| 2014/09/28 訪問 
 最近は某国人の日本における立場が危ういものになってきています。
 ○流ゴリ押しの反動、国際試合における政治的宣伝、銅像作成等ディスカウントジャパン行為。
 私個人の見解は差し控えますが、正直気分がよいものではありません。
 
 それはさておき、この時代だからこそ書くことができる、という物件があります。
 わりかし友好的だったときは、こんなレポ書けませんからね。
 
 物件の名前は「千葉駅跡」。
 
 現在の千葉駅は1963年に移転した後の場所で、昔は別の場所にありました。
 それをレポしてみたいと思います。
 
 
   
 こちらは千葉駅東口。
 東京行きはもちろん、勝浦、大原等の外房への電車、
 木更津、館山等の内房への電車も、すべてここから出ています。
 他には京成千葉線、千葉都市モノレール等への乗り換えも、この駅からすぐの場所で乗換可能です。
 
 
   
 千葉駅を東方向、モノレールのレール沿いに歩いていきます。
 ちなみにここからちょっと進んだところに警察署がありますが、
 実はふくろうの形をしています。だから何?って言われても・・・
 
 
   
 しばらく進んでいくと、屋台が続く場所に出ます。
 この屋台は店内がかなり狭く、奥行きは2mあるかないかぐらいです。
 で、日本風の店なのに、メニューは○国風のものばかりと、
 なんだかそういう文化を感じさせます。
 
 
   
 さらに進むとレールが大きく湾曲し、最初の駅「栄町」へ向かっていきます。
 「栄町」は説明するまでもないと思いますが、千葉県で最も大きい風俗街です。
 
 
   
 レールからはずれ、さらに東方向に進んでいきます。
 すると・・・・
 
 
   
 おっ!見えてきました!
 ここが目的の場所です。
 
 
   
 物件の名前は「千葉市民会館」。
 間違いがなければこの周辺にあるのだが・・・
 
 
   
 ・・・と思ったら物件の手前で発見!
 これが目的のブツです。
 
 木陰にあったので、よく見えていませんでした。
 角度をかえてみてみると・・・
 
 
   
 「ここに千葉駅ありき」 千葉鉄道管理局長 浅井 武 とあります。
 
 そう、ここがもともと千葉駅があった場所です。
 
 
 
   
 石碑の裏には沿革がありますが、たったの2つとシンプル。
 簡単に書くと、
 
 千葉駅の開業は明治27年7月20日(1894年)
 
 千葉駅の閉鎖は昭和38年4月28日(1963年)
 
 という内容です。
 
 
   
 この千葉市民会館すぐのところにある交差点は、
 駅のロータリーを思わせる形状になっています。
 そして、ここから見える地域はすべて「栄町」となっています。
 
 
   
 この栄町のメインストリートには「ハミングロード」という名前がついています。
 もともとはアーケード街だったのですが、防犯の観点から2010年に、
 屋根の全面撤去が行われ、さらには防犯カメラが設置されました。
 
 
   
 ハミングロードの案内。
 この地図に載っているソープ店は李○だけです。
 そもそも明日行ったら夜逃げしていそうな案内所的な店が多いので、
 地図に載せるまでもない、ってことかもしれませんが。
 
 ま、こういった街なのに、商店街の組合が機能していること自体驚きでありますが・・・
 
 
   
 さて、ここで千葉駅の歴史について書いていこうかと思う。
 
 最初の千葉駅ができる前のこの地域のメインストリートの由来は、
 平安時代の1000年に千葉氏が建立した千葉神社を中心とする門前町でした。
 
 1894年にこの門前町の北端、さきほどの千葉市民会館の位置に「千葉駅」が造られ、
 南端には「京成千葉駅」(現在は中央公園)が造られました。
 それを結んでいた道が現在の「ハミングロード」となっています。
 その当時はこの通りが千葉県で最も栄えていた街でした。
 
 しかし、太平洋戦争末期、もともと千葉市は軍都だったこともあり、
 千葉駅周辺は空襲のターゲットになってしまいました。
 1945年6月10日と7月7日の攻撃は後に「千葉空襲」と伝えられている苛烈な攻撃で、
 結果、街の7割が焼き尽くされてしまいました。
 
 千葉市は終戦とともに、焼け野原となった千葉駅を中心とした復興計画を策定しようとしました。
 ひとまずはそのままの場所で千葉駅を復活させ、それを拡張していく計画でした。
 しかし、計画を策定するにあたり、問題点がありました。
 
 もともとの千葉駅は「スイッチバック」をしなければ、進行方向が変えられませんでした。
 
 当時の千葉駅を結んでいた線路は3つ。
 総武本線(東京方面)
 成田線(東金・銚子方面)
 房総線(蘇我・木更津方面)
 
 そのうち、総武本線と房総線は大きくカーブを描いて千葉駅に引き込まれている形でした。
 
 
   
 総武本線から入った電車が房総線に入るためのスイッチバックの流れは、
 千葉駅に停車後、運転手が前の運転席から後ろの運転席に移動して、
 さきほどの進行方向とは逆に駅を出て、房総線の線路に入る、といった具合です。
 この「スイッチバック」を解消しない限り、
 東京方面から木更津方面へ行くには時間がかかる状況でした。
 
 解消のためには広い土地が必要で、駅周辺に土地が必要になってくるわけですが、
 空襲での焼失後の千葉駅周辺は、駅前の一等地がやくざ(あえてどこの人かは言わない)たちによって、
 不法占拠されてしまった後でした。
 
 なぜ駅前の一等地が終戦後のどさくさで占拠できたかというと、2つ理由があります。
 ○土地と建物の持ち主が空襲や戦争で亡くなっていた。
 ○持ち主が疎開していて不在だった時に乗っ取られた。
 後者の乗っ取りに関しては、
 勝新&田宮二郎のコンビが暴れる任侠映画「悪名シリーズ」を見ていただければ、
 なんとなくイメージできるかと思います。
 
 とにかく、不法占拠により駅周辺の土地の取得がむずかしくなってしまったので、
 移転しなければ、スイッチバックを解消できる駅にすることができませんでした。
 
 かくして、千葉駅は現在の場所に移転しました。
 
 
   
 千葉駅が現在の場所に移転したことにより、スイッチバックの手間がなくなり、
 東京発の電車が木更津、成田方面まで直通運転を行えるようになりました。
 これにより、千葉の鉄道網、特に内房方面が大きく発展したといっても過言ではありません。
 
 この千葉駅の移転に伴い、千葉県の中心も移り、現在の姿になりました。
 
 逆に千葉県最大の中心街だった栄町からは、かっての活気が消え、
 駅周辺を不法占拠していたやくざ達の目論見も外れ、
 いつしか現在のソープ街&○○○ンタウンへと姿を変えていったわけです。
 
 
   
 ハミングロードの終端、中央公園です。
 昔の京成千葉駅はこの中央公園の場所にありました。
 そして、ややこしいことに、現在の千葉中央駅がある場所は、
 国鉄時代の本千葉駅があった場所です。
 
 中央公園以降は栄町の閑散とした雰囲気が嘘のような活気で、
 栄町が隔離された特殊な地域であることがわかります。
 
 とまあ、こんな場所でした。
 
 千葉県の政令都市である千葉市が現在のように巨大な都市になるまでには、
 いろいろなドラマがあり、それらを乗り越えてきて今の姿があるわけです。
 大河ドラマのような常識的な歴史を伝えていくことも必要ですが、
 こういったあまり一般的でない歴史も、後世へ伝えていくことも必要だと思います。
 
 
 以上「千葉駅跡」をお送りしました。
 
 
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