天皇の歴史5 南北朝抗争
孝明天皇が若き松下村塾生だった伊藤博文と井上馨に、目を背けたくなるほど残酷な方法で暗殺された理由は、彼が北朝の末裔だったからである。
なぜ、北朝だと殺されねばならなかったのか?
それは、明治維新の思想的核心であった国学が「南朝正統」を要求したからである。
南朝正統論が世に出た初めは、「水戸のご老公 」の大作「大日本史」だったようだ。なんでまた、南朝かといえば、徳川家康と、その後裔たちの愛読書、人気ナンバーワンだった「太平記」が南朝の肩を持っていたからである。
また、三河から南信、遠江は、南北朝戦争における南朝方最大の根拠地であって、天龍村、熊谷家の伝記のなかに、南朝の抵抗史が詳細に描かれている。
家康自身も、北朝、足利尊氏の勢力下にあった今川氏の人質となった体験から、今川の敵対勢力である南朝に強い関心を持っていた。
本居宣長ら国学者たちが、一斉に南朝正統論になびいた理由も、太平記をはじめとして楠木正成への英雄視に満ちた伝記が世に出回っていて、南朝への心情的応援が広く浸透していた影響を受けていると思える。
ちょうど、楠木正成は江戸時代、三国志における諸葛亮孔明や関羽のような崇敬を一般大衆から受けていたのである。それは、ちょうど源義経に対する「判官贔屓」に似ている。
そうして極論を言えば、孝明天皇を殺した真犯人は楠木正成であったともいえる。
正成が寡勢で北条幕府の大群に立ち向かい、大群の奢りを逆手にとって奇計による勝利を挙げ続ける様子は、日本史においても右に出るものがないほどの痛快な物語である。
湊川の戦いで、公家たちの愚かさにより不遇の最期を遂げる様も、実に日本的な運命審美観にかなう美しい最期であった。
これが人々の心を捉えないはずがなかったのだ。「南朝こそ正義」と。
[後醍醐天皇と建武の新政]
1192年、源頼朝によって鎌倉幕府が開かれ、地頭・守護・御家人のような制度が確立し、全国の地の豪族たちは、幕府の権威を利用できる御家人になりたがった。
このころ、足利氏や新田氏、細川氏、島津氏など現代にまで続く家柄が、鎌倉幕府の統治システムに組み込まれていった。
ただし、鎌倉幕府は、東日本の大半を支配下に収めたものの、西日本の多くが、まだ朝廷の支配下にあった。
これにより荘園に対する双方からの税金重複取り立てなどが起きて、矛盾=不満が激化していた。
1221年、こうした事情を背景に「承久の乱」が起きたが、後鳥羽上皇に率いられた朝廷側が北条氏に敗北、六波羅探題のような強力な治安組織を作ることで北条政権が強い支配権を確立してゆく。
1246年、後蘇我天皇の皇位継承をめぐって、大覚寺統と持明院統に分裂、相互に天皇を即位させる取り決めが成立。
1268年、大モンゴル帝国が、日本を植民地とするために鎌倉幕府に使者を送ってきたが、北条時宗が、それを追い返した。
1274年、文永の役、1281年、弘安の役、モンゴル軍が、高麗を手先に使って、とうとう日本侵略を開始した。これは有史以来、日本列島が外国に直接侵略を受けた初めての経験であった。
鎌倉幕府も壱岐対馬の地元豪族たちも、元軍の攻撃の恐ろしさをまったく知らなかったため、戦闘では大敗したものの、二回の攻撃は、いずれも台風などで元軍が自滅し、最終的に勝利を収めることができた。
ところが、この事件は、当時の日本=鎌倉幕府・北条氏の国力で対応可能な規模をはるかに超えていたため、偶然の力で勝利できたものの、戦いに馳せ参じ、経済、人的資源ともに大きな損失を被った全国の御家人たちに、満足のゆく報償を与えることができず、政権は信用を失い、根底から崩壊をはじめた。
1297年 北条鎌倉幕府は御家人の困窮を救うために徳政令を出すが、御家人たちの不満は募るばかりであった。
このとき、西日本に一定の影響力を残していた朝廷が、再び、実権の回復を求めて活発に活動をはじめる。
1318年、後醍醐天皇即位、朝廷権力の復活を求めて北条倒幕を呼びかけ、何度も失敗するうち、困窮した東国の御家人たち、新田義貞や足利尊氏が合流して、幕府に軍事的に対抗できる勢力を作り出してゆく。
1331年 元弘の乱、河内の楠木正成が後醍醐の味方についたことが大きな運命の転換点だった。
楠木正成、新田義貞、足利尊氏らの力を借りながら、後醍醐は、とうとう北条幕府の転覆に成功する。
このときから後醍醐による「建武の新政」が始まるが、後醍醐の人間的弱点から、身内に甘く、縁の薄い者には、報償らしい報償を与えなかったことから、足利尊氏はじめ、有力な支持者、御家人が次々に去っていった。
このあたりの知識は、私にとっては、完全に忘れ去った領域であって、年号やエピソードなど、いちいち確認しながら、書いているので、ひどく時間がかかる。
なんでまた700年も前の歴史事件を引っ張り出してきたのかというと、実は、私の住む中津川市も含めて、天皇家を主役とする南北朝の争いが、いまだに呼吸を続けていることを知ってもらいたくて書いているのである。
それは、後醍醐が、自分を支え続けた御家人たちから信用を失い、唯一、楠木正成の支援を得ながら、吉野に逃げて南朝を成立させるところから南北朝百年戦争の物語が始まる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E5%8C%97%E6%9C%9D%E6%99%82%E4%BB%A3_%28%E6%97%A5%E6%9C%AC%29
後に、明治維新になって、北朝系譜の孝明天皇が暗殺され、南朝系譜を主張する大室寅之祐が明治天皇に就任したとき、真っ先に、楠木正成の銅像を皇居に建立したことは、南朝物語に占める楠木正成の巨大さを端的に物語っている。
その後も、皇国史観で知られる平泉澄らが、南朝正統論を前提に、日本史を改竄し、あたかも吉野朝廷が、事実上、日本国を支配していたかのような意図的な捏造知識が教えられ、これは敗戦まで続いた。
建武の新政において、後醍醐天皇が、公家と武士を統一して天皇中心の政治を始めるが、その政治は公家ばかりを重んじ、武士への恩賞も少なかったことで、武家からは強い不信感を抱かれることになった。
戦前の皇国史観、歴史教育を受けた人は、吉野朝がバラ色に描かれていたことで、ひどく誤解があったが、実際には、後醍醐は、ギリギリまで追い詰められていた。
また公家の間でも、後醍醐を擁する大覚寺統と持明院統の深い対立があり、後醍醐は安定した支持を得られなかったことに加え、決定打は足利一党の後醍醐への不信と離反で、これにより、わずか三年に満たず建武体制は崩壊することになる。
背景には、後醍醐が朝廷の貴族人脈だけに頼り、武家を見下すような差別意識があったことから、足利尊氏以下、本当の実力者たちの怒りをかったといわれる。
1336年、それでも後醍醐側についていた武家、楠木正成と新田義貞は、湊川の戦いで足利尊氏に戦いを挑み、事実上滅ぼされることになった。
このときも無能な公家を重用したことで、楠木正成は最初から死を覚悟していたと伝えられる。
同年、足利尊氏の指示により光明天皇が即位し、北朝初代天皇となる。
後醍醐は、比叡山にこもって足利と対立したが、やがて三種の神器も渡し、山を下りて、今度は吉野に逃げ込み、そこで南朝を宣言する。
ここに南北朝時代が始まるが、これは表向き1392年明徳の和約による南北統一宣言まで60年間続くことになった。
1338年、足利尊氏は京都にて室町幕府の成立を宣。1339年、後醍醐天皇死亡。
1336年、足利の庇護下における光明天皇即位から、1392年、南朝の後亀山天皇が皇位を北朝の後小松天皇に委譲するまでの60年間にわたる南北朝時代は終わったことになったが、実は、本当の南北朝抗争は、ここから始まるのである。
[後南朝の抗争]
