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2018年4月 8日 (日)

「首都高をオリンピックに間に合わせるためには『空中作戦だ』」のアンビリバボーを検証してみる

 フジテレビの「奇跡体験!アンビリバボー」の2018年1月4日の放送で、「東京オリンピックをつくった男たちSP 首都高建設に挑んだ男たち」という題名で首都高速道路を東京オリンピックに向けて建設していく取り組みが放送されていた。

http://www.fujitv.co.jp/unb/contents/180104_2.html

魚拓https://megalodon.jp/2018-0317-1753-33/www.fujitv.co.jp/unb/contents/180104_2.html

 その中で気になる点が幾つかあったので検証してみたい。

 東京オリンピック開催のニュースが駆け巡った直後、東京都庁・都市計画部の職員たちは、青ざめていた。 戦後の目覚ましい復興とともに東京には車が溢れていた。 毎年、3万台近くのペースで増加、都心の道路は、至るところで大渋滞が発生していた。 そこでオリンピック開催が決まる6年前、政府は慢性的な渋滞を解消するため、総延長およそ49kmに及ぶ高速道路を張り巡らせる計画を立案。 東京都と建設省に実行するよう勧告を行った。

首都高速道路と東京オリンピックと空中作戦 (1)

 しかし、用地買収に難航し、計画は一向に進んでいなかった。

首都高速道路と東京オリンピックと空中作戦 (7)

そんな中、オリンピック開催が決定したのだ。 東京でオリンピックをやるとなれば、当然、開催期間中は世界中から選手や観光客が訪れる。 その数、実に4万人以上。 もちろん多くの日本国民も会場を訪れる。 連日、大渋滞が起きている東京にそれだけの人が1度に詰め掛ければ、都心の交通網は破綻。 オリンピックが失敗に終わるのは目に見えていた。

首都高速道路と東京オリンピックと空中作戦 (8)

 国民の悲願である東京オリンピックを絶対に成功させる…そのためには、高速道路を必ず完成させなければならかった。 しかし、実際問題、用地買収は一向に進んでいない。 計画は到底不可能に思えた。

 だが…既存の道路や川の上に道路を造れば、用地を買収しなくて済む。 この時、建てられた計画…『空中作戦』!それは、日本初の試みだった。

首都高速道路と東京オリンピックと空中作戦 (9)

首都高速道路と東京オリンピックと空中作戦 (10)

首都高速道路と東京オリンピックと空中作戦 (13)

首都高速道路と東京オリンピックと空中作戦 (14)

http://www.fujitv.co.jp/unb/contents/180104_2.htmlから引用

 テレビの粗筋はこんなところである。

 ・既存の高速道路計画は用地買収が難航して進んでいなかった

 ・そこに東京オリンピックが決まったが、これでは観客輸送が行き詰まる

 ・それを打破するために空中に首都高速道路を作ることにしてオリンピックに間に合わせようとした。

 ・これが「空中作戦」だ!

 

 果たしてそうなのか、検証してみよう。

-----------------------------

・「既存の高速道路計画は用地買収が難航して進んでいなかった」のか?

首都高速道路と東京オリンピックと空中作戦 (1)

 1958年に立案された首都高速道路の計画路線はこれである。

首都高速道路と東京オリンピックと空中作戦 (2)

首都高速道路と東京オリンピックと空中作戦 (3)

出典「首都高速道路建設に関する計画」東京都都民室首都建設部 1953年3月

 この道路は果たして用地買収に難航していたのか?

 アンビリバボーのいうとおりであれば、この道路網が事業化され、用地買収の予算もついて動き出していなければならない。公団もまだできていないのに?

