「編集者」の時代としての「平成」
「平成」という時代は来年3月に終わる予定である。元号で何かが区切られると考えるのは、それ自体天皇制への屈服なのかもしれないが、しかし現に天皇制が厳然として機能している以上、これが日本の現実でもある。とはいえ「平成」という時代は何だったのか振り返って見ても、そこにはただ茫漠とした無があるだけだったという印象しかない。
最近東浩紀監修『現代日本の批評2001-2016』を図書館から借りて来て拾い読みをし、この無という感覚を一層深く感じた。本当に何もないという現実がそこにはある。この本はその前編の『現代日本の批評1975-2000』と同様、かつての批評空間の座談会『近代日本の批評』シリーズを模倣した試みに見えるが、それらは続編のような体裁を取っているためになおさら、模範との違いが露骨である。『近代日本の批評』シリーズは、柄谷行人と蓮實重彦という二人の対照的な批評家を軸に、浅田彰を司会役として、一応批評家による批評史の提示となっていた。これに対して、東監修の『現代日本の批評』は、批評家の座談会というよりは、「編集者」の座談会という感じがする。実際そこに参加している人たちは東を初めとして批評家というよりは「編集者」あるいは「プロデューサー」と呼ぶべき人である。必然的にその話の内容は徹頭徹尾マーケティング的なものに終始せざるを得ない。参加者の一人佐々木敦は「東浩紀ひとり勝ち」と言っているが、この「ひとり勝ち」の意味は、東が平成にデビューした批評家たちの中で同時代的に最もメディアの人気者だった(所詮「マイナーの中のメジヤー」ということに過ぎず、それ故に文学・文壇に寄生し続けているわけだが)ということしか意味していない。
『近代日本の批評』シリーズは、近代文学史・思想史についての通説的な論点を踏まえた上で、そこにポレミカルな新しい視点(たとえば福本イズムの再評価)が導入されていた。これに対して『現代日本の批評』には圧倒的に視野の狭い「編集者」たちの自画自賛の無駄話以外何もない。これはすなわち「平成」という時代そのものを表している。そのことは、『近代日本の批評』シリーズの中で蓮實重彦が「大正的なもの」について語ったことを想起させる。「平成」はちょうど「大正」の倍の長さを持つことになるのだが、それはただでさえ前後に比べて中身の薄かった「大正」という時代を、更に二倍に薄めた内容しか「平成」は持てなかったということである。
実際「大正」は「童心」の時代とされるが、「平成」はゲーム・マンガ・アニメなどヴァーチャル・リアリティにフェテイシズム的に執着する「おたく」(「アダルト・チルドレン」は今は早くも死語になってまったが)の時代だった。「平成」が「大正」の倍あることは、端的に平均寿命が延びたことを示していて、そこでは老人が壮年の仕事をし続けると同時に、若者は何時までも大人の仕事ができない。比べるのもおこがましいかもしれないが、「大正」時代に重要な仕事をした文学者が漱石・鴎外・自然主義・白樺派・耽美派と、いずれも明治時代にデビューした人々であったように、「平成」時代に重要な仕事をした文学者は、「昭和」にデビューした人々だったように見える(女性作家は「平成」デビューでも質は落ちていない)。すなわち小説で言えば、個人的な評価は別にして大江健三郎、古井由吉、村上春樹といった既成作家たち、批評家で言えば柄谷行人や蓮實重彦をはじめとして絓秀実や渡部直己などである。「平成」を代表(表象=代行)する東浩紀のすべての仕事と、同時期の柄谷や蓮實が残した仕事とを比較するなら、後世に読み継がれるテキストとして残るのは後者であることは間違いない。『クォンタム・ファミリーズ』と『伯爵夫人』を比較するなら、後者の方が圧倒的に才能もアクチュアリティーも上であることに文学の残酷さを感じる外ない。東は批評の書き手としてよりも、市川真人などと同様プロデューサー、編集者として記憶されるだろう。そのスタイルの原型は浅田彰が作ったものだが、浅田がまだ持っていた美的センスや「歴史」についての感覚を東は完全に喪失している。それは「平成」という時代そのものが「歴史の終わり」の後の時代だったからだ。「歴史」が終わっている以上「批評史」などというものがあるわけがない。そこでは時間の流れは完全に止まっていた。
『現代日本の批評』には余程ネタがなかったのか、「重力」のことも否定的なエピソードとしてではあるが少し触れられている。「重力」は、端的に言って、ダメ批評家とダメ編集者とダメ演劇作家とダメ映画監督とダメ詩人とダメ経済学者が集まって、リサイクルを目指したような所があったが、批評家が重複していたのが問題だったかもしれない。ともかく鎌田哲哉以外はそれなりに「更生」しているらしいが(逆「玉の輿」に乗ったり、早稲田の教員になったり、詩の賞をもらったりetc)、鎌田だけは、おそらくまだ自らの重力が作り出したブラックホールの中で「穴つるし」に耐えているのだろうと推察している。そして、何もしていないように見える鎌田と、あらゆることをやり尽くしているように見える東が、今や結果として批評的には等価値だったと言わざるを得ないところに、絶対的な「無」としての「平成」という時代の特質がある。
「大正デモクラシー」に対応するものとして「平成デモクラシー」というものを考えることができるかもしれない。マーケティングに不毛に過敏であることは、文学者が自分を特権的な人間とみることができず、骨の髄までただの人間になったということを示している。自分の価値を少なくとも一万人の人が認めてくれなければ確信できないという発想は、三割の支持があれば維持できる現在の政権のミニチュア版的なものと言え、確かに「民主主義」(「一般意志2.0」?)には違いない。ただしそれは「幽霊的民主主義」と呼ぶべきものである。ツィッターのフォロワー数やアクセス数やいいねの数とはまさに、幽霊による投票であり、そしてその幽霊の実在を信じることが、「幽霊的民主主義」を支えている。だが幽霊は存在しない。それは無である。無は何個集まっても無である。そのことが露呈する時、「幽霊的民主主義」は崩壊するだろう。
私は遠くないうちに出るはずの「子午線」6号に寄稿した評論のマクラで、「明治」を「精神」の時代、「大正」を「身体」の時代、「昭和」を「ロボット」の時代、「平成」を「亡霊」の時代と位置づけた。亡霊あるいは幽霊の時代としての「平成」が終われば、何かが変わる気がする。「大正」の後の「昭和」がろくでもない時代だったことを考えれば、それは悪しき変化かもしれない。実際「平成」という時代は、後世から見れば、天災はあったが、のんべんだらりとゲームばかりしていたお気楽な良い時代だったと評価されそうな気もする。少なくとも私にとって生活的には、昭和末期と比べてとても居心地の良い、小春日和の午後のような時代だった。
『近代日本の批評』シリーズは、近代文学史・思想史についての通説的な論点を踏まえた上で、そこにポレミカルな新しい視点(たとえば福本イズムの再評価)が導入されていた。これに対して『現代日本の批評』には圧倒的に視野の狭い「編集者」たちの自画自賛の無駄話以外何もない。これはすなわち「平成」という時代そのものを表している。そのことは、『近代日本の批評』シリーズの中で蓮實重彦が「大正的なもの」について語ったことを想起させる。「平成」はちょうど「大正」の倍の長さを持つことになるのだが、それはただでさえ前後に比べて中身の薄かった「大正」という時代を、更に二倍に薄めた内容しか「平成」は持てなかったということである。
