今年4月28日、2年5か月ぶりとなるファン待望の新刊が発売された、あずまきよひこの大ヒット作品『よつばと!』。
この漫画はメディアではよく、
5歳の女の子”よつば”の視点から、周囲の人達との日常を描いた作品
と紹介されていますが、これが大きな勘違い。
作中ではよつばの視点から描かれた事はありませんし、よくある日常系の作品とも異なります。
今回は、『よつばと!』の作中で見られる客体視の構造について解説していきます。
”よつば”と客体視
『よつばと!』は三人称視点から描かれている
『よつばと!』は主人公の”よつば”の視点からではなく、三人称視点から描かれます。
11巻の第70話、うどん屋さんのエピソードで説明すると、
11巻6ページの1コマ・2コマ目は、うどん屋さんがうどんを捏ねている所を、よつばが居る方向から見ていると思いきや、実は視点の高さが異なります。
よつばの身長は107㎝です。
8ページの1コマ・2コマ・3コマ目がよつばと同じ高さの視点(よつばの頭が描かれているのでこれも三人称視点)となりますが、この位置からだと、机の上で何をやっているか遠目では分からない。
だから近くに寄ってうどんを捏ねる様子を覗き見たくなったんですね。
漫画では、一人称視点(主観ショット)で描かれるコマの事を「同一化」と呼びますが、『よつばと!』では、よつばの視点と同一化したコマがほぼ皆無であり、殆ど全てが三人称視点から、客体的に描かれているのです。
より分かりやすいのが12巻222ページの2コマ目。
よつばの近くに居る”とーちゃん(小岩井葉介)”に向けられたと思しき台詞が、まるで読者に話しかけているかのように思わせる、作中でも珍しい、二人称視点から描かれたコマです。
それまで三人称で描かれていた視点が、大人の視点と完全に同一化して二人称となり、キャンプ場でのエピソードに自分も参加していたと錯覚させるほどの高い効果を、たった1コマで生み出しています。
『よつばと!』のこういった客体視からの描写には、アメリカの美術評論家マイケル・フリードが言う、モダニズム芸術の表現法が見て取れます。
1巻の222ページで、
あいつは何でも楽しめるからな
よつばは無敵だ引用:『よつばと!』1巻 222頁
と、とーちゃんの視点が読者の視点と重なる描写があり、突然の雨に大はしゃぎして楽しむよつばが映し出されていますよね。
モダニズム(Modernism)とは、マネの絵画『オランピア』のように、裸婦が描かれていながらマネはエロ目線で見ていないと分かる、美しさの一点のみに成否を賭けて創作された、芸術を至上とする作品群を指します。
文学では、川端康成の『伊豆の踊子』がモダニズムの代表作です。
踊子の”薫”が女湯から身を乗り出し、無邪気に手を振る様子を見た”私”がことこと笑う、第三章の有名なシーンに、川端が追求する美が端的に表されています。
引用元:Comee.net
きょうもいちにち たのしかった…
引用:『よつばと!』13巻 222頁
マネと川端に共通するのは、
わざとらしい演出(演劇性)がどこにも介在しない、
「客体」の視点(Object view)であり、『よつばと!』に用いられる三人称視点はこれと全く同じものです。
よつばは自分の世界に没入し、読者に「楽しさ」を押し付ける事なく動いています。
大人の視点から見ればありふれた日常ですが、よつばの手に掛かれば、退屈する事のないワンダーランドに変わります。
読者の視点がそこに重なる時、よつばが体験している没入感を感じる事が出来ます。
楽しさの一点のみに成否を賭けて描かれた日常の中に、読者が勝手に出入りし、「今回も楽しかった」と感じて帰っていくのです。
引用元:Comee.net
同じく幼い女の子が主人公の『銀のニーナ』では、”ニーナ”と読者の間に叔父の”修太郎”が入り込み、修太郎の視点を通じてニーナの日常が描かれますが、『よつばと!』は、こうした日常系の漫画とも一線を画します。
作中の登場人物がオチをつけ、楽しさを理解させる工夫が凝らしてある作品は、フリードの言葉を借りるなら「直写」であり、客体視とは異なるもの。
川端作品の『掌の小説』30編目・夏の靴に出てくる女の子が、よつばに最も近い存在ではないでしょうか。
『よつばと!』の客体視が生み出すのは、読者の能動的な楽しみ方です。
モダニズム文学の楽しみ方そのものである、と言い換える事が出来るでしょう。
客体視と「萌え」の関係
さて、作者・あずまきよひこが、マネや川端康成らモダニズムの巨匠ににじり寄る技術を、いったいどこで習得したというのか。
コアなファンの方には周知のはず。
この作者、最初はエロ目線で漫画を描いていたのです。
・「序ノ口譲二」の名義で刊行されたR18指定作品
・『スーパーリアル麻雀』などサービスシーンを含むゲームのアンソロジー
・『天地無用!』などサービスシーンを含むOVAの紹介漫画
