『リズと青い鳥』の考察~テキスト/構図/視線~
武田綾乃原作、京都アニメーション制作のアニメ「響け!ユーフォニアム」シリーズの新編「波乱の第二楽章」より、3年生のオーボエ奏者・鎧塚みぞれとフルート奏者・傘木希美に焦点を当てた山田尚子監督による映画『リズと青い鳥』が公開された。この記事では3回にわけて『リズと青い鳥』を考察し、原作と映画版の違いを明らかにしたい。と同時に、僕自身がこの映画を見た状況や鑑賞後の感想を記録し、考察を経てどのように変化したのかを確認したい。ただし、多分に主観が入り混じるため論文のような客観性は必ずしも保っていないことを事前に断っておく。また、この記事は映画を見たこと前提で書かれているため、ネタバレなどには一切配慮しない。従って、まだ映画を見ていない方は自己責任でこの先はお願いしたい。このテキストは半ば覚書に近く、不定期に更新される。
第1章ではテキスト面から原作との違いを考察する。第2章では画面構図をはじめから最後までシーンごとに追い、どのような意図でその表現が使われているのかを考える。第3章では視線の問題を取り上げ、この映画がいかにして百合映画として成立しているのかを提示してみたい。
第1章:「テキストと百合」
テキストの話、すなわち映画の脚本と原作小説の差異について語る前に、まず重要なことを確認しておきたい。
あなたは『リズと青い鳥』を見るにあたって事前に「響け!」シリーズの何を目にしただろうか。無数のパターンに分類できるが、ここでは大きな区分として次の6つを示す。
1、「原作小説の3巻までを読んだ/アニメ未視聴」
2、「原作小説の3巻までを読んだ/アニメ視聴」
3、「原作小説の第二楽章までを読んだ/アニメ未視聴」
4、「原作小説の第二楽章までを読んだ/アニメ視聴」
5、「原作は読まずアニメのみを見た」
6、「原作もアニメも見ていない」
さらに大別するなら、
1、「原作もアニメも見た」
2、「アニメのみを見た」
3、「どちらも見ていない」
の3つになる。
どうしてこの3つに区分するのかと言えば、私自身が5月15日に初めて『リズと青い鳥』を視聴した際、上記のどの立場にいるかによって物語の受け取り方が変化すると強く感じたためである。私自身は1の立場であるが、2と3の立場であれば、恐らくあの映画を見るとみぞれと希美の間に将来的な希望が見出せたはずだ。
原作では「かみ合わない歯車」と評される二人。しかし映画では、「互いに素である数」すなわち「交わらないけれども、歯車の歯数としては噛み合う」関係として描かれる。互いに素、とは二つの数字が1でしか割り切れないような関係性のことである(14と15など)。合わせて、生物室の試験管の数字(2、3、5、7、11、13)や魚の数(フグ3、メダカ7)などの素数も意味深である。
さて、原作ではみぞれの気持ちの大きさや一途さに対して希美の気持ちはネガティヴなもので多くを占められている。
何も無かったみぞれは希美に声をかけられオーボエを始めた。希美にとってみぞれは何となく声をかけた数合わせの吹奏楽部員であったが、みぞれにとって希美は今も昔もたった一人の大切な人であり、すべてだった。原作第一楽章及びアニメで描かれるみぞれの変化は、このことを前提にしながら、みぞれには希美だけではなく、優子や夏紀をはじめとした仲間がおり、何よりオーボエという楽器がある、ということにみぞれ自身が気づくという形で表現された。みぞれはオーボエを吹くことを楽しんでいた自分に気が付いたのである。そして改めて、今手にしている友達や楽器を与えてくれたきっかけである希美への想いを強くする。
