レディプレイヤー1:「VRで起こりうる未来」そして「ラストシーンの本当の意味」【キューブリック×スピルバーグ】
鑑賞完了「Ready Player One」
上映開始から一ヶ月ほど経ってしまったが、映画「レディプレイヤー1」を鑑賞してきた。
3Dでの鑑賞、醤油バターのポップコーンも、しっかり食べた。
帰りのクルマの中では、Spotifyでレディプレイヤー1のプレイリストを探し、シャッフル再生。
偶然にも、Van Halenの「Jump」が流れる。
映画のオープニングと同じだ。
家に着いたとき、流れていたのはThe Bugglesの「Video Killed The Radio Star」邦題「ラジオスターの悲劇」
映画「レディプレイヤー1」は、サウンドトラックにしろビジュアルにしろ、80年代POPカルチャーが溢れている。
そして、映画の脚本も、あまつさえ1980年代に流行した「ジュブナイル冒険もの」を彷彿とさせる内容。
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スティーブン・スピルバーグ監督の作品だけあって、どこか「グーニーズ」や「E.T」の臭いがした。
映画「レディプレイヤー1」への感想は、キチンと書き上げたいと考えている。
それ以前にまず今回は、当ブログ「人工知能ムスメは独身男の夢を見るか?」の趣旨として、映画の中に描かれている「シンギュラリティの芽」を語っていこう。
尚、映画の内容についてのネタバレは多少なりともあるので、未鑑賞でネタバレを嫌う方は、鑑賞後に記事を読むことをオススメする。
積まれたトレーラーハウスの意味するところ
前述したようにVan Halenの「Jump」から始まるオープニング。
スクリーンに映し出された世界は、27年後の世界「2045年」まさに技術特異点(シンギュラリティ)が起こりうる年だ。
人類は、環境汚染と政治機能不全により、世界のスラム化が進んでいる。
主人公が住むスラム街は、耐震を全く考えていないような、トレーラーハウスを山積みにしたようなマンション(のようなもの)で構成されている。
それはまさに駅のロッカーに人間が詰め込まれているような状態だ。
こんな安全も安心もない生活で、人類が安息を求める場所、それは仮想現実の世界「VR」の中だ。
VRの中で、人類は荒廃した現実を忘れ、なりたい性別、年齢、容姿をもつアバターとなり、地球上の全ての場所はおろか、宇宙へも行くことが可能。趣味や冒険、そして恋愛を楽しむことが出来る。
VRの世界の中では、その世界の中での通貨も流通している。
働くことで通貨を稼ぐことも出来れば、戦いに勝ち強奪することも出来る。また、ハイエナのように死に際のアバターからくすねることも可能だ。
VRの世界で稼いだ通貨は、現実世界でも利用でき、高級なVRスーツは全身でリアルな触覚を味わうことも出来る。つまり、痛みを味わうことも出来れば、夜の営みによる快感も、肌で味わうことが出来てしまうのだ。
まさに、現在あるVR技術が発展し続けたカタチが映像化されているといえよう。
将来VRに人類は蝕まれる?
