新デンシノオト

音楽ノート、そのほか。

20180515

●初夏に戻った。

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●最近、タルコフスキーサクリファイス』(1986)が2010年代後半の世界/環境において「思想」的な潮流として重要な意味を持ち始めている。これは日本においては2011年3月11日以降、随所な傾向だが、世界的にも地球環境の変化と政治の不穏化、経済の不安定化、国家という枠の崩壊など伴い、よりリアリズムを持って受け入れられつつあるように思える。むろんチェルノブイリ原子力発電所の事故は本作の公開と同年であり、旧ソ連という国が崩壊するのはこの映画からさらに5年後であり、そもそも『サクリファイス』は1984年に脚本が書かれ、その後、スウェーデンで撮影されているからすべては単なる偶然なのだが、しかし、本作に亡命していたタルコフスキーのロシアという国への「望郷の念」が、反転するようにロシア、ソ連という国家=世界への終わりの感覚へと結晶しているような作品で、結果、それが現代の世界特有の終わりのムードへと繋がっているともいえる。世界/人間という「終わり」状態を描くこのロシア出身の作家は、世界の終焉の直前を人間の非劇と救済を描く。では世界は終るのか。人間が終わるのか。しかし世界は、人間滅亡以降も人間とは関係なく続いていく。それが明白になっている現在、われわれはタルコフスキー以降の世界を生きてることも事実である。

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●またもメルツバウを聴く。今年はメルツバウを耳が求めてしまう。

20180514

●昨日(日曜)は、午後から雨。

●疲れていたので終日在宅。寝たり起きたり。ただ寝てばかりいると意外と疲れて体力回復にはならないものだ。適度な運動はやはり必要であった。

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●Eblen Macari『Música para Planetarios』を聴く。1987年リリースのメキシコ人ギタリスト/ アンビエント・アーティストによるニューエイジ / アンビエント作品のリイシュー。今年はリイシューもされに発掘が進み、ニューエイジ / アンビエントが面白い。

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●海外では日本のアンビエントニューエイジ発掘がトレンド(’?)のようで(吉村弘『Music for Nine Post Cards』や、清水靖晃『案山子』など)、今音楽は過去と現在を結びつける動向になっている。

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●無料放送で頭の部分だけ新生スパンクハッピーを観ることができて興奮してしまった(「アンニュイ・エレクトリーク」(!)の途中まで)。これこそ観たかった聴きたかったやつだ。というわけで第二期スパンクハッピーを聴き直す。

20180513

●急に初夏に戻った。

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●不意に音楽を聴くことに飽きることがある。だがそれは当然のことで、そういったときはしばし離れていればいい。

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●この国で「音楽」とは音楽ジャーナリズムから「下される」情報に過ぎないのか。個人として聴くこと。個人として批評をすること。連帯ではなく孤立をすること。その可能性を模索すること。

●とはいえ、そのような態度はこの国では「自殺」に等しいことなのか。

●よって「批評」の「プロ」はバランスのとり方に苦労をしているのか。しかし批評とは本来個的なものである。だがこの国で個的な存在は社会から抹殺される。ではどうすればいいのか。

●いまや誰も批評を亀裂とは思わなくなった。いまや批評はひとことキャッチコピーに近い。そういっていけばただの紹介文とは違うぞとでもいうような。

●しかし批評とはそもそも亀裂を見出すことで、芸術固有の失敗を救い出すことにあったはずではないか。亀裂の陥没地点を擁護すること。決して社会システムの再構築の話でもないし、作品の適切な分析でもないし、分かりやすい紹介でもない(むろん個的なものであるがゆえ、どような形式であれ批評的なものが宿るときはあるだろうが)。

●個が社会と世界の関係の中で文を介して、そこにある亀裂の浮上させ、その浮上への驚きと亀裂への愛を波及させること。それが批評ではないのか。そんな批評は20世紀までの「古い」批評なのか。

●むろん自分は批評家などではないただの一般読者なのでないものねだりの願望かもしれないし、実際、そうだろう。だがしかし、そういった強い批評文を読みたいのも事実である。

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メルツバウを聴いた。耳がノイズ音楽を求めてしまう。

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●新譜ではないがFrancisco Meirino『Surrender, Render, End』(2016)を聴き直す。メイリノは持続と切断(変化)が明瞭で巧みだ。

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パスカルキニャールの『さまよえる影たち』を折に触れて読んでいる。