一方、第二楽章下巻245~250ページで希美から久美子に語られる気持ちはみぞれの才能に対する嫉妬である。これは裏を返せばこれまでの希美からみぞれに対するコミュニケーションの中に、「自分はみぞれよりも上手い」という優越感が常に含まれたことを意味している。希美にとってみぞれは初めは「ただの友人a」だった。それが第一楽章の事件を経て、みぞれの想いに触れることで、希美にとってのみぞれは仲の良い友人・みぞれとなった。そしてここに至り、嫉妬する対象となったのである。原作では、無関心の友人aでなくなったというこのことを前進と捉えるにとどまっている。
映画のクライマックス、生物室でのやりとりは原作では300~307ページで行われる。場所は昇降口である。ここで、みぞれは希美にすべてをくれたことの感謝を述べる。一方で希美は自分がみぞれに嫉妬して音大を受けると言ってしまったことの後ろめたさを語る。みぞれが言ってくれるほど、希美は自分が特別な人間ではないという。それでも、みぞれにとって希美は特別なのだとみぞれは言い切る。そして、音大を受けないことで希美が幸せになるのならそれでいいと言う。
このシーンでのキモは、みぞれが希美に想いを伝えたことと、それに対する希美の返答である。すなわち”「私、希美のこと、大好き」”とハグをして述べたみぞれに、”「ありがとう……私も、みぞれのオーボエ大好き」”と希美が返答し、”優しい動きでみぞれの肩を押し戻”したことである。さらに361ページでは
「うん。私、頑張ろうと思う」
「音大受験をですか?」
「それだけじゃなくて、音楽を。希美がいなくても、私、オーボエを続ける。音楽は、希美が私にくれたものだから」
というやり取りが久美子との間でなされた。これが、みぞれの出した結論である。原作では、希美とみぞれがこの後、恋人同士になる可能性はどちらかと言えば低いと読み取らざるを得ない。
一方、映画ではどうだろう。
まず、原作で久美子とみぞれの間でなされたやり取りが映画では希美とみぞれの間でなされる。また、優子や夏紀との間で行われる。
原作では希美とみぞれが恋人となる未来の可能性が低いような描写がされているのに対し、映画は明らかに鎧塚みぞれと傘木希美の未来について、肯定的、あるいは前向きに書かれている。 希美が二度も「ハッピーエンドがいいでしょ」と言うこと、「青い鳥が去ってもまた会いに来ればいいじゃん」と言うことも、二人の今後について希望的な見方を提供する。
特に決め手は最終シーンで、「わたし、みぞれのソロを完璧に支えるから。だから、今はちょっと待ってて」「私、私も、オーボエ続ける」「「本番がんばろ」」とやりとりすることである。「希美のぜんぶが好き」に対して「っみぞれのオーボエが好き」と返した希美。原作ではそこが関係性の現時点での終着点であったのに対し、映画ではその後「オーボエ続ける」とみぞれが希美の存在と音楽を切り離したことを告げ、希美は「待ってて」とみぞれに告げるのである。ここにおいて、音楽を媒介にした二人の関係性は完成する。結局のところ、みぞれにとって希美は音楽も含めてすべてであったが、希美にとってもみぞれは音楽を含めた優越感→嫉妬の対象であった。それが解消された今、ようやくそれ以外の関係性、すなわち友情や恋愛というものが始まるのである。
以上のように、映画は原作と明らかに異なった場所に着地点を見出している。ここから山田監督の意図を汲み取れるのだ。原作未読(アニメ視聴/未視聴)で映画を見た場合、希美とみぞれに強烈な百合を見出すのは、必然であろう。一方で僕のように先に原作を見た人間は、希美とみぞれの百合に一見違和感を覚えるかもしれない。