 また、都内高速道路網計画については、首都建設委員会告示第12号によって5路線49粁の路線網が決定されているが、具体的実現方策について検討した結果、概ね8路線62.5粁の路線網を決定している。

 

「首都圏における地下高速鉄道と都内高速道路との総合的考察」 月刊「道路」1957年11月号 石塚久司(首都圏整備委員会事務局計画第二部長)著

 用地買収が難航したから計画が変更されたのではなく、「具体的実現方策について検討した結果」今の首都高速道路路線網に決定されたというのだ。そして変更結果がこの路線である。

首都高速道路と東京オリンピックと空中作戦 (4)

首都高速道路と東京オリンピックと空中作戦 (5)

 作成時期は、1957(昭和32)年12月、オリンピック開催が決まったのは、1959(昭和34)年4月であるから約1年半前となる。その割には、今の路線網とほとんど同じではないか?(箱崎ジャンクションが無いなど微妙に異なる)

 アンビリバボーでは、オリンピック決定後に首都高速道路公団が設立(6月)され、更にその後に首都高速道路の最初の都市計画が決定した(8月)としているのにどうしたことか。

首都高速道路と東京オリンピックと空中作戦 (15)

 確かに都市計画決定はオリンピック開催決定後の1959年8月だが、その原案は既に1957(昭和32)年12月に決まっていたのである。

 更に付言するなら、河川や道路の上を活用する方針は、1957(昭和32)年7月に決定していたのである。

 もうちょっと細かく説明するとこんな感じ。

(2)東京都建設局都市計画部案の策定

 首都建設委員会が、首都高速道路の新設について1953(昭和28)年4月建設省と東京都に勧告したのを受けて、東京都は独自の考えで高速道路の計画案の策定を進めた。 とりわけ、1955(昭和30)年12月 、東京都建設局都市計画部長に就任した山田正男は、様々な観点から精力的に職員を督励しながら東京都建設局都市計画部案の検討を したのである

(略)

(3)建設省の基本方針

 建設省は1957(昭和32)年7月20日 、「東京都市計画都市高速道路に関する基本方針」を決定した。これは、 かねてより東京における高速道路の必要性を重視していた建設省が、上記(2)で述 べた首都建設委員会の勧告を受けてまとめた東京都の原案をもとに、同委員会(当時は首都圏整備委員会に変わっている)と協議の上、作成したものである。

(略)

(4)東京都市計画高速道路調査特別委員会の設置

 建設省の基本方針が決定されてから半月後の同年8月5日、東京都市計画地方審議会は、高速道路の建設は急施を要する として、首都高速道路網計画の調査立案のため、同審議会の中に東京都市計画高速道路調査特別委員会を設置した。

(略)

 そして12月9日開催された東京都市計画地方審議会において会長東京都知事安井誠一郎に対し、東京都市計画高速道路調査特別委員会委員長金子源一郎は調査結果について報告をした。 これによって、東京都市計画都市高速道路網計画案が決定されるに至ったのである。

 

「東京の高速道路計画の成立経緯」堀江 興 https://www.jstage.jst.go.jp/article/journalip1984/13/0/13_0_1/_article/-char/ja

 河川や道路の上を活用する方針が、1957(昭和32)年7月に決定していたというのは下記の通りである。

首都高が河川を活用することはオリンピック決定よりずっと前に決定

 東京都の「東京都市高速道路の建設について」から引用。詳しくはhttp://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2016/11/post-c06b.html

オリンピックに関係なく首都高は川の上だった

 1957(昭和32)年9月29日付の読売新聞は、上記のように「都内に高架道路の網」「川の上や二階建」と報じている。

首都高速道路と東京オリンピックと空中作戦 (12)

 このシーンは、オリンピック開催決定後に演じられたのではないのだ。決定の1年半前なのだ。

首都高速道路と東京オリンピックと空中作戦 (14)

 この映像とは逆に「オリンピックに間に合わせること」と「空中に道路を架けること」とは全く別の問題であった。

 この眼鏡のおっさんは番組では「部長」と呼ばれていたことから、東京都の山田正男部長ではないかと推測される。

山田正男

 山田正男は実際にはこんな風に語っている。

首都高速道路と東京オリンピックと空中作戦

対談「東京都における都市計画の夢と現実」 「時の流れ都市の流れ」403頁

 ということで、「用地買収に難航していた首都高速道路を、オリンピックに間に合わせるために河川等の上に作るように変更した」というのは嘘確定。

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首都高速道路と東京オリンピックと空中作戦 (11)

 では、山田正男は(時期は違うとしても)首都高速を河川等の上に架けることを「空中作戦」と本当に呼んでいたのだろうか?