20180512

●朝は寒く日中は20度を超えた。この温度差に体調がついていけない。

●体験の解像度の高さとお金を払うことの重要性みたいなのが今、でてきてると思う。インターネットがあれば月1000円で聴き放題な時代においては、体験(取得する情報量)の濃さにお金を払うと思うのだ。

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●Drew Daniel, John Wiese『Continuous Hole』を聴いた。マトモスのDrew DanielとJohn Wieseのデュオという。エクスペリメンタルなノイズ・テクノといった趣。

●Nik Bärtsch's Ronin『Awase』。ECMの新作。浪人。合わせ。日本的な間/合いの美学?ハーモニーの構築の実験・実践ととリズムの実験・実践に思える。

20180511

●昨日は少し気温が戻ってきた。しかし夜と朝は寒い。

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●自分は音楽を聴くとき、それがいわゆる実験的な音楽作品や音響作品であっても、どこか感覚や感情から解離しているような作品を好む傾向がある。

●だから人によっては単なる詰まらない音に感じるかもしれないが、その物質的な感覚を好むのは感情を否定しているわけではなく、それとは別の場所/方法に立っている音という求めているからだ。

●端的に映画でいえばストローブ/ユイレ、音楽でいえばクリスチャン・ウォルフの作品などを挙げることもできる。

●ストローブ/ユイレの作品はどれも好きだがあえてその系譜でいえば『歴史の授業』『アンティゴネ』か。『階級関係』や『シチリア』は好きだが(彼らの映画にしては)劇映画の系譜に入れるべきだろう。

●で、最近Erstwhile Recordsから出たChristian Wolff/Antoine Beuger『Where Are We Going, Today』を聴く。Edition Wandelweiser Records を主宰するオランダの作曲家Antoine Beugerとの共作らしい。「Stone」と同質の硬質な物質性。

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●ようやく「MUBI」に加入した。

20180510

●昨日は(も)寒い日だった。

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●どうでもいい話だが、自分は今年(2018年)で47歳になるわけでつまり20年前(1998年)は27歳であった。ということは今の27歳の人はまだ生まれたばかりということになる。つまり0歳だ。だが今の27歳前後の人は普通に優秀な人が多い。対して私は優秀ではない。この差はどこで生まれたのか。ある一定の歳を過ぎると年齢はあまり関係ない。気をつけていきたい。

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●自戒だが世代論的批判は控えめにしなければならないと痛感した。度を超すと単に年齢差別に陥る。今の日本はその傾向が強い。気をつけたい。

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●さらに自戒だが、あらゆる批判は自分に呪いをかけてしまう。仮にその批判のようになるのを避けたとしても、「そうはなってはいけない」という意識が永遠に自分を縛る。根拠のないことなのに。気をつけたい。

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●Okkyung Lee『Dahl​-​Tah​-​Ghi』。韓国人チェロ奏者の最新ソロ・アルバム。すべて即興というが、弦それ自体を聴取するというより、その硬弦の揺らぎの向こうにある残響の生成と変化と減退と消失を聴くような感覚。永遠の変化の過程/結晶か。

●Sarah Davachi『Let Night Come On Bells End The Day』も聴いた。.前作より好きかも。

20180509

●昨日は急にとても寒い日だった。冬に戻ったような気温。この温度差ではなんだか良くわからなくなる…。

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●「ポスト・トゥルース」とは90年代以降的なオルタナティブな選択が機能不全化した社会になったからこそ表出してきた現象ではないかと思った。つまりオルタナティブ以降の現象。

●主流に対するもうひとつの選択としてのオルタナティブという単純な選択がもはや意味をもたない(もてない)のが現代である。「ポスト・トゥルース」とはあえて単純化すれば、そのようなオルタナティブが機能不全に陥ったからこそ、「自分だけの真実を普遍化する行為」とはいえないか。つまりは社会における(ある程度は)正当な「もう一方の選択」が有効性を持てない時代は、「それぞれの真実を普遍化・現実化する選択肢が優先」されてしまう……。われわれには代替え案ではなく、取り戻すべきは「正しさ」への信頼なのかもしれない。

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●Joe Talia『Tint』を聴いた。アートワークのイメージどおりのムードのノイズ・ドローン。良い。

●Sissy Spacekの『Pitched Intervention』と『L/L』も聴いた。これもとても良かった。コンクレート・ノイズ。