また、『リズと青い鳥』があくまで「希美とみぞれ」の映画であることを忘れて見てしまうと、物語の尺として物足りなく、中途半端に感じてしまうかもしれない。しかし、それは間違いである。この映画は「希美とみぞれ」の物語であるのだから。ただし、この映画は「響け!」本編のスピンオフであることもまた確かである。少なくともアニメか原作の第一楽章は読んでおかないと、優子や夏紀のことも分からないし、希美とみぞれがある程度分かり合ったあの出来事(みぞれが希美を「すべて」から「きっかけ」にした出来事)も分からないではない。それが前提としてあるから、映画で示された最終的な希美とみぞれの着地点に納得できるのである。
この点を踏まえて、僕はツイッターで「何も見てなくても大丈夫だよ」などと言っている連中に対して苦言を呈したい。 『リズと青い鳥』を最大限楽しむために必要な条件を伝えないのは、映画に対して失礼であるとさえ言える。まだ映画を見ていない/映画しか見ていない人は、原作の第一楽章かアニメを是非見て、もう一回映画を見てほしい。
第2章:「動作及び構図と百合」
1回目に視聴した際は原作との違いを強く意識して見てしまった。二度目に視聴したのは2018年5月17日である。この回ではメモを用意し、希美とみぞれの仕草及び構図について書き留めた。そこに含まれた映像作品としての表現が何を示すのかを確認していきたい。
1:みぞれのクセ
みぞれには前髪を触るクセがある。これは映画オリジナルの表現である。この表現を時系列順にまとめてみた。
1、冒頭、青い羽根を貰うシーン:右手:左髪
2、同シーン:右手:右髪
3、オーディションの話:右手:左髪
4、進路の話:右手:左髪
5、新山との会話から互いに素のシーン:左手:右髪
6、直後、渡り廊下で希美と会う:右手:左髪
7、希美からあがた祭に誘われる:左手:右髪
8、麗奈に希美と相性が悪くないかとソロの指摘をされる:右手:右髪
9、新山に好きな人を大切にしすぎてしまうと指摘される:左手:右髪
左手で右髪を触る時は基本的に希美のことを考えている。けれど、強い法則性は見いだせなかった。しかし、これだけの回数クセが描写されているというのはキャラクターを創るという意味で素晴らしい技術である。このクセの描写によって鎧塚みぞれというキャラクターが一人の人間である、ということを見事に表現している。
2:あらすじを追いながら、構図を追う
「disjoint」
冒頭、校内でみぞれの先を歩く希美の足元の影は青い鳥の少女の髪形と同じ形をしている。この時、視点はみぞれのすぐ後ろに置かれている。すなわち、みぞれにとって希美が青い鳥であることがこのシーンで間接的に示されている。
ここで歩く際の、方向転換で揺れるスカート、つま先の立ち方などは、実写ではほぼ不可能なアニメならではの表現である。
また、ふたりを背後から映す場合、前半では画面左にみぞれ、右にのぞみが立っている。二人の動きは階段を上るシーン、音楽室に行くシーンのいずれも時計回りであり、画面左から右へと進んでいる。音楽室の中では正面から見ると希美が左でみぞれが右である。背面からは希美が右でみぞれが左だ。
「ちょっと私たちに似てるよね」
「物語はハッピーエンドがいいよ」
希美が言い、タイトルが映し出される。
みぞれは希美とずっと一緒にいたいため、「本番なんて一生来なくていい」と一人だけの教室で窓ガラスに向かって囁く。構図は画面右側にみぞれがいる形だ。