首都高速道路と東京オリンピックと空中作戦 (13)

 「言ったことになっているけれども実際には言ってないんじゃないか」というのを調べるのは非常に困難だ。

 とりあえず、オフィシャルなものを当たってみる。

 ・「首都高速道路公団20年史」(山田氏を含めた対談「公団20年のあゆみとその展望」あり)→空中作戦なし

 ・山田正男の著書「時の流れ都市の流れ」「変革期の都市計画」→空中作戦なし

 ・山田正男のオーラルヒストリー「東京の都市計画に携わって : 元東京都首都整備局長・山田正男氏に聞く 」→空中作戦なし

 ・「21世紀の首都圏を考える ―そのかぎは道路づくりに―」(山田氏を含めた対談)「高速道路と自動車」1983年3月号→空中作戦なし

 ・建設時の首都高速道路公団の広報誌「首都高速」→空中作戦なし

 ・「オリンピックと山田正男」塚田博康・著(「シリーズ東京を考える 3 都庁のしくみ」都市出版・刊)→空中作戦なし

 どこにも「空中作戦」などという言葉は出てこない。

 当時の土木関係業界誌等に発表された首都高速関係の報文(末尾に記載)を見ても出てこない。

 

 ところがある時期以降「空中作戦」という言葉が出てくることが分かった。

 それは、NHKの「プロジェクトX」である。その名も「首都高速 東京五輪への空中作戦」(2005年4月5日放送)http://www.nhk-ep.com/products/detail/h16460AA

 オリンピック開催まで、期間はわずか5年。羽田空港から代々木までの限られた路線とはいえ、その間にビルがひしめく東京で、用地を買収して道路をつくることなどできるはずもない。これは「大パニック」になる。

(中略)

 そのときだった。悩む大崎たちのもとに、一人の男が現れた。都市計画部長の山田正男。とんでもないアイデアを出した。

「”空中作戦”はどうか」

 いままでにある道路の上や、街なかを流れる河川に沿って、その上に高架橋の道路をつくれば、用地買収の手間が一気に省ける。5年間の短い期間でも、渋滞が解消できるという前代未聞の作戦だった。

 

「プロジェクトX 挑戦者たち 28 次代への胎動」日本放送出版協会 74~75頁

 プロジェクトXでは、オリンピック開催決定後に山田正男が「”空中作戦”はどうか」と提案したことになっている

 既に述べたように、オリンピック以前に道路や河川の上に首都高速を作ることは決定されていたのでこれは眉唾である。フジテレビは、NHKの眉唾をコピペして番組を作ったのだろうか?

 この後に「空中作戦」を持ち出したのは、自称「首都高研究家」の清水草一氏である。

 首都高の建設ぶりを、世間は「空中作戦」と呼んだ。川や道路という公共用地の上の、文字通り「空中」に、みるみる高速道路ができていったからだ。しかし山田の空中作戦は、オリンピックに間に合わせるために急遽編み出したわけではなく、当初からの慧眼が、たまたまオリンピックという最高の舞台を得ただけだった。

 

「首都高速の謎」扶桑社・刊 清水草一・著  2011年 50~51頁

 清水草一氏によると「空中作戦」は山田正男が言ったのではなく、「世間が呼んだ」ということになっている。

 では、当方も関係者の書籍ではなく、世間が呼んだことの証跡を得るために、新聞を調べてみた。

 朝日新聞、毎日新聞、読売新聞、日本経済新聞を各オンラインデータベースで検索したが「空中作戦」では一つもヒットしなかった。また、国会図書館のデジタルアーカイブでも検索したが「空中作戦」では一つもヒットしない。

 東京オリンピックの舞台裏を描いた塩田潮氏のルポルタージュ「東京は燃えたか」にも出てこない。

 清水草一氏の言う「世間」はどの辺に証跡があるのだろうか。

 

 この後になってくると首都高の公式文書等でも「空中作戦」の言葉が見えてくる。

 工期短縮の特効薬となり、建物密集市街地対策にも適した工法として打ち出されたのが、高架を多用する「空中作戦」やトンネル利用の「地中作戦」だった。いずれも、用地買収などの苦労や工事費を減らせるメリットがあった。

 