南北朝合一が行われたが両統迭立の約束が守られることはなく持明院統の皇統が続いたため、南朝遺臣たちによる皇位回復を目指しての反抗が15世紀半ばまで続き、後南朝と呼ばれた。
1443年、南朝の遺臣や日野一族が御所に乱入し南朝皇族の通蔵主・金蔵主兄弟をかついで神璽・宝剣を一時奪還する禁闕の変が起きる。
神璽は後南朝に持ち去られたままになり、南朝側の勢力の証となった。
後南朝は、嘉吉の乱で滅亡した赤松氏の再興を目指す赤松遺臣によって、1457年に南朝後裔の自天王・忠義王なる兄弟が殺害され、神璽が奪還されることによって実質的に滅亡した。
後南朝が最後に史料に登場するのは、『勝山記』に1499年、伊豆国三島に流された「王」を、早雲入道が諌めて相模国に退去させたというものがあり、これが後南朝の史料上の終焉とされている。
こうして考えると、南北朝抗争は、1336年から1500年前まで、実に百数十年続いたことになり、この間、歴史の表舞台には現れない後醍醐の皇子たちによる、無数の記録が残されている。
太平記に出てくるのは、紀州の山奥で活躍した護良親王(1308~?)や、九州に向かった懐良親王(1329~)、遠州、南信の山奥で活躍した宗良親王(1331~?)で、さらに、その息子たちの世代でも驚くほど熾烈な戦闘記録が残されている。
天龍村の熊谷家伝記には、これらが詳細に語られている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%86%8A%E8%B0%B7%E5%AE%B6%E4%BC%9D%E8%A8%98
私の住む中津川市蛭川地区では、重要無形文化財となっている「杵振り祭」という華やかな祭りがあるが、この祭りの主題もまた、宗良の子である之良親王が足利方の探索隊に討ち取られ、その首級を高塚山に埋めたというもので、村内には、実際に高塚山の首塚が実在している。
実は、同じ内容の伝承が、宗良の活躍した、南信、遠州の広い地域で語り継がれているのである。
これは、もう30年近くも前に、私が遠州京丸山を調べたときに書いたもの。
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-95.html
宗良は、後醍醐の第二子とか第四子とか、さまざまな説があるが、長命で、三河から南信を拠点として、足利方(主には今川氏)と争い、たくさんの伝承を残している。
例えば、鹿塩周辺にある「御所」のついた地名は、宗良の所在を示したものである。
そして、戦記でいえば、熊谷家伝記にも書かれているとおり、宗良の子であった之良=尹良=由機良 の記録が多い。
尹良は、応永年間に足利方に殺され、首を刎ねられたが取り返し、それを高塚山に埋めて、守護し続けているという伝承は、蛭川だけでなく、京丸や山向こうの尾呂久保、飯田市など、たくさん存在している。
いずれも、旧東山道に関係した地域であることが特徴で、宗良の活動が東山道付近で行われてきたことを意味している。
この地域の民衆の信仰、伝説として、宗良伝承は、とても大切にされていて、現在にまで祭祀が残されているということこそ、南北朝戦争が、800年後の今でも息づいているということのなのである。
最後に、楠木正成によって殺された?? 孝明天皇は、亡霊化して夜な夜な皇居に現れ、ニセの睦仁の枕元に立って明治天皇を怯えさせ続けた。
中川宮(青蓮院宮)の日記によれば、明治天皇の枕元に「鐘馗ノカタチノヨウニ」現れ、明治天皇は恐怖して、泣きじゃくったと書かれている。
http://www.marino.ne.jp/~rendaico/rekishi/bakumatuootyokotaico/komeitennoansatuco.html
孝明天皇の亡霊を、どうやって追い出すかが、東京遷都の最初の仕事になった。
高野山の行者を呼んで、加持祈祷による怨霊退散を試みたが効果がなく、陰陽師を呼んで鎮魂に当たらせたとか、さまざまな記録が残されている。