後輩に囲まれる希美を、剣崎が「まるで小鳥たちのさえずり」と称する。これもまたみぞれにとっては胸に痛い。自分には希美しかいないのに、青い鳥である希美にはたくさんの仲間がいる。
剣崎後輩が希美にみぞれとの仲を相談する。そしてお礼にゆで卵を渡す。これは剣崎が後輩であることの比喩である。そして、リズと青い鳥の作中劇が流れる。注目すべきは並ぶ二人の構図が「青い鳥:リズ」となっていることである。これは「希美:みぞれ」という音楽室での正面からの構図と同様なのだ。すなわち、この段階では青い鳥は希美であり、リズはみぞれであると示される。
続く1回目の大好きのハグのシーンでも、画面左は希美であり、右がみぞれだ。ここではもうすぐハグしそうな緊張感が、ギリギリのところで達成されない。冒頭、絵本を読むため希美に肩を寄せるみぞれがギリギリのところで触れられないシーンと同様である。
生物室、みぞれは1匹のフグに餌をやっている。これ以後、フグは3匹になるが、ここだけは1匹しかいない。それはみぞれがまだ3人のダブルリードパートの後輩と打ち解けていないことを表している(と僕は思う)。
ふと窓の向こうを見ると、希美のフルートに反射した光がみぞれに重なる。ガラスを通して二人の構図は、希美がやや右、みぞれがやや左となる。一見、これまでの「希美:みぞれ」を逆転させたようだが、ガラス越しであるため、すなわち鏡越しであるため、まだ二人の構図に逆転は起こっていない。
後輩に「のぞ先輩は上手いもん」と評され得意顔の希美。
リズと青い鳥の作中劇。正面から「リズ:青い鳥」という並びの構図。鳥が走り、「どこへ行くの」と思わず立ち上がってしまうリズ。
3匹のフグに餌をやるみぞれの元に新山先生がやって来る。彼女から音大の話を持ちかけられるみぞれ。その後、渡り廊下で希美と会う。希美は画面右奥からやって来る。
みぞれに声をかけ、音大のことを聞く希美。「私、ここの音大受けようかな」彼女の顔はあまり映されず、フルートの先端、すなわち音の出る箇所に画面がクローズアップされる。これは恐らく、楽器を通した希美のプライドを表しており、みぞれに対する嫉妬がこの時初めて芽生えたことを表現している。
画面左にピアノを弾くみぞれ。真ん中に座る希美。右に夏紀と優子。音大の話を出した希美は、みぞれの方に足の裏を向けている(拒絶の意?)。本当に希美が音大を受けるのか、はぐらかされる。みぞれは座ったままつま先で立ち、キュッと不快な音が鳴る。
希美に祭に誘われるみぞれ。誘う子はいないと答える。「みぞ先輩」後輩と打ち解けはじめる。オーディションに堕ちた剣崎、リード作り、ハッピーアイスクリーム。
希美にプールに誘われるみぞれ。「他の子を誘っていい?」と尋ねるみぞれに対し、一瞬だけ動揺するもモブが横切った瞬間いつもの顔になる希美。
鷹、あるいはトンビが画面の右から左へ横切っていく。
合奏。滝先生からフルート「感情が入りすぎ。オーボエをよく聞いて」オーボエ「もっと歌って」と指示。
音大を目指すことを優子に話すみぞれ。優子が喜んでくれて「よかった」と言うみぞれ。「本当にいいの?」「希美が決めたことが私の決めたことだから」
高坂麗奈がやって来る。赤い糸を握りみぞれ。「窮屈そうな音」と言われる。優子に「私がリズなら青い鳥を逃がせない。ずっと閉じ込めておく」
一方で希美。みぞれのことが分からない。後輩たちとフルートを吹く希美。「青い鳥もさ、また会いに来ればいいじゃん」→ハッピーエンドがいいよね、という希美(2回目)。
橋本先生と新山先生を迎えての合奏。懸念。
新山先生に音大のことを話す希美。微妙な間。「何でも相談して。それじゃあ」
大雨の日の合奏。橋本先生と新山先生の懸念。その後、新山先生から指導を受けるみぞれを見つめる希美。みぞれが気付いて手を振るも、希美は無視。構図は左に希美、右にみぞれ。
ハグ、してくれる?という無言の問いかけに、「今度ね」と断る希美。
楽器室で希美、優子、夏紀が話している。黄色い花の輪。外からユーフォとトランペットで第3楽章ソロパートの掛け合いが聞こえてくる。見下ろすと画面左に赤いカラーコーンが二つ、画面右に高坂と久美子が座っている。
同じ時、廊下で窓を開けかけて閉めるみぞれ。
ソロパートが終わった時に希美が「私さ、本当に音大行きたいのかな」と漏らす。怒る優子(みぞれに優しい)とたしなめる夏紀(希美に優しい)。
フグ3匹に餌をやるみぞれ。新山先生が来る。試験管のシールの数字が素数。リズの気持ちが分からないと語るみぞれ。一方で進路の話をしている希美。
劇中作。左にリズ、右に青い鳥。空へはばたくべきと言い扉を開いてやるリズ。羽ばたきと共に目を伏せる希美、目を開けるみぞれ。
みぞれ「リズがそう言ったから、悲しくても飛び立つしかない。リズに幸せになってほしい。それが青い鳥の愛のあり方」
希美「進路希望調査。白紙で出したのみぞれだけじゃない。私もなんだ」
青い鳥は希美で、リズはみぞれだと思っていた。
「でも今は」画面左半分がみぞれ、右半分が希美。みぞれは右から左に向き、希美は左から右に向く。すなわち、二人は背中合わせになる。また、ここで「希美:みぞれ」構図は「みぞれ:希美」となる。
背後から映された希美が画面左に座る。「どうして私に籠の開け方を教えたのですか」
合奏。ソロパートの部分を吹く。画面左が希美、右がみぞれ。
かすれるフルート。意に介さず吹き続けるみぞれ。驚愕する橋本、喜ぶ新山、口々に褒め称える部員、不在の望み。
生物室。外れたコンセント。メダカが7匹。「今までみぞれが本気出せなかったのって私の実力が足りてないってことだよね」「そんなことない」「みぞれに負けたくなくて音大行くって言った。そう言えば特別に見える気がして。私はみぞれみたいに天才じゃない。普通の人だから」「希美はいつも勝手。部活だって黙ってやめた」「昔のことじゃん」「昔じゃない。私にとっては、ずっと今。私はずっと希美を追いかけてきた。一緒にいられればなんだっていい」「ずるいよ」「ぜんぶ本音。希美は私の特別。希美にとって私がなんでもなくても、希美のぜんぶが特別」
ハグのポーズ
「どうしたの」「大好きのハグ」
「私、希美がいなかったら楽器もやってない。何もなかった」「ごめん、それよく覚えてないんだわ」
「希美はすごい」「みぞれも努力家だよ」「希美の声が好き。話し方が好き。足音が好き。髪が好き。希美のぜんぶが好き」
「みぞれのオーボエが好き」(ポロリと溢すように、無意識の間で)
大笑いする希美。
「ありがとう。ありがとう、みぞれ。ありがとう」
音楽室を後にする希美。廊下で回想。本当は声をかけたあの日のことを覚えていた希美。
2羽の白い鳥が並んで飛んでいく。
図書館。貸出カウンターにリズと青い鳥を置く。右隣に問題集が置かれる。みぞれは画面左から右に歩き音楽室に向かい、希美は右から左に歩いて図書室で座る。この動きは、みぞれが青い鳥であると気付いた瞬間の二人の背中合わせになる動きとは正反対。向かい合わせになる動き。最終的に、みぞれが画面右、希美が画面左で互いに中心を向いて座る(「みぞれ:希美」)。画面左から右へ青い鳥が飛んできて横切る。
画面左に青、右に赤の水彩絵の具。希美の目が青でみぞれが赤であることと関連?
