「ネトウヨ」は社会的弱者ではない。だからこそ、根が深い。

2012年に都内で行われた反中デモ(ネット上の呼びかけで多くの参加者が集まった)(写真:鈴木幸一郎/アフロ)

・出ては消える「ネトウヨ=弱者」の定説

 インターネット上で右派的、保守的な言説を繰り返す所謂「ネット右翼」(ネット保守とも言うが、ここではより一般的な”ネット右翼”に統一する)、通称「ネトウヨ」が社会的弱者であることを指摘し、彼らが弱者政策に疎い(とされる)安倍政権を支持することは「パラドックス(矛盾)」である、との言説が、沸いては消えていくという状態が、近年続いていることは周知のとおりだろう。

 8月1日、ライブドアニュースは元格闘家でタレントの須藤元気氏のツイッター上でのコメントを『須藤元気が安倍晋三政権支持者に皮肉「ネトウヨは弱者」』として紹介した。須藤氏の原文は以下のとおり。

今後、格差を助長する安部政権を支持するネトウヨ。そのネトウヨ自身が弱者ということに気がついていないパラドックス。いつの時代も皮肉です。

出典:須藤元気氏公式ツイッター(7月31日付)

 或いは7月27日には、漫画家の小林よしのり氏がBLOGOS上で『ネトウヨの時代は終焉』と題したエントリーを公開し、「ネトウヨ」に対して次のように論評している。

ネトウヨは貧困層じゃなくて、案外、高給取りだという見解があるが、それは自分がネトウヨ側にいる連中が発明した嘘だと思う。まともな高給取りがあんなに馬鹿なはずがない。

出典:BLOGOS小林よしのり氏エントリー(7月27日)

 いづれも、現在に至るまでネット上で大きな反響が続いている。この「ネット右翼」に関しては、戦後70年という節目の8月15日が近づくたびに、必ず各種のニュースの中に、安倍政権や社会の右傾化と結び付けられて、頻出する単語だ。

 ごく最近でも、朝日新聞の特別編集員が旭日旗とハーケンクロイツを掲げてデモ行進する人々の写真を自身のツイッター上で「安倍政権を支持している」と紹介して問題になった。当該のツイートの中には「ネット右翼」ではなく「日本の国家社会主義者」と紹介され、彼らの社会的属性にまで言及はなされていないものの、明らかに写真に映った旗持ちの人々は「ネット右翼」に分類される人々である。

 その是非はともかく、彼らは本当に社会的弱者なのか?今一度、「ネット右翼」に関連したニュースの印象に惑わされないためにも、整理して理解する必要がある。

・「ネット右翼」は「弱者」ではない

 私は、これまで本YAHOO!ニュースの記事中や、私の著書『ネット右翼の終わり』『若者は本当に右傾化しているのか』などの中で、「インターネット上で保守的、右派的な言説を行ったり、それを強く支持する者」を「ネット右翼」とし、その実態の把握に努めてきた。

 その結果、2014年の衆議院議員総選挙における次世代の党の比例代表獲得議席が、ほぼそのまま「ネット右翼」の趨勢を示すものとして、その全国的人口をおおよそ150万人程度ないし、最大でも200万人程度である、と推計している。(参考記事*総選挙「唯一の敗者」とは?「次世代の党」壊滅の意味とその分析 YAHOO!ニュース 2014.12.15

 その上で、拙著『ネット右翼の逆襲』に於いて詳細に実施した独自調査により、所謂「ネット右翼」の社会的地位がおぼろげながらも明らかになってきたことは、様々な媒体の中で記してきた。簡単にまとめると、

1)「ネット右翼」の年収は中産階級水準(世帯平均のやや上)であり、とりわけ東京を中心とした首都圏の自営業者が多く、富裕層も少なくない

2)労働者の中でも管理職など比較的指導的立場に就く場合が多く、所謂「ワーキングプア」「ニート」「無職」や「ブルーカラー」は少ない

3)「ネット右翼」はおおよそ、同世代に比べて四大卒者が多く、その学歴は概ね高水準である

 という結果であった。これについては、都合三桁に及ぶ「ネット右翼」の人々との直接接触において知り得た私の経験則に照らし合わせても、得心のいく結論となっていることを付け加えておく。

 このような事実にもかかわらず、いまだ冒頭に述べたような「ネット右翼=社会的底辺=弱者説」が出ては消えるのは、まず第一に、前述した小林氏の「まともな高給取りがあんなに馬鹿なはずがない」という誤った固定観念が拭いされていないからだ。

 安倍政権を支持することが「馬鹿げたこと」であるかどうかはともかくとしても、「まともな高給取りや高学歴者は、常識的判断を下すはずである」という、小林氏にかