的な物語構成を許されたのは「lain」だけだろう。
だが、商業作品として少なくとも「次回」を観たい、と思わせるものにするには、エンタテインメントとしてのアリバイが必要だった。それが「ホラー仕立て」の導入であり、あくまでフックであった。
中村隆太郎監督はシナリオの解釈として、シリーズ全体のルックを定めた。夜間の場面が多いのはシナリオからだが、昼間も決して平穏には見せず、露出過多のハイコントラストにして、影をくっきり出し、その中には血を思わせるテクチュアがある。まるでその影の奥で何かと繋がっているかの様なヴィジュアルだ。
そして何より、アニメ・シリーズとして玲音というヒロインを如何に描いていくのかが最大の命題だった。
玲音という少女像は先ず上田Pの中に生まれ、それを具現化する役として安倍吉俊君が招かれた。あの左右非対称な髪型など、どれだけ二人がやりとしてあの姿になったのか、その課程を私は知らない(裏で何となくは聞いていた)。
安倍吉俊君がゲーム用に描いてきた玲音像は膨大にあって、ゲームはあるアスペクト側でのみで切り取られていたと私には感じられていた。
まずはイノセントな少女像を、視聴者が共感出来る形で描く。
巻き込まれ型主人公として玲音は視聴者の前に姿を現す。
通学電車、まず密着マルチ(の様な合成だと思う)で車両のうねりが表現されていて、見返す度に唸らされる。
玲音はずっと、どっからともなく聞こえてくる人々の会話の様なノイズの幻聴に苛まれており、思わず「うるさいな」と口に出してしまう。
シナリオの想定ではもっと強いイメエジだったのだが、清水香里さんの演技はさほど張ってはいない(アフレコ時、鶴岡音響監督に『もうちょっと強く言って欲しい』とリテイクを申し出た記憶がある)。後に玲音は別人格でより強いキャラクターの側面も見せ、そこでは清水さんの演技もまさにはまっているのだが、この1話のまだ全く情報の無い状態では、これが正解だったのだろう。
玲音が1話で幻視している数々は、主に玲音の精神状態から想定され得るものを描写しているのだが(これについてはシナリオ本に詳述)、次第にそれが幻視なのか、外的要因があるのか、そもそも玲音はその時点で何処に居るのかを終盤は激しく揺るがせるのだが、それはまた後ほど書こう。