卒業してすぐの明治37年(1904)には、日露戦争がはじまっています。
このとき高橋三吉は、当初、駆逐艦「叢雲(むらくも)」の乗組員として参加し、その後、翌年5月の日本海海戦を前に、戦艦「敷島」の分隊長に転任し、バルチック艦隊との決戦にも参加しています。
こうして高橋三吉は、海軍に入隊してから27年間、砲術の専門家として、その地歩を固めます。
海軍で砲術専門の高級参謀といえば、艦隊をいかに指揮して敵艦隊をせん滅するかを徹底して研究し、味方を勝利に導くことの専門家です。
ところがそんな高橋三吉に、転機が訪れたのが昭和3年(1928)4月です。
連合艦隊が初めて空母を組み込むことになり、「赤城」を中心とした第一航空戦隊が設けられたのです。
彼はその初代司令官に任命されました。
内示のとき、高橋大将は、「私は砲術一筋の男ですから」と、専門外の空母運用の司令官を固辞したそうです。
けれど、これは新たな戦術としての航空隊導入の試用期間であるからと無理やり説得された。
当時の赤城の艦長が山本五十六大佐です。
そしてその下にいる航空隊のメンバーは、まさに飛行機に命を賭けた男たちです。
当時の航空隊は、まだだま飛行機の性能が追いついていず、よく墜落しました。
これらは訓練中のトラブルによる事故で、このため多くのパイロットが命を落としています。
子が軍人になるというと、多くの親は喜び、誇りを持った時代でしたが、どこの親も、飛行機乗りになることだけは反対でした。
それほど飛行機はまだ危ない時代だったのです。
それだけに、航空隊のメンバーは、そうした危険をものともせずに護国のために、むつかしい操縦に命を燃やす闘士たちでした。
そして実際に模擬訓練をしてみると、飛行隊の前に強力な装備を施した海上要塞である戦艦でさえも、ただの巨大な的(まと)にすぎなくなることがわかりました。
高橋大将は、「これからは必ず飛行機の時代になる」と確信します。
のちに連合艦隊司令長官に着任した高橋が、その頃建造がはじまった「大和」「武蔵」に対して、これからの時代に戦艦建造の必要性があるのだろうかと、建造に再考を促すコメントを残したというのは、有名な話です。
ところが当時はまだ飛行機の運用を知る人が少なかった時代です。
「連合艦隊司令長官の要職にありながら、
軍令部の意向に反して自分の経験だけで
計画に横槍を入れるとは、けしからん!」
といわれ、高橋大将は海軍大学校長に更迭させられています。
ちなみに、戦艦か飛行機かということについて、戦後よく言われることは、米国は早くから航空戦にシフトし、日本海軍はいつまでも大艦巨砲主義にこだわったために、敗戦を招いたという解釈(歴史認識?)が行われることが多いのですが、それは全然違います。
大東亜戦争のはじまったころには、すでに航空機の数は日本が米国を圧倒していたのです。
そして航空隊をもって移動中の艦隊(英国海軍)を世界ではじめて打ち破ったのも日本です。
真珠湾攻撃も航空隊によって実施されています。
早くから飛行隊に目を付け、これを活用したのはむしろ日本だったのです。
終戦時、ポツタム宣言受諾に際して、米軍は戦艦ミズーリの艦上でこの式典を執り行いましたが、ミズーリというのは、米海軍の誇る巨大戦艦です。
けれど、こんなものを作っておいて、ミズーリが活躍したのは、あとにも先にも、この式典だけです。
要するに、第二次世界大戦までの世界の軍事は、どこの国もまだ伝統的な巨艦主義に傾倒していたわけです。
だから日本も同じだろうと、戦後のGHQが「真相はかうだ」という番組を作って宣伝しただけのことです。
実際は違います。
さて、戦争が始まる2年前の昭和14(1939)年、高橋三吉大将は、軍を退官し、予備役に編入されました。
もともと高橋大将は多芸多才で、軍事参議官時代からは、油絵や書が趣味でした。
高橋大将は、こうした趣味に没頭するとともに、東京港水上消防署設立協賛会会長などに就任し、悠々自適な暮らしをしていたそうです。
高級将校だったのです。
退官後も、それなりの生活はちゃんと保証されていたし、社会的な地位も高かったのです。
ちなみに、「無法松の一生」という村田秀雄の歌にもなった映画があります。
