気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の非活メンバーによる語り

実践の功徳は要らない。







いつもみなさん、ありがとうございます。



さて創価学会の活動家さんも大石寺の信徒さんも、時々弘教活動の実践の"功徳"を強調することがあります。


例えば
折伏している時は生命が輝いている」
「会合に行って帰ると風呂上がりの気分」
「あの人は戦っていないからわからない」
「仏教の根本は実践である」


まあ、なんでもいいんですけど(笑)、私はこれらの考え方に全く与しません。
私はかつての活動家でしたから、彼らの感じ方は理解できるつもりです。
ただ今の私はそんなものを仏教であるとは思わないですし、そんな浅はかなものが日蓮仏教の功徳なのだとしたら、ますます日蓮の教えなど持とうとは思いません。


題目をあげて元気が出るのは声を出すから当たり前のことで、会合に行ってさっぱりするのは体を動かして運動してきたからだと思います(笑)。


活動を実践して初めてわかるという「輝かしい生命力」とか「仏界の生命」とか「功徳」とか、そんなものを私は必要としていません。
「題目を唱えると願いが叶う」とか「宿命転換できる」とか、そんなことは私には全く必要ありません。

そんな願い事が叶うとか、生命力が湧いてくるとか、ご利益があるとか、そんなものを私は信じていませんし、必要性を感じていません。


折伏をしないとわからない」なんて言う人もいますけど、「折伏」という語を日蓮は「弘教」という意味では用いていません。


「摂受と折伏について」


いい加減「実践しないと仏法がわからない」という意味不明の先入観(笑)を捨てて、早く功徳信仰から卒業することです。