新デンシノオト

音楽ノート、そのほか。

20180514

●昨日(日曜)は、午後から雨。

●疲れていたので終日在宅。寝たり起きたり。ただ寝てばかりいると意外と疲れて体力回復にはならないものだ。適度な運動はやはり必要であった。

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●Eblen Macari『Música para Planetarios』を聴く。1987年リリースのメキシコ人ギタリスト/ アンビエント・アーティストによるニューエイジ / アンビエント作品のリイシュー。今年はリイシューもされに発掘が進み、ニューエイジ / アンビエントが面白い。

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●海外では日本のアンビエントニューエイジ発掘がトレンド(’?)のようで(吉村弘『Music for Nine Post Cards』や、清水靖晃『案山子』など)、今音楽は過去と現在を結びつける動向になっている。

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●無料放送で頭の部分だけ新生スパンクハッピーを観ることができて興奮してしまった(「アンニュイ・エレクトリーク」(!)の途中まで)。これこそ観たかった聴きたかったやつだ。というわけで第二期スパンクハッピーを聴き直す。

20180513

●急に初夏に戻った。

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●不意に音楽を聴くことに飽きることがある。だがそれは当然のことで、そういったときはしばし離れていればいい。

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●この国で「音楽」とは音楽ジャーナリズムから「下される」情報に過ぎないのか。個人として聴くこと。個人として批評をすること。連帯ではなく孤立をすること。その可能性を模索すること。

●とはいえ、そのような態度はこの国では「自殺」に等しいことなのか。

●よって「批評」の「プロ」はバランスのとり方に苦労をしているのか。しかし批評とは本来個的なものである。だがこの国で個的な存在は社会から抹殺される。ではどうすればいいのか。

●いまや誰も批評を亀裂とは思わなくなった。いまや批評はひとことキャッチコピーに近い。そういっていけばただの紹介文とは違うぞとでもいうような。

●しかし批評とはそもそも亀裂を見出すことで、芸術固有の失敗を救い出すことにあったはずではないか。亀裂の陥没地点を擁護すること。決して社会システムの再構築の話でもないし、作品の適切な分析でもないし、分かりやすい紹介でもない(むろん個的なものであるがゆえ、どような形式であれ批評的なものが宿るときはあるだろうが)。

●個が社会と世界の関係の中で文を介して、そこにある亀裂の浮上させ、その浮上への驚きと亀裂への愛を波及させること。それが批評ではないのか。そんな批評は20世紀までの「古い」批評なのか。

●むろん自分は批評家などではないただの一般読者なのでないものねだりの願望かもしれないし、実際、そうだろう。だがしかし、そういった強い批評文を読みたいのも事実である。

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メルツバウを聴いた。耳がノイズ音楽を求めてしまう。

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●新譜ではないがFrancisco Meirino『Surrender, Render, End』(2016)を聴き直す。メイリノは持続と切断(変化)が明瞭で巧みだ。

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パスカルキニャールの『さまよえる影たち』を折に触れて読んでいる。

20180512

●朝は寒く日中は20度を超えた。この温度差に体調がついていけない。

●体験の解像度の高さとお金を払うことの重要性みたいなのが今、でてきてると思う。インターネットがあれば月1000円で聴き放題な時代においては、体験(取得する情報量)の濃さにお金を払うと思うのだ。

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●Drew Daniel, John Wiese『Continuous Hole』を聴いた。マトモスのDrew DanielとJohn Wieseのデュオという。エクスペリメンタルなノイズ・テクノといった趣。

●Nik Bärtsch's Ronin『Awase』。ECMの新作。浪人。合わせ。日本的な間/合いの美学?ハーモニーの構築の実験・実践ととリズムの実験・実践に思える。

20180511

●昨日は少し気温が戻ってきた。しかし夜と朝は寒い。

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●自分は音楽を聴くとき、それがいわゆる実験的な音楽作品や音響作品であっても、どこか感覚や感情から解離しているような作品を好む傾向がある。

●だから人によっては単なる詰まらない音に感じるかもしれないが、その物質的な感覚を好むのは感情を否定しているわけではなく、それとは別の場所/方法に立っている音という求めているからだ。

●端的に映画でいえばストローブ/ユイレ、音楽でいえばクリスチャン・ウォルフの作品などを挙げることもできる。

●ストローブ/ユイレの作品はどれも好きだがあえてその系譜でいえば『歴史の授業』『アンティゴネ』か。『階級関係』や『シチリア』は好きだが(彼らの映画にしては)劇映画の系譜に入れるべきだろう。

●で、最近Erstwhile Recordsから出たChristian Wolff/Antoine Beuger『Where Are We Going, Today』を聴く。Edition Wandelweiser Records を主宰するオランダの作曲家Antoine Beugerとの共作らしい。「Stone」と同質の硬質な物質性。