この映画の中に、吉岡陸軍大尉の未亡人の良子を松五郎が思慕するというシーンがあるのですが、戦前戦中には、このシーンは、軍の検閲でカットされました。
車夫風情が帝国軍人の未亡人に懸想(けそう)するとはけしからんという理由だったそうです。
要するに、それくらい高級軍人の社会的地位は高かったのです。
ところが昭和20年、大東亜戦争終結し、GHQがやってくると、日本軍が解体されただけでなく、すでに退役した元軍人さんの恩給までもカットされました。
それどころか団体役員等も、ことごとく解任させられてしまいました。
こうなると収入の道がありません。
残された家族を養うことさえもできなくなります。
さらに高橋大将自身は、満州事変時の海軍首脳であったとしてGHQに逮捕されてしまうのです。
そんな高橋大将のもとにやってきたのが、若き日の笹川良一で、笹川は高橋大将を励ましました。
一方、高橋大将の方はというと、獄中で裸一貫で大声で軍歌を歌い、舞を舞って裁判を闘い、結果、ついに不起訴釈放となっています。
そんな東京裁判が行われていた時代のことです。
昭和24年(1949)に、銀座の街中に、品の良い、ひとりのサンドイッチマンが話題になりました。
サンドイッチマンというのは、体の前後に広告看板を付け、手にはプラカードを持って歩く街頭宣伝員です。
たいてい貧しくて日に焼けた男性がサンドイッチマンをしていたのですが、この銀座のサンドイッチマンは、妙に品が良くて、行きかう人々の間で、どことなく気になる存在となっていったのだそうです。
噂を聞いたとある新聞記者が取材してみると、なんとこれが高橋三吉元海軍大将の次男の健二氏であることがわかりました。
作家の太宰治はこうした社会情勢を背景に、昭和22年(1947)に、小説『斜陽』を発表しました。
この小説はベストセラーになり、零落した華族や財閥、高級軍人たちは「斜陽族」と呼ばれるようになりました。
その中の一人に、高橋三吉海軍大将の息子さんもいたのです。
そして、昭和28(1953)年、この噂を聞いて世田谷区立世田谷小学校の教師だった31歳の宮川哲夫が作詞したのが鶴田浩二が歌って大ヒットした「街のサンドイッチマン」です。
この歌のヒットで、宮川哲夫は翌年ビクターレコードと専属契約をして、次々とヒット曲を作詞しています。
代表作には「好きだった」、「夜霧に消えたチャコ」、「東京ドドンパ娘」、「雨の中の二人」などがあります。
さて、その「街のサンドイッチマン」の歌詞です。
1 ロイド眼鏡に 燕尾服
泣いたら燕が 笑うだろ
涙出た時ゃ 空を見る
サンドイッチマン
サンドイッチマン
俺らは街の お道化者
とぼけ笑顔で 今日も行く
2 嘆きは誰でも 知っている
この世は悲哀の 海だもの
泣いちゃいけない 男だよ
サンドイッチマン
サンドイッチマン
おいらは街の お道化者
今日もプラカード 抱いてゆく
3 明るい舗道に 肩を振り
笑ってゆこうよ 影法師
夢をなくすりゃ それまでよ
サンドイッチマン
サンドイッチマン
俺らは街の お道化者
胸にそよ風 抱いてゆく
正しいことをしていたのに、一生懸命生きてきたのに、あることを境に、なにもかも失ってしまう。
そういうことは、世の中に、たくさんあるものです。
けれど日本人は、幾度となく一切合財を失いながら、再起三起して新たな繁栄を築いてきました。
我々の祖父の世代ですと、関東大震災で身内を失い財産を失いながら、そこから立ち上がって国力を付け、先の大戦の空襲で、そうして築いたものをまた失い、食べるものさえろくにないなかで焼け野原から、再び立ち上がって戦後の高度成長を築いています。
なぜそれができたのかといえば、物質的な財を失っても、頭の中にあるソフトパワーは失われないからです。
そしてそのソフトパワーというのは、単なる知識とは異なるものです。
愛するものを守りたい、すこしでも幸せに近づきたいといった、誰もが持つ愛と喜びと幸せと美しさを希求する心を、人々が互いの幸せのために共有していくことです。
そしてそのような社会とは、ごく一握りの人だけが贅沢三昧な暮らしをし、残りの圧倒的多数の人々が貧困にあえぐような社会では絶対に築けないものです。
