国家の「犯罪」と呼ぶほかありません。障害者らに子どもを産ませない手術を強いた旧優生保護法。悲劇を招いた責任を問う怒りの裁判が相次ぎます。
宮城県の児童施設にいた一九五七年の十四歳のころ、全く事情を知らされないまま精管を縛る不妊手術をされたというのです。施設の仲間から後日にその意味を聞かされ、驚くしかなかった。
今は東京都で暮らす七十五歳のこの男性は十七日、国の謝罪と賠償を求め、東京地裁への提訴に踏み切りました。憲法が保障する子どもを産み育てるかどうかの自己決定権を奪われたと訴えている。
◆「人生を返して」
四十年連れ添った妻が五年前に白血病で逝く寸前まで、手術のことを打ち明けられなかった。「一人の女性を不幸にしてしまった。私の人生を返してほしい」。怒りとやり切れなさはいかばかりか。
障害があると診断されたこともないという。でたらめな手術が横行していた疑いが濃厚です。
「不良な子孫」の出生防止を掲げた優生保護法が定められたのは四八年です。現憲法が施行された翌(あく)る年、世界人権宣言が国連で採択されたのと同じ年。先の大戦の過ちを反省し、国際的に人権保障の機運が高まっていた時期です。
日本は逆行するように、個人の尊厳と権利を踏みにじる仕組みをつくった。しかも、満場一致の議員立法でした。人権意識がいかに未熟だったかがうかがえます。
遺伝性疾患やハンセン病、精神障害、知的障害などを理由に、不妊手術(断種)や人工妊娠中絶を施すことを可能にした。
法律名の「優生」とは優生思想に由来します。人間に優劣の序列をつけ、優れた人を保護し、劣った人を排除することに価値を見いだす考え方といえるでしょう。
◆優生思想の呪縛
ちょうど戦後の復興期。引き揚げや復員、ベビーブームで過剰になった人口を抑えることが重要な政策課題でした。人口の「質」を向上させつつ「量」を管理することが焦点だったのです。
やがて障害のある子どもを「不幸」とみなす優生運動が兵庫県を皮切りに広がる。高度成長は障害者の犠牲の上に実現したのです。
七〇年代には出生前診断の普及を背景に、胎児の障害を条件に中絶を認める規定を設ける動きもあった。脳性まひ者らの「青い芝の会」が反発するも、法律の不平等性、非人道性は問われなかった。
優生思想に根差した条文を削除した今の母体保護法に改められる九六年まで、優生保護法は半世紀もの間生きていました。社会の偏見や差別が被害者に沈黙を余儀なくさせてきたと思うのです。
統計に残るだけでも、約一万六千五百人が不妊手術を強いられました。身体を拘束したり、麻酔薬を使用したり、うそをついてだますことさえ、国は認めていた。
さらに、同意を得たとして約八千五百人が不妊手術を、約五万九千人が中絶を施されました。強要されたのかもしれない。そもそも無辜(むこ)の個人の私的領域に、国家が介入すること自体がおかしい。
にもかかわらず、政府は「当時は適法だった」と強弁し、国会は救済立法を怠ってきた。私たちメディアも無関心でした。
優生思想の呪縛は恐ろしい。すでに古代ギリシャの哲学者プラトンの『国家』で肯定的に述べられています。人類史に重大な影響を与えたのは、英国の遺伝学者フランシス・ゴルトンが十九世紀に唱えた「優生学」でしょう。
いとこにあたるダーウィンの進化論に刺激され、人為的に遺伝的素質を改良すれば、人類は進歩すると考えた。それが近代科学の装いのもとで支持を集めていく。
二十世紀に入り、劣悪な遺伝的素質を断ち切るとして、米国をはじめ世界各国が断種法をつくりました。戦時下の日本もナチス・ドイツにならい、優生保護法の前身となる国民優生法を定めた。
ナチスは約三十六万人の障害者らに手術を強いたばかりではなく、虐殺に及びました。その犠牲者は二十万人を超すといわれる。
それでも、ドイツは八〇年代には補償金の支給を始めた。約六万三千人に手術を強いたスウェーデンは、九〇年代に国の調査委員会を設けて補償制度をつくった。
◆良心と勇気の声を
日本ではさる一月、宮城県の六十代の女性が先駆けて司法の良心に裁断を仰ぎました。それを契機に、国会は救済の必要性に目覚め、政府は調査に乗り出した。やはり鈍い人権意識です。被害者は年輪を刻み、時間との勝負です。
東京の男性にも、北海道と宮城県で同日に提訴した男女二人にも被害を裏づける記録がありません。一人でも多くの被害者と真相を知る人に、勇気を出して声を上げてほしい。私たちも支えます。
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