「首都高物語: 都市の道路に夢を託した技術者たち」青草書房・刊 首都高速道路協会・著 2013年 96頁

首都高速道路と東京オリンピックと空中作戦 (23)

 江戸橋ジャンクションは、空中作戦といって橋梁では初めて「立体ラーメン構造」を採用し、橋脚本数を劇的に減らした。

 

「首都高速道路50年の歩み」橋本鋼太郎(土木学会顧問、元首都高速道路株式会社社長) 「東海道新幹線と首都高 1964東京オリンピックに始まる50年の軌跡」土木学会・刊 2014年 47頁

 この瞬間、「空中作戦」は土木学会と首都高速の公認の歴史となっちゃったのである。きっと私の調べが足りないどこかに「空中作戦」を証する根拠があるのだろう。

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 ところで、「空中作戦」という用語を使っている書籍がもう一つある。

東京の都市計画家 高山 英華」鹿島出版会 東秀紀 2010年

 山田の主張によって、首都高速道路公団が設けられ、一号線(羽田・中央区本町間)、四号線(日本橋本石町・代々木初台間)を中心とする約三十二キロの建設がオリンピック関連事業として建設されることになった。

「オリンピックまで、あとわずか五年しかない。果たして間に合いますか」

 国会に呼ばれて、そう議員から質問をされたとき、山田は傲然と答えた。

「絶対に間に合わせてみせます。見ていてください」

 山田には腹案があった。時間がないから、地権者たちの反対、土地買収などにかかわっている暇はない。だから、地権者たちに文句を言わせない方法をとる。

空中作戦だ

 日ごろ冗談一つ言わない上司の不可解な言葉に、部下たちは目を白黒させる。

「俺の言っている意味が分からないのか」

 山田はわざとうんざりして言った。皆の戸惑いが、実のところ、いまは心地よい。

「既設の道路、運河の上を通せ。下は公共の土地だから、誰も文句はいえないよ」

「果たして、そんなことができますか。実例は海外にありますか」

「じゃあ、君たちはどうしたらオリンピックに間に合わせられるんだ」

 大声で怒鳴ると、部下たちは従うしかなかった。部下だけではなく、安井の後任である東龍太郎都知事も、そして「影の知事」といわれ、実際の都政を仕切っている鈴木俊義副知事も少し首を傾げはしたものの了承した。

 こうして「空中作戦」は実行された。高速道路はまるで鉄でできた大蛇のように、東京の都心をのたうち回り、時には三回も四回も交差しながら、ビルの間を通り抜けた。

 生きた河川や由緒ある日本橋の上を高速道路が屋根のように通る形になったのも、この時である。

 

「東京の都市計画家 高山 英華」東秀紀 253~254頁

 とても臨場感あふれる記述である。しかし、これには出典が明記されていない。この本は巻末に参考文献という形でまとめられているのだが、個別に脚注がついているわけではないので容易に証跡をあたることができないのである。

 ところが、時系列で考えると、どう見てもこの東秀紀氏の記述はおかしい。

 改めて整理してみよう。

1953(昭和28)年4月28日 首都建設委員会が高速道路網の新設を建設省及び東京都に対して勧告。

1957(昭和32)年7月20日 建設省が「東京都市計画都市高速道路に関する基本方針」を決定。経過地の選定に不利用地、河川、運河等を利用することを定めた。

1957(昭和32)年8月5日 東京都市計画地方審議会に、高速道路調査特別委員会を設置。東京都が作成した街路、河川等を利用した首都高の原案の審議検討を開始。

1957(昭和32)年12月9日 東京都市計画高速道路調査特別委員会が、東京都市計画地方審議会長 安井誠一郎(東京都知事)あてに東京都市高速道路網計画を報告。

1958(昭和33)年1月22日 東京オリンピック準備委員会・設立準備委員会及び第1回総会開催。

1958(昭和33)年4月 国会でオリンピック東京招致決議案を可決(衆議院15日、参議院16日)

1958(昭和33)年12月5日 建設大臣が、東京都市計画街路に都市高速道路を追加決定するための案件を東京都市計画地方審議会に付議。

1958(昭和33)年12月10日 東京都市計画地方審議会が一部を留保して原案どおり議決。

1959(昭和34)年1月30日 首都高速道路公団法が閣議決定され国会へ提出。

1959(昭和34)年2月25日 日本道路公団が西戸越~汐留間の工事に着手。(後に首都高に移管)