校舎の外、手を振る希美のところに走って来て、希美よりも先に校門から足を踏み出すみぞれ(初めて希美を追い越したシーン)。
みぞれ「ありがとう?」「なんで疑問形なの」希美「何食べたい」「かき氷」
希美「私さ。みぞれのソロ、完璧に支えるから。だから、今はちょっと待ってて」
みぞれ「私、私もオーボエ続ける」
「「本番頑張ろう」」
「あっ、は、ハッピーアイスクリーム!」
「なに、みぞれ、アイスが食べたいの?」
一緒に歩き、振り向く希美。何かを告げる。驚きと一緒に大きく目を見開いたみぞれ。
「disjoint」→「disjoint」
この映画は「雰囲気もの」の極致である。繊細な映像表現の積み重ねにより、希美とみぞれの間に漂う「空気感」を描写している。そこに説明的なものはほとんどなく、大胆なシーンの繋ぎ方で余計なシーンはすべて削っている。
足元や首から下を映すカメラワークも独特である。山田尚子監督の特徴として足の動きによる感情表現が挙げられるが、それが十全に発揮されている。これまで確認してきたように、構図もかなりこだわって作られている。希美とみぞれ、ふたりの少女が左右に配され、互いの気持ちに従って微妙に位置を変えていく。山田尚子監督は構図自体は実写映画を意識しながらも、アニメならではの表現を随所に取り入れ、繊細な少女の機微を描いて見せる。この映画はサイレント映画と同じく、構図の妙を十二分に生かすことで、言葉による説明を極力省いている。そして、生演奏で録音された美しい音楽を、音声の代わりに挿入する。そこで生み出されるのはまさに純粋な「映像体験」であり、この映画が革新的なことを証明する。
第3章:「視線と百合」
この映画では瞳も丁寧に描写される。
元々、この映画自体が「みぞれから希美」という視線を基調に出来上がっている。それがみぞれが覚醒してソロを吹くシーンで一転し、「希美からみぞれ」という視線が突き付けられる。それは第2章で確認した構図の転換という形でも表される。みぞれが一方的に希美を見ていたこれまでから、希美が嫌でもみぞれを意識しなければならない状況へと物語は追い込まれ、希美自身も自分の中の醜い感情と、みぞれを介して向き合うことになる。
「眺める/眺められる」という「みぞれ/希美」の関係性は、「リズ/青い鳥」の関係性である。そこに存在するのは一方通行の感情だ。それがあの覚醒シーンを起点(もちろん、新山先生から音大を進められた部分が発端ではあるが)に「眺められる/眺める」という双方向の矢印を持つことで、希美とみぞれが真に対峙する関係になったことが提示される。青い鳥は飛び立ち、リズはそれを見上げるしかない。けれど、最後に二人は並んで下校する。一方的な矢印は解消され、ようやく並んで歩くことができるようになった。ここにおいて、原作とは異なり、希美からみぞれに対しても、矢印が向くようになったと解釈しても差し支えないだろう。
視線の交わり方もこれと絡めて考えられる。
窓ガラス越し、水槽越し、校舎越し、人物越し、二人の少女が互いを見つめる際、そこにはフィルターがかかり、距離が生じている。みぞれを通して、希美は自身と向き合うことができた。みぞれも、希美を通して自己と向き合っている。それはつまり、フィルター越しなのである。交わらない視線。それが「disjoint」であり、交わっていく過程がこの映画の趣旨である。そして、フィルターを壊してはっきりと交わった先は、広く解釈が開かれている。
彼女たちは決して「画面の外」を見ない。客にこびず、客の視線を意識しない。それは、この物語があくまで誰かに観測されるものではないということを強く主張する。ここで提示されたのは「希美とみぞれ」の物語でしかなく、我々がそこに参加することは許されない。これも、久美子という第三者の視点で進んで行く小説版とは異なる部分であろう。
最終シーン、希美の顔は映されず、ただみぞれの反応だけが描写される。驚愕に目を見開きながらも嬉しそうなみぞれの表情。さて、希美はみぞれに何を告げたのだろう。一つの解釈として「大好き!」と告げたのではないか、というものがある。しかし、そうした画面外の第三者による解釈はいずれもある危険性をはらんでいる。すなわち、百合に対する介入の危険性だ。
「希美とみぞれ」
この関係性を言語化し、観測できる形にした瞬間、映画の中に存在していた空気はたちまち霧散してしまう。
そこに「ただ在るもの」として提示されるあの最終シーンこそ、希美とみぞれの関係性における「不可侵性」を盗み見ようとする我々観測者への、映像自身による最大限の抵抗なのである。