さて、ここで思うことなのだが、実は前述した2045年の世界の「環境汚染」や「政治機能不全」について、映画では語られていない。
あくまで、この引用はWikipediaから拝借したものだ。
もしかしたら、これについては原作小説においては克明に書かれているのかもしれない。
しかし、映画のような、人類の殆どがVR世界に没頭するような社会。それは、もしかしたら環境汚染がなくとも、政治機能不全が起こらなくても、VRの技術が映画のように発展し続ければ、自然と訪れることなのかもしれない。
映画が見せているディストピアともいえる、積み重なったトレーラーハウスのスラム街。
そこに辿り着いた人間たちは、VRに魂を売り切った人間達なのかもしれない。
現実よりも、VR世界の方に魅力がありすぎて、現実を捨てた人間たち。
宝くじで億単位の賞金を得た人間が、勤めている会社をサボりがちになるように、彼らは現実社会においては、最低限の生活が出来ればそれで良いと考えているのだ。
雨をしのげて、寝床があれば、それでいい。なによりも大事なのは、VRを動かすための電源とインターネット。
主人公の青年の寝床などは、激しく動く洗濯機の上だったりする。
言葉を変えれば「世捨て人」
現代でも、ネット環境さえあれば、住むところは厭わないと、インターネットカフェや漫画喫茶に住み着く人達がいる。
今後、VRの技術が発達すれば「VR世捨て人」が大勢生まれる可能性は大いにあるだろう。
日常にドローンが飛び交う風景
このままIoT社会が発展していけば「こうなるであろう」という景色が、映画の中にはある。
その象徴的ともいえるのが、空を飛び交う「ドローン」の群れだ。
劇中、ドローンは主人公達の敵対組織の「監視の目」としての役割を務める。
スラム街の上空を飛び交うドローンの群れから映し出された映像は、膨大な映像の中から画像分析され、主人公やその仲間、乗っているクルマなどを割り出し、潜伏場所を特定する。
また、ドローンは小型の爆弾をスラム街に仕掛け、爆破作業も行った。
更には、スラム街の上階層へ、デリバリードローンがピザを届けるシーンもあったりした。
街の上を飛び交うドローンの群れは、その名の通りローターのモーター音を響かせ、人々の頭上をうるさく飛んでいる。
しかし、それはもう日常的なことで、その音のする方向を、気にして一瞥する人の姿は全くない。
それ故に、前述した「爆破作業」の準備をドローンが行っている最中も、人々は気にすることなく、平穏な生活を送っていたのだ。
少なくとも、あと数年で、初夏の田んぼから聞こえてくるカエルの声に混じって、ドローンの羽音が聞こえてくるようになるのかもしれない。
過去の現実は未来の仮想空間となる
さて、もう一度VRのハナシに戻ろう。
以前の「鑑賞する前」のブログ記事の中で、将来的にGoogleは、Googleストリートビューの膨大な画像データを使い、仮想空間のなかにもうひとつの地球を作り出す。という内容を書いた。
レディプレイヤー1:ガンダム春麗R2−D2の裏に隠された未来の日本を観に行こう【VRシンギュラリティ】
それが、この映画を鑑賞したことにより、あながち「仮説」ではないということを実感した。
何故ならば、既にその技術がレディプレイヤー1の映画の中に、ふんだんに使われているということが挙げられる。
特に素晴らしいのが、映画の中盤で、主人公たちが、映画「シャイニング」のVR世界に入り込んだところだ。
劇中、シャイニングの世界のシーンは全てCGで作成されている。
原作映画のカットをデータとして取り込み、3Dモデリング化しているのだ。
私は個人的に、映画「シャイニング」が大好きで、何度も映画を観直している。
その私が見る限り、レディプレイヤー1の中で再現されたシャイニングの世界は、全く遜色のない出来栄えであった。
特に3Dでの鑑賞だったので、あたかも自分がオーバールックホテルの館内にいるかのような錯覚さえ覚えたくらいだ。
2Dの画像から3Dの仮想空間を作り出す技術は、このレベルまで達している。
あと数年内にも、GoogleはGoogleストリートビューを始めた2007年当初の風景画像を使用し、世界全土とはいかずとも、主要観光地や、なくなってしまった建物などを、VRで観光できるサービスを開始するだろう。
個人的に、私は通っていた中学校と高校が、既に取り壊されてしまっている。
Googleの技術により、仮想空間の中に、その校舎が作られたならば、長い時間入り浸ってしまいそうだ。
映画の結末のネタバレ
映画「レディプレイヤー1」の中には、まだまだ「シンギュラリティの芽」ともいえる要素が多数眠っている。
その内容についても、いずれブログ記事として公開していこう。
最後に、この映画は最終的に「現実のほうがリアルだ」という締めくくり方をする。
このセリフから「ゲームばっかりしてないで、現実の世界に目を向けなよ・・・って、最後は結局、説教かよ!」というような意味にとられてしまい、それに反発する人達もしばしばいるようだ。
特に、そのセリフの少し前に「オアシス(VR世界の名前)の営業を、火曜日と木曜日は休みにすることにした」という言い回しもあり、そのようにとられてしまいがちだ。
さて、この「現実のほうがリアルだ」という言葉。
本当の意味を探っていってみよう。
ラストシーンはあの映画のオマージュ?