1959(昭和34)年4月8日 首都高速道路公団法成立(同14日公布・施行)

1959(昭和34)年4月23日 安井誠一郎都知事の後任に東竜太郎氏(IOC委員)が当選。

1959(昭和34)年5月26日 東京オリンピック開催決定

1959(昭和34)年6月12日 鈴木俊一氏(前・内閣官房副長官)が東京都副知事(オリンピック担当)に就任。 

1959(昭和34)年6月17日 首都高速道路公団発足

1959(昭和34)年8月7日 東京都市計画地方審議会で保留部分につき原案どおり議決。

 本稿で何度も申し上げているように、東京都などが首都高速道路について河川等を利用した路線網を計画したのは、東京オリンピック招致決定前である。また首都高速道路公団法が成立したのは東京オリンピック開催決定前である。そして東竜太郎氏が都知事に、鈴木俊一氏が副知事に就任したのはその後である。

 一般的には、1959(昭和34)年4月にオリンピック開催決定→6月に公団発足→8月に都市計画決定という流れで語られるため、それを基に東秀紀氏の「東京の都市計画家 高山 英華」を読んでいると「ふーーん」と読み過ごしてしまうところだが、まともに都市計画の歴史をおっていくと、(「空中作戦」と言ったかどうかは別にして)、オリンピック決定後に東竜太郎知事や鈴木俊一副知事が首都高速道路網について意思決定を下す場面は出てこないはずである。(前任の安井知事時代に殆ど手続き済みであった。首都公団の設立にしても都市計画の最終的な決定にしても全て安井知事時代のレールに乗ったものである。)

 更に、東秀紀氏は「少し首を傾げはしたものの了承した」と書くが、これは東知事や鈴木副知事が「空中作戦」について不本意であったようなことをうかがわせるものだが、東知事の前職はIOC委員、鈴木副知事の前職は官房副長官であり、首都高速計画について知らなかったわけでもなかろう。いやむしろ熟知しているはずである。東秀紀氏は、何を根拠にしてこのくだりを書いたのか是非ご教示いただきたいものである。

 東秀紀氏は、鈴木俊一副知事の名前を「俊義」と書くような人(単なる誤植ではなくわざわざ「としよし」とフリガナをふっている。)だから、東京都の都市計画の歴史についてはよく分かっていない人なので、首都高速道路の経緯とオリンピックの経緯についてはよく整理できてないのは仕方がないし、そもそも知識がない可能性もあるのだが、上記の年表は、「東京の都市計画家 高山 英華」の379頁に参考文献としてあげられている堀江興氏の「東京の幹線道路に関する史的研究」の235~251頁の記述を基にして作成したものである。知らないはずがない。(参考文献にあげただけで読んでいない可能性は否定できないが。)

 他にも気になる記述がある。

 山田には腹案があった。時間がないから、地権者たちの反対、土地買収などにかかわっている暇はない。だから、地権者たちに文句を言わせない方法をとる。

「空中作戦だ」

 

「東京の都市計画家 高山 英華」東秀紀 253頁

 「かかわっている暇はない」「文句を言わせない」こんな高圧的なことを山田正男は言っていたのだろうか?今回調べた文献ではそんな不遜な言葉は見つけられなかった。(山田氏自身は不遜なんだろうなという記述は幾つもあったがw)

 参考までに、東京オリンピック開催決定前の国会での審議(1958(昭和33)年4月10日衆議院建設委員会)http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/028/0120/02804100120023a.html)での関連する答弁を見てみよう。

○藤本参考人 経過地に当っては不利用地、治水、利水上の支障のない河川、または運河を使用して、やむを得ざる場合だけが幅員40mの道路に設置する、建前としては道路上には設置しないように(略)

 物件移転費という欄の一番下の欄をごらんいただきますと、878という数字が出ております。これは移転棟数の合計でございます。これだけの事業をいたしますのに、移転棟数がともかく千棟以下であるという点については、やはりできるだけ民有地あるいは民家というような面において御迷惑を少くするという配慮をいたした一つの現われだと存ずるのであります。