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●ようやく「MUBI」に加入した。

20180510

●昨日は(も)寒い日だった。

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●どうでもいい話だが、自分は今年(2018年)で47歳になるわけでつまり20年前(1998年)は27歳であった。ということは今の27歳の人はまだ生まれたばかりということになる。つまり0歳だ。だが今の27歳前後の人は普通に優秀な人が多い。対して私は優秀ではない。この差はどこで生まれたのか。ある一定の歳を過ぎると年齢はあまり関係ない。気をつけていきたい。

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●自戒だが世代論的批判は控えめにしなければならないと痛感した。度を超すと単に年齢差別に陥る。今の日本はその傾向が強い。気をつけたい。

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●さらに自戒だが、あらゆる批判は自分に呪いをかけてしまう。仮にその批判のようになるのを避けたとしても、「そうはなってはいけない」という意識が永遠に自分を縛る。根拠のないことなのに。気をつけたい。

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●Okkyung Lee『Dahl​-​Tah​-​Ghi』。韓国人チェロ奏者の最新ソロ・アルバム。すべて即興というが、弦それ自体を聴取するというより、その硬弦の揺らぎの向こうにある残響の生成と変化と減退と消失を聴くような感覚。永遠の変化の過程/結晶か。

●Sarah Davachi『Let Night Come On Bells End The Day』も聴いた。.前作より好きかも。

20180509

●昨日は急にとても寒い日だった。冬に戻ったような気温。この温度差ではなんだか良くわからなくなる…。

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●「ポスト・トゥルース」とは90年代以降的なオルタナティブな選択が機能不全化した社会になったからこそ表出してきた現象ではないかと思った。つまりオルタナティブ以降の現象。

●主流に対するもうひとつの選択としてのオルタナティブという単純な選択がもはや意味をもたない(もてない)のが現代である。「ポスト・トゥルース」とはあえて単純化すれば、そのようなオルタナティブが機能不全に陥ったからこそ、「自分だけの真実を普遍化する行為」とはいえないか。つまりは社会における(ある程度は)正当な「もう一方の選択」が有効性を持てない時代は、「それぞれの真実を普遍化・現実化する選択肢が優先」されてしまう……。われわれには代替え案ではなく、取り戻すべきは「正しさ」への信頼なのかもしれない。

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●Joe Talia『Tint』を聴いた。アートワークのイメージどおりのムードのノイズ・ドローン。良い。

●Sissy Spacekの『Pitched Intervention』と『L/L』も聴いた。これもとても良かった。コンクレート・ノイズ。

ブログ再開

●気温の変化が激しくなかなか体力的にきつい。特に大風邪をひいたりするのではないが朝晩、急に寒かったり。

●ブログを心機一転した。名前は直球で「新デンシノオト」。

ツイッターを控えめにしてこちらに雑記を記していきたい。もちろん音楽アルバムのレビューなども気が向いたら。基本日記みたいなもので気楽に更新したい。

●それにしても今年も4カ月が終わってしまった。加齢と共に時間の流れが速くなる。自分もついに今年47歳になるので50代が近づいてきた。この1月から4月は結構、いろいろあって大変だった。5月以降は生活や仕事などを組み直していきたい。

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●ネットフリックスとアマゾンプライムに入っているので、就寝前とかに(かつてであればTVを観るように)そこにある映画を観る。それも30分くらいずつ。まったくもって良くない映画の見方だが、快適は快適である。しかもレンタルですら観ないような映画を観る。あと検索が楽しくて、映画を観てるより、検索してる時間の方が長いのでがないかと思ってしまうほど。本末転倒かもしれないが、インターネットは「検索=掘る」という楽しさもあるので、必然か。

●最近、とにかく貧乏だが、インターネットはそんな貧乏にも娯楽や刺激を格安で与えてくれる。それが良いのか悪いのか分からない。今、文化全般は人をカルチャー漬けしようとしているように思う。

●資本主義社会は限界まで来ているのは誰しも分かっているが、その普遍的なオルタナティブが提示できないのも事実で、今の社会の鬱性もまたそれが原因だろう(攻撃性も同様だ)。

●マーク・フィッシャー『資本主義リアリズム』は、要はそういう本だったのだろう。マーク・フィッシャー氏は48歳で自殺してしまったが、この本での彼の言葉はあまりに悲痛で辛い。

●マーク・フィッシャーは音楽批評家でもあったので、資本主義と芸術と文化産業と人間の問題について、より深く実感していたのだろうと思う。しかも10代の職業訓練的な学校で教師をしていたのだから。

●マーク・フィッシャーがブリアルについて書いた文章を翻訳してほしい。