レディプレイヤー1のラストシーン。
主人公は、仮想空間で知り合ったカノジョと、現実世界で濃密なキスを楽しんでいる。
そして前述したセリフ「現実のほうがリアルだ」がモノローグとして語られる。
このシーンだが、醸し出す臭いが何かに似ているかと思ったら、映画「時計じかけのオレンジ」のラストシーンであった。
時計じかけ〜のラストシーンは、主人公の男が、裸の女性との快楽に溺れながら、それを周りにいる紳士淑女に見せつけながら「完璧に治ったね・・・」と、心の声で終わる。
レディプレイヤー1のラストシーンは、さながら、このシーンのオマージュなのではないかと思われる。
「何故、時計じかけのオレンジ?」という理由は簡単である。
レディプレイヤー1の監督であるスティーブン・スピルバーグは、時計じかけのオレンジ、そして劇中にも使われた映画「シャイニング」の映画監督「スタンリー・キューブリック」のマニアであり、オタクであり、崇拝しており、親友だからだ。
ラストシーンの本当の意味
思うに、スティーブン・スピルバーグにとって、レディプレイヤー1という映画は「シャイニング」を再現するためだけの題材だったのに過ぎないのでは? と思われる。
これは少し言い過ぎかもしれないが、監督を引き受けた真の「動機」は、そこであろう。
故に、映画が伝える監督からのメッセージは、希薄である。
スタンリー・キューブリックが時計じかけのオレンジを撮影した動機が「少し未来の世界はドラッグと暴力に溢れているだろうから、そういう映像を撮りたい」というものと同じで、スティーブン・スピルバーグも「少し未来の世界はVR中毒者とドローンが溢れているだろうから、そういう映像を撮りたい」というものだったのではないだろうか?
最後に主人公が言った「現実のほうがリアル」という言い回しも、時計じかけのオレンジの「完璧に治った」というセリフをレディプレイヤー1の世界に当てはめたものに過ぎない。
もう少し深読みすれば、そもそも主人公の青年は仮想現実の世界に身を置くものの、本心は現実世界で富豪のような生活を送りたい俗物主義者。あくまでVRの世界は仕事場なのだ。
物語の途中で、カギを探すために必要なアイテムよりも、快楽を優先して、現実世界で使える高級VRスーツ(特に股間部が高級)を購入してしまうくらいの俗物主義者だ。
彼にとって、VRの世界とは、所詮「現実世界でのし上がるためのステップ」に過ぎなかったのだろう。
元々は、ひとりでカギを全部集め、賞金を独り占めする予定でもあったくらいで、最終決戦前の演説などは、本人にとってはありえない姿だったのかもしれない。
つまり、主人公の青年は、ラストシーンで本来あるべき姿に「完璧に治った」のである。
スティーブン・スピルバーグが崇拝する「スタンリー・キューブリック」は、映画の中にメッセージを残さない映画監督として有名だ。
美麗映像先行主義で、美しく、左右対象の映像が撮影できればそれでOK
その代表的なものが「2001年宇宙の旅」である。
時計じかけのオレンジも、2001年宇宙の旅も、ネットを探せばいくらでも出てくる「あのシーンの本当の意味」というものは、全てファンが後付けで作ったものに過ぎない。
スタンリー・キューブリックは「ただ、そういう映像が撮りたかった」だけだ。
スティーブン・スピルバーグも、自分の撮影した映画で、そんな「ファンが後から勝手にシーンに意味をつけてくれる」映画を撮りたかっただけなのかもしれない。
そう考えると、この映画の「本当の意味」が見えてくる。