実際「大正」は「童心」の時代とされるが、「平成」はゲーム・マンガ・アニメなどヴァーチャル・リアリティにフェテイシズム的に執着する「おたく」(「アダルト・チルドレン」は今は早くも死語になってまったが)の時代だった。「平成」が「大正」の倍あることは、端的に平均寿命が延びたことを示していて、そこでは老人が壮年の仕事をし続けると同時に、若者は何時までも大人の仕事ができない。比べるのもおこがましいかもしれないが、「大正」時代に重要な仕事をした文学者が漱石・鴎外・自然主義・白樺派・耽美派と、いずれも明治時代にデビューした人々であったように、「平成」時代に重要な仕事をした文学者は、「昭和」にデビューした人々だったように見える(女性作家は「平成」デビューでも質は落ちていない)。すなわち小説で言えば、個人的な評価は別にして大江健三郎、古井由吉、村上春樹といった既成作家たち、批評家で言えば柄谷行人や蓮實重彦をはじめとして絓秀実や渡部直己などである。「平成」を代表(表象=代行)する東浩紀のすべての仕事と、同時期の柄谷や蓮實が残した仕事とを比較するなら、後世に読み継がれるテキストとして残るのは後者であることは間違いない。『クォンタム・ファミリーズ』と『伯爵夫人』を比較するなら、後者の方が圧倒的に才能もアクチュアリティーも上であることに文学の残酷さを感じる外ない。東は批評の書き手としてよりも、市川真人などと同様プロデューサー、編集者として記憶されるだろう。そのスタイルの原型は浅田彰が作ったものだが、浅田がまだ持っていた美的センスや「歴史」についての感覚を東は完全に喪失している。それは「平成」という時代そのものが「歴史の終わり」の後の時代だったからだ。「歴史」が終わっている以上「批評史」などというものがあるわけがない。そこでは時間の流れは完全に止まっていた。
『現代日本の批評』には余程ネタがなかったのか、「重力」のことも否定的なエピソードとしてではあるが少し触れられている。「重力」は、端的に言って、ダメ批評家とダメ編集者とダメ演劇作家とダメ映画監督とダメ詩人とダメ経済学者が集まって、リサイクルを目指したような所があったが、批評家が重複していたのが問題だったかもしれない。ともかく鎌田哲哉以外はそれなりに「更生」しているらしいが(逆「玉の輿」に乗ったり、早稲田の教員になったり、詩の賞をもらったりetc)、鎌田だけは、おそらくまだ自らの重力が作り出したブラックホールの中で「穴つるし」に耐えているのだろうと推察している。そして、何もしていないように見える鎌田と、あらゆることをやり尽くしているように見える東が、今や結果として批評的には等価値だったと言わざるを得ないところに、絶対的な「無」としての「平成」という時代の特質がある。
「大正デモクラシー」に対応するものとして「平成デモクラシー」というものを考えることができるかもしれない。マーケティングに不毛に過敏であることは、文学者が自分を特権的な人間とみることができず、骨の髄までただの人間になったということを示している。自分の価値を少なくとも一万人の人が認めてくれなければ確信できないという発想は、三割の支持があれば維持できる現在の政権のミニチュア版的なものと言え、確かに「民主主義」(「一般意志2.0」?)には違いない。ただしそれは「幽霊的民主主義」と呼ぶべきものである。ツィッターのフォロワー数やアクセス数やいいねの数とはまさに、幽霊による投票であり、そしてその幽霊の実在を信じることが、「幽霊的民主主義」を支えている。だが幽霊は存在しない。それは無である。無は何個集まっても無である。そのことが露呈する時、「幽霊的民主主義」は崩壊するだろう。
私は遠くないうちに出るはずの「子午線」6号に寄稿した評論のマクラで、「明治」を「精神」の時代、「大正」を「身体」の時代、「昭和」を「ロボット」の時代、「平成」を「亡霊」の時代と位置づけた。亡霊あるいは幽霊の時代としての「平成」が終われば、何かが変わる気がする。「大正」の後の「昭和」がろくでもない時代だったことを考えれば、それは悪しき変化かもしれない。実際「平成」という時代は、後世から見れば、天災はあったが、のんべんだらりとゲームばかりしていたお気楽な良い時代だったと評価されそうな気もする。少なくとも私にとって生活的には、昭和末期と比べてとても居心地の良い、小春日和の午後のような時代だった。