など、あずまきよひこの作家活動はエロを出発点にしており、出世作となった1999年の『あずまんが大王』の初期の頃の絵柄には、『天地無用!』他、90年代の美少女アニメ作品の名残が感じられます。
引用元:Comee.net
『あずまんが大王』をいわゆる「萌え」のはしりとするのも、ちょうどこの時期、『同級生』や『To Heart』などのR18指定ゲームが、家庭用ゲームへの移植やテレビアニメ化に伴い、エロを排除したのと深い関係があります。
当時、エロを出発点とする漫画家は、もれなく表現の規制を受けました。
その結果、美少女を魅力的に描く作画技術だけが継承され、エロ目線から離れた表現が磨かれていき、急速に発展していきます。
あずまきよひこも、
エロを排除した表現、
すなわち客体視を
いち早く取り入れた1人であり、『あずまんが大王』は美少女アニメの影響を受けた作画技術を用いて一般化に成功した作品、という訳です。
引用:Wikipedia『いまいち萌えない娘』より
客体視と「萌え」の関係は、2011年1月14日に神戸新聞社が募集した広告のキャラクターによって明らかにされます。
通称「いまいち萌えない娘」と呼ばれるそのキャラは、評論家の東浩紀が提唱した、ツインテール、セーラー服、ニーソックス、ぺたん座りなどの視覚的記号(萌え要素)を完備しながら、「萌え」が成立していない、データベース消費を覆す例に挙げられ、
萌え要素…エロ目線による主体視
作画技術…エロ目線から離れた客体視
主体視と客体視の両方が初めて議論されました。
「萌え」を成立させるには、萌え要素以外にも、確かな技術に裏打ちされた作画の美しさによる喚起が必要である事がはっきりしたのです。
これをドイツの哲学者・ヘーゲルの弁証法を用いて説明すると、
(ヘーゲルの弁証法より)
「萌え要素」という主観が、客観的な美に照らし合わされ、主客の合一を果たした時に「萌え」が生まれる、と表す事が出来ます。
「萌え」とはすなわち、読者にサービスシーンを提供する目的で用いられていた美少女を描く作画技術を、表現規制を免れる為に一般化させた、エロ目線を克服した表現法であると言えます。
『あずまんが大王』は、「萌え」を押し付けてはいません。
東京を舞台にしたとある高校の中に、読者が勝手に出入りし、各々が「萌え」を感じて帰っていくだけです。
『よつばと!』に見られた、わざとらしい演出を排除した反演劇性は、既にこの頃から培われており(オチはまだ自分で付けていますが)、まさかこれがマネや川端にも共通する客体視に繋がっていくとは、作者自身も思いもよらぬ事だったでしょう。
川端康成を「萌え」の起源と評する人も居るぐらいですから、客体視と「萌え」は元から似通った部分があったのかも知れません。
ポスト「萌え」の先駆者・あずまきよひこ
『よつばと!』は、作者が出発点としたエロ目線を完全に切り離し、「萌え」からも脱却した、ポスト「萌え」とでも呼ぶべき作品です。
よつばが自分の世界に没入し、周囲の大人もそれを絶対に邪魔をしない。
読者がよつばの世界にすんなりと入り込める客体視の構造が、この漫画にはあります。
第10回文化庁メディア芸術祭のマンガ部門で優秀賞に選ばれたのも納得の出来なのですが、我が国・日本はポスト「萌え」の先駆者である漫画家を表彰する一方で、表現規制の網にかけて前途を閉ざそうとしていた事も忘れてはなりません。
引用元:Comee.net
現在でも、稀見理都によるエロ漫画の研究書『エロマンガ表現史』が、北海道で有害図書に指定されるなど、おいおいそりゃねーよと言いたくなる事案が発生しています。
筆者は声を大にして言いたい。
あずまきよひこの例を一つとっても、R18指定作品を描いていた漫画家が、文部科学省に日本を代表する作家として認められる事もあるのだと。
昨日まで卓球部のギャグ漫画を描いていた作者が、別の日にはシリアスな人間関係を描いて映画化されたり、少年誌でロケットのごとく突き抜けた(10週打ち切りをくらった)作者が、青年誌でワインソムリエの活躍を描いてヒットさせたりと、漫画媒体の多様性を示す例は頻繁にあります。
何が飛び出すか分からない所に、漫画の面白さがある訳です。
漫画家・あずまきよひこが、4コマ漫画からストーリー漫画に挑戦して15年目、今なお表現を追求し、作画技術は年々向上しています。
果たしてどこまで成長していくのか、本当に川端康成になってしまうのか。
いつか漫画家が小説家を追い抜く時に、この作者が巨匠の1人として数えられるのではないかと、願望を込めながらそう思っております。
まとめ
『よつばと!』と視点のお話、いかがでしたか?
筆者は客体視の構造を人に話す際、必ず『よつばと!』を使って説明します。
身長107cmの子供の視点からではない、大人の視点から見た世界が描かれているにも関わらず、こんなにも楽しい毎日に変化するのは、やはり作者がそれを意識し、丹念に描いているからでしょう。
読者の皆様も、この漫画に用いられている凄い技術に気付けば、きっと新しい楽しみ方を発見できると思います。