富士川文庫は医学博士、文学博士富士川游氏が、大正6年以降3回にわたって寄贈した氏の旧蔵書4,340余部9,000余冊の集書である。
博士は慶応元年(1865)5月広島に生れ、昭和15年(1940)11月鎌倉で病死した。博士は明治20年広島県医学校を卒業してドイツに留学、明治33年イエナ大学を卒業して帰国し、帰国後は京都、九州、東北の各帝国大学で医学史を講じた。明治45年名著「日本医学史」に対して帝国学士院より恩賜賞を授与され、大正3年に文学博士、同4年に医学博士の学位を授与された。
富士川文庫本は博士がその畢生の大作である「日本医学史」の編纂のため、参考資料として四方に求めて採収した苦心の収書である。文庫は明治以前の和漢の医書と江戸中期以後主として幕末期の西洋医学書の翻訳書より構成されわが国の医学に関する典籍は平安朝より明治初期に至るまで網羅して余すところがないといっても過言ではない。
文庫本の著作年代は平安朝にまでさかのぼるが、その刊写年代は足利期を最古としている。「続添鴻宝秘要抄」は永正5年(1509)の浄雲の自序があり、確証はないが浄雲の自筆と伝えられ、巻末にその子、浄忠の花押がある。また「家伝通外方」は度会常辰の永録2年(1559)の筆写で、「続添鴻宝秘要抄」等と共に書写年代の古い部類の一つであるが、文庫本の多くは徳川期の刊写本である。
刊本中には慶長4年(1595)刊の「延寿撮要」の如き好書家が趣味的に最も愛好する慶長初期の古活字本も多少含まれている。しかし本文庫の目的は図書の骨董的趣味に耽溺することではなく、日本医学の生長過程を跡付け、これを記述して「日本医学史」を編述するために収集された参考資料である。従って本文庫の特色は学術的図書が系統的に、収集されていることである。
本文庫中の稀書珍籍をひとつひとつをここに例示する暇はないが、鎌倉時代の代表的医書である梶原性全の著作、「頓医書」50巻の内巻5~12は伊沢蘭軒の自筆であり、正親町天皇に奉献して嘉賞を賜った曲直瀬道三の著作「啓迪集」は慶安2年(1640)の刊本であり、また師命を奉じて大槻玄沢が訂正の業に従うこと十年、稿を改めること3回におよんだ杉田玄白原訳の「解体新書」の重訂本等は、数多い稀覯書の一つとして挙げることができるだろう。
「解体新書」「和蘭陀全駆内外分合図」等の如き、和蘭医書の翻訳書も頗る多く、またそれ以外の独、墺、米等の医学書の翻訳書も少なくない。日本近代医学の胚種が、これらの翻訳医学書の中に早くも潜在していたということを看過してはならない。
富士川文庫の収書は時間的には平安朝より明治初期に至り、内容的には内科、外科、産科、小児科、薬学等医学のあらゆる分野を包摂して間然するところがない。
(解説の出典: 京都大学附属図書館編「京都大学附属図書館六十年史」第3章第3節)