自分を裏切った人の夢を観ました。
なんの意味もなくただ面白いからという理由だけで裏切よⅡった人間です。
それが最後の引き金になって、私は恐らく非常に大きい欠損をうちに遺しています。
なぜなら、それまでの人生であまりに多くの人間に裏切られ続けてきているので、すでに取り返しがつかなくなっていたからでしょう。
これは私がながらく犯罪社会での稼業についていたことにも由来があると思います。
職業上犯罪者ばかりの相手をしてきたので、そこ以外の世界ではまっとうな物が支えとして必要だったのでしょう。
しかし、実際のところは、犯罪社会も外の社会も、人間というものはあまり変わりませんでした。
それはもちろん、犯罪者も法は犯すが必ずしも邪悪だというわけではないという意味でもあるのですが、そこは疑ったことはもともとなかったので結局悪と言う物が均等に世にははびこっており、結果私はどこにも救いを見つけられなかった。
自分が手を差し伸べた者や愛した者のあまりに多くが気まぐれな邪さや功利主義に流されて行ってしまった。
こういうことは、警察官やソーシャル・ワーカーなどにも多くみられると聞きます。
発達障害のある人々に幾度も寄り添ってきたのですが、結局最後にはみんな堕ちていってしまった。
もともと彼等には、一本筋の通った信念を維持したり、即物的でない概念を保つのが苦手であるというところがあるように思います。つまりは、いまどきのスピリチュアルや自己啓発系の人々と同じということでしょう。そのために彼らの中に社会的成功者が出る可能性は決して低くない。
ただ、これは心の通った人間関係にはとても遠いところにあります。
自分がいじめられているのを助けてくれた人間が背中を向けた途端に石を投げつけるようなことが平気で出来る。
このようなことは心理学では小児性と言われているそうで、自分で自分を見つめて自分を縛ることが苦手であるためのつい起こしてしまうことなのでしょう。
良かれと思って手助けしていた人が、調子に乗ってきたので注意したところ罵ってくるというようなことは彼等においては珍しくありません。
面倒を見てきた(と言うと偉そうなのですが、プライベートでではなくて会の活動としてやってきたことも含むのでこういう表現をする)発達障害者が、よその人に迷惑をかけたので注意したところ嘘をついて欺こうとしたり罵ってくるようなことは普通にあったことです。
こちらは一定の「方針」で動いていても、彼等にはそれが理解できず自己の利益だけがすべてなので、初めは物乞いのような態度をとってきてもいずれ居直り強盗のようになることは典型であるように思います。
最近も勝手にまとわりついてきていた発達障害児に対して何度も繰り返してきたお引き取り願いを繰り返したところ、呪詛の言葉を投げかけられました。
袖が擦りあったら最後、このようなことになることは非常に多い。
これは、発達が障害して小児性が残っている以上はしょうがない。小さな子供が初めは甘えてあれを買ってくれこれを買ってくれと言ってきたのが、拒否すると泣き喚いて叩いてくるのがそのまま残っているので、何か大げさな悪意がある訳ではないのでしょう。
自分の気分で動いているだけで、規律やルールがあって物事は裁量されているということがイマイチ把握出来ていないのでこうなる物であると思われます。
であるがために、私の周りの彼らの多くは結局、自分の選択で口当たりや一時的な利益の良いカルトや暴力組織に飲み込まれていってしまった人たちが多い。
彼らがそうであるように、彼らを自己の利益の要素としてしか見ないマニュアルを持って利用している人々が世の中にはたくさんいます。
先日も、b級手帳を受けている発達障害の青年がカルトにたぶらかされて地方にある教団施設に連れ去られるという事件がありました。
もちろん、勝手に他者が外から見て人の幸せを推しはかるというのは難しいことです。あるいはそんなことは不可能なのかもしれない。
そのような手口の宗教活動には、純粋に障害のある人を幸せにしようという善意があるのかもしれない。
そして、実際に勧誘された方もそこでの教義によって幸せになるかもしれない。この世の中で彼等に救いを与えてくれるところが、他にどれだけあることでしょうか。
なので後見人以外がそこには口を出すことではないのでしょう。
昔、ある大きな猟奇殺人事件が起きて、犯人が内面に問題を抱えた少年であったことが判明したとき、ある老人が「このようなことが起きるなんて、いったい学校は何を教育してきたのだ」と憤慨していたのを目にしました。
果たして、教育はそこまでのことが可能だったのでしょうか。
確かに、学問は倫理の元、というのは古い儒教思想の根本にある考え方です。
私自身、伝統の世界に身を置く者であり、学芸に寄り添って生きている身ですが、実はそこに大きな疑問を感じ続けています。
教育と学問は、いったいどこまで人を救い、幸せにすることが出来るだろう。
少なくとも私個人は、世間に絶望した隠棲の身であり、学問だけに生きているのでここにのみ救済があるのは間違いはないのですが、それは決して誰にでもマッチすることとは言えないのかもしれない。
とはいえ、そこ考えることを辞めたら、もはや私は学芸の徒ではありえなくなってしまうので、この問題とは向き合い続けなければいけません。