academistスタッフからの一言
人が教え、人が育つという教育の本質はまさに「人」にあるため、人間の寿命という短いサイクルでまわり続けるその過程が歴史となり、現在の教育につながっています。「人から人へ紡がれるものだからこそ、その歴史を学ぶことに大きな意味がある」と語る原さん。今回のプロジェクトでは、アメリカの学士課程教育の考え方の前提にある「イェール報告」がこれまでどのように解釈されてきたのかを調べます。これからの大学教育を考える材料を提供したいという原さんの取り組みに、ぜひご注目ください!
担当者:大塚美穂
「文学や哲学、歴史学をはじめとする『文系学問』は役に立たない」と言われたら、どのように反論しますか。もしくは賛成しますか。また、「大学は文系学部を減らして理系学部を増やすべきだ」と言われたらどうでしょうか。
このような議論は近年、度々報道されるようになってきており、同時に、大学教育の改革の必要性が強く叫ばれています。ここで一旦立ち止まってみてください。そもそもなぜ、現状のような大学がつくられてきたのでしょうか。その背景は見落とされがちです。
この「なぜ」を明らかにし改革の材料を提供するため、私は現在、教育の歴史について研究を進めており、特にアメリカの大学における学士課程教育の目的と、これに伴うカリキュラムの変遷について調べています。なぜアメリカなのかといえば、日本の戦後の大学教育がアメリカをモデルに改革を行ってきたためです。
日本では2008年に中央教育審議会から、大学で4年間の勉強をするにあたり目標とすべき学習成果の参考指針が提示されました。この指針は「学士力」と呼ばれています。これが制定された背景として、大学教育は「知識」偏重であり、社会に出た後に必要となってくる「能力」を考えていない、といったそれまでの大学教育に対する批判がありました。しかし、「知識」と「能力」は別物なのでしょうか。
現在のアメリカの学士課程教育の前提には、「知識の獲得」と「能力の育成」が連続しているという考え方があり、その中で文系の科目も常に重視されてきています。そしてこの考え方の歴史をたどっていくと、「イェール報告」と呼ばれる、現在のイェール大学が1828年に出版したカレッジ・カリキュラムの報告書に行き着きます。
このイェール報告は当初、「知識を獲得する過程で記憶力や判断力などの能力が鍛えられること(知識よりも能力)」こそがその意義である、という主張を展開することで、古典語を中心としたカリキュラムを保守しようとしていると解釈されていました。しかし近年の研究により、イェール報告はむしろ「知識を獲得し積み重ね、実際にその知識を使用することでその人の能力は成長する(知識と能力は連続)」という立場を取っていることや、古典語をはじめとする文理の多様な科目の実用性について論じていることがわかってきました。
ここで、2つの疑問が浮かんできます。1点目は、イェール報告を書いた人はなにを参考にして、「知識と能力は連続」という考え方を得たのかということです。これはイェール大学に出向き、当時の記録を直接見なければわかりません。
2点目は、なぜこれまでの研究で、イェール報告は「知識よりも能力」だと述べていると解釈されてしまったのかということです(下図、緑色)。私は、実はイェール報告には出版当初から大きくわけて2つの解釈があり、そのうちの片方のみが先行研究において取り上げられていたのではないかという仮説を立てています(下図、赤色)。
そこで、まずは2点目の疑問について、この仮説に基づき研究したいと考えています。イェール報告を誤解なく読むことが出来たと思われる人物(※)が書いたものについて、イェール報告以外にどのような議論を参照していたのかに着目して調査する予定です。
(※)現段階の仮説では、イェール報告の議論は、アメリカ最初の研究大学と言われるジョンズ・ホプキンス大学や、コーネル大学などの学士課程の考え方に、誤解なく引き継がれたと考えています。
こうした研究は、本や資料を、当時の社会的状況や当時の人々が受けていた思考の制約などに関する情報と突き合わせながら読むことで進めていきます。そのため、本や資料、論文の購入や、学会に出て情報を収集することが必要です。しかし、私が現在勤務している場所が青森であり旅費がかさんでしまうため、研究費の捻出が困難な状況です。そこで今回、学会参加や首都圏の図書館にある資料収集のための旅費の一部を皆さまにサポートいただけないかと思い、クラウドファンディングのチャレンジを決めました。
日本の高等教育政策の場合、戦後はアメリカを参考にしてきていますが、そこにはたくさんの誤解があり、「モデルを間違って認識したまま真似しようとしている」という状態になっています。モデルの正しい認識は、そのモデルを踏襲するにしても離れるにしても、まず取り組むべき課題ではないでしょうか。
誤解がある場合には、「なぜそうなってしまったのか」を明らかにし、より妥当性のある政策を策定するための材料とすることが、歴史学の役割であると私は考えています。ご支援のほど、どうぞよろしくお願いいたします。
弘前学院大学の原圭寛(HARA, Yoshihiro)と申します。慶應義塾大学の文学部で学び、就活に挑んだ際に面接で、大学で学んだ知識を全否定されたという経験を経て「じゃあ大学の(特に文学部の)授業って何のためにあるの?」という疑問が芽生え、大学のカリキュラムを研究する道へと進みました。現在は大学の教員養成課程で中学・高校の教師を目指す学生を指導する傍ら、このような研究を進めています。
以下のスケジュールで研究を進めていきます。
2018年5月 | クラウドファンディング開始 |
2018年6月~ | 資料の購入、学会での情報収集 |
2019年3月 | 著書執筆(予定) |
2019年3月 | 世界教育学会 学会発表申込・査読 |
2019年8月 | 世界教育学会 発表 @学習院大学 |
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