そのために我が国では上古の昔から、国家の最高権力よりも上位に天皇の存在を仰ぎ、その天皇によってすべての民が「おほみたから」とされるという国柄を築き、それを守り続けてきたのです。
何のためか。
それは神話に出てくるイザナキとイザナミが、そもそも私たちのクニを、よろこびあふれる楽しいクニにしたいと願い、ご皇室を含む日本人の誰もが、そのイザナキ、イザナミの直系の子孫だからです。
だから日本は世界で唯一、「和を以て貴しとなす」ことを国是として実現することができたのです。
近年、IT会社の若い30代くらいの社長さんが、年収何百億円の大金持ちで、なんとかの絵を何百億円で落札したとかいう話が、よく報道の電波に乗ります。
ところが、彼らが遣ったお金のことは話題になっても、彼らの行う事業の内容が(それは一部上場企業よりも大きな利益をあげているとされているにもかかわらず)公開されることはほとんどありません。
実に簡単な理屈で、もちろん全部とはいいませんが、その限られた一部は、反日活動を幇助することで日本政府かにカネを出させ、そのカネの一部を受け取っているトンネル会社であることが多いといわれています。
働いて汗を流して、努力してお金を稼いで生活するのではなくて、政治的にカネを得る人たちなのだそうです。
そのためには、どんな悪辣非道なこともいとわない。
そういう文化が、大陸や半島には昔から存在します。
しかしそういう文化のもとでは、いちど廃墟になったものは、二度と戻らない。
再起三起は、不可能です。
やり直すには、また奪うしかない。
日本男児は、褌一本。
太刀のこ尻をドンとついた裸一貫。
大切なのは心。
泣いたら燕が 笑うだろ
泣いちゃいけない 男だよ
笑ってゆこうよ 影法師
夢をなくすりゃ それまでよ
苦しいからこそ笑顔で生きる。
泣きたいときはひとりで泣く。
人前では、涙より笑顔でいる。
それが日本人です。
お読みいただき、ありがとうございました。
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ですが、自分が痛い思いをしたり、何かを失ったり、そういう時には涙は堪えるべきだと思います。
ではなぜ涙が必要なのか、それは人は本能的に悲しい時や感動したとき、感銘を受けたとき、自然と涙がこぼれるからです。
自分ひとりで完結するような問題に対して泣くのは自分が弱いからです。自分の心が弱いから問題に屈して泣いてしまいます。それは心を鍛えれば堪えることはできます。ただし、堪えているだけで苦しかったり悲しかったりする事に違いはありません。
ですが、他者が苦しんでいたり悲しんでいたりするとき一緒になって泣いてあげるのは人情です。愛ともいうかもしれません。こういう涙は互いの絆をより深めてくれるものです。
もちろん、嘘泣きというものもあるので涙だけで推し量るものではないですが。
また自分が悪い事をして、相手にわびる時、自分のした事を悔いて涙を流して詫びるのも良いことです。あぁ、この人は本気で悔いているなと、推し量ることが出来ます。
もちろん、これも嘘泣きというものがあるので涙だけで推し量ることはできません。
またどちらも、相手を想うでも嘘泣きでもなく、頑張ったのに何で!とかせっかくここまでやったのに何で!とか、自分中心自己中心な考えからくる涙も堪えるべきものです。
こういった涙は精神的にまだまだ子供か、性根がひねくれてしまった人なのでしょう。こういう状態の人は、こういう状態に育ててしまった周りの人全てにも責任があります。
そんな事はない、私は全うに生きている!と言う方は居ますか。
そもそも責任とは負うものです。一人一人が責任を負っています。今では責任=悪いイメージとなっている感がしますが、親が子に責任を持つ、と聞けばそうではないことが解るはずです。
責任とはすべき事です。問題に対して各々の立場で自分には何が出来るか、よく考えてすることです。それが責任を負うということです。
最後に、涙は恥ずかしいものでも恥じるものでもありません。大人だからとか、子供だからとかも関係ありません。状況次第です。状況次第で涙は、美しくも醜くも、または儚くもなりえます。
以上です。