 藤本勝満露東京都建設局長の答弁は「文句を言わせない」という態度ではないと思われるが如何であろうか。

首都高研究家清水草一の日本橋関連の嘘

 あれ?オリンピック開催決定前に河川を利用した首都高計画に地元が文句を言っているぞ?おかしいですね。東秀紀センセ。

 

 他にも判然としない記述がある。

「オリンピックまで、あとわずか五年しかない。果たして間に合いますか」

 国会に呼ばれて、そう議員から質問をされたとき、山田は傲然と答えた。

「絶対に間に合わせてみせます。見ていてください」

 

「東京の都市計画家 高山 英華」東秀紀 253頁

果たしてそのような答弁がなされているのか?

 国会議事録http://kokkai.ndl.go.jp/で山田正男が答弁している部分を検索してみる。

山田正男の国会答弁

 「あとわずか5年しかない」というだけあって、該当する会議は、昭和34年8月10日の衆議院建設委員会であろう。

 その議事録は、http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/032/0120/03208100120004a.htmlである。

 皆さん「絶対に間に合わせてみせます。見ていてください」もしくは、それに類する発言は読み取ることができたであろうか?「傲然」な態度は読み取れただろうか?どうやら私の読解力では無理であるようだ。

 

「既設の道路、運河の上を通せ。下は公共の土地だから、誰も文句はいえないよ」

「果たして、そんなことができますか。実例は海外にありますか」

 

「東京の都市計画家 高山 英華」東秀紀 253頁

 海外の事例については、「欧米の高速道路と首都高速道路」西畑正倫 「新都市」15巻3号や「東京都の都市交通と首都高速道路」西畑正倫「高速道路」1960年3月号によると、アメリカはボストンのCentral Arteryや、サンフランシスコのEmbarcadero Freeway等を研究していたようだ。

 下記は、当時の業界誌に掲載されたボストン市内の高架道路の様子である。首都高っぽい。

首都高速道路と東京オリンピックと空中作戦 (24)

 東京都立図書館では、当時の首都高速道路公団担当者が研究したと思われる海外の都市の報告書が閲覧できるのでご関心のある方は是非。

 

 東秀紀氏は当時首都大勤務で東京都の生データも見ることができる立場だったと思われるのだがこれはどうしたことか。おまけに、都市計画史が専門と自称しているではないか。

 また、出版元も鹿島出版会ということで、編集者もそれなりの方がいらっしゃると思うのだがどうなんだろう。

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(追記)

 この記事をUPした翌日に注文していた本が届いた。

「私の都市計画生活 -喜寿を迎えて-」山海堂 鈴木信太郎・著

 鈴木信太郎氏は、元東京都都市計画局技監で、山田正男と一緒に東京都で仕事をしてきた方である。 山田正男と共著で「東京都市計画都市高速道路計画の計画諸要素について 」を土木学会誌1960(昭和35)年8月号に発表しているというこの問題を語るにふさわしい方である。

 そこに東京オリンピックと首都高の関係について明快に書いてあった。(35頁)

首都高速道路と東京オリンピックと空中作戦 (25)

 文中、「山田さんの発言もあったように」とは下記のこと。(27頁)

首都高速道路と東京オリンピックと空中作戦 (26)

 「東京の都市計画家 高山 英華」の参考文献にこの本はあげられていない。

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(参考文献:順不同→いずれも「空中作戦」という記述はない

首都高速道路事業のあらまし

伸びゆく首都高速道路

「東京都市計画都市高速道路網計画」岩出進 「新都市」 12巻6号

「東京の都市高速道路の其後」岩出進 「新都市」13巻2号

「東京都市高速道路のあれこれ」 「新都市」 13巻6号

「首都高速道路公団の使命」神崎丈二 「新都市」 15巻3号

「首都高速道路公団の歩み」美馬郁夫 同上

「欧米の高速道路と首都高速道路」西畑正倫 同上

「首都高速道路の実施に関連する問題点」五十嵐醇三 同上

「首都高速道路の構造について」矢内保夫 同上

「首都高速道路工事の進捗状況」細貝元次郎 同上

「首都高速道路の将来」河野正三 同上

「首都高速道路の用地の諸問題」大塩洋一郎 同上

「オリンピック関連街路の建設とさらに続ける”道造り”」石井興良 「新都市」 18巻9号

「首都高速1・4号線(オリンピック関連)の完成まで」広瀬可一・菊田聰裕 同上

「オリンピックと天皇賜杯の感激に寄せて(三宅坂インターチェンジの工事概要」尾崎一宣 同上

「オリンピック東京大会と道路交通」広川楡吉 同上

「都市における高速道路計画に就て」町田保 「道路」1954年1月号

「首都圏における地下高速鉄道と都内高速道路との総合的考察」石塚久司 「道路」1957年11月号 

「東京における交通問題解決の現段階」山田 正男、鈴木信太郎 「道路」1957年11月号

「東京の都市高速道路計画;首都高速道路公団の発足」小林忠雄 「道路」1959年4月号

「日本橋及び江戸橋周辺の高速道路について」西野祐治郎、前田邦夫 「道路」1961年6月号

「首都高速道路のインターチェンジの線形計画について」 「土木技術」17巻2号、3号、4号、5号

「首都高速道路の計画」大塚全一 「高速道路」1959年3月号

「東京都の都市交通と首都高速道路」西畑正倫「高速道路」1960年3月号

「首都高速道路の技術上の諸問題(1)」村山幸雄、菊田聰裕「高速道路」1960年5月号

「首都高速道路の技術上の諸問題(2)」橘高元「高速道路」1960年6月号

「首都高速1・4号線の開通に当って」西畑正倫「高速道路と自動車」1964年9月号

「思い出すままに」中島武 同上

「開発と保存の調整された首都高速1号・4号」五十嵐醇三 同上

「首都高速道路の生いたちとこれから」村山幸雄 同上

「首都高速1・4号線の概要」黒木清和 同上

「首都高速道路以前の構想をめぐって」新谷洋二 「高速道路と自動車」1979年7月号

「首都高速道路の路線計画に関する史的研究(前編)」新谷洋二 「高速道路と自動車」1980年1月号

「首都高速道路の路線計画に関する史的研究(後編)」新谷洋二 「高速道路と自動車」1980年3月号

「首都高速道路」鈴木信太郎 「土木学会誌」1988年6月号

「首都高速道路の設計および施工概要」 「土木技術」22巻4号

「首都高速道路のインターチェンジ」 同上

「首都高速道路建設に関する計画」東京都都民室首都建設部 1953年3月

「オリンピックと山田正男」塚田博康 「シリーズ東京を考える 3都庁のしくみ」都市出版・刊

「道路網の整備」堀江興 「シリーズ東京を考える 5都市を創る」都市出版・刊

「東京の都市計画」大崎本一 鹿島出版会・刊

「回想・地方自治五十年」鈴木俊一 ぎょうせい・刊

「未完の東京計画」石田頼房編 筑摩書房

「東京都市計画物語」越沢明 日本経済評論社・刊

「日本の首都 江戸・東京 都市づくり物語」河村茂 都政新報社・刊

「江戸東京まちづくり物語」田村明 時事通信社・刊

「東京は燃えたか 黄金の60年代」塩田潮 講談社・刊

「オリンピック・シティ東京 1940・1964」片木篤 河出書房新社・刊

「首都高速道路のネットワーク形成の歴史と計画思想に関する研究」古川公毅

「東京の幹線道路に関する史的研究」堀江興

「東京都市計画高速道路調査特別委員会報告」

「首都高速道路公団法案参考資料」

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コメント

業界にもよると思いますが、うちの界隈では国会議員に呼ばれて説明に行くのも「国会に呼ばれた」というので。その部分についてはあながち間違いとは言い切れないと思いますが。

投稿: 名無し | 2018年4月20日 (金) 07時17分

書き込みありがとうございます。

東秀紀氏の

山田正男が国会で傲然と「絶対に間に合わせてみせます。見ていてください」と答えた。

という記述については
「国会で答弁した」という意味ではなく「国会議員に寄ばれて(個別に?)説明した」
という趣旨ではないか?

というご指摘でしょうか?

それならそういうように書いてくれればいいんですけれど。。

投稿: | 2018年4月24日 (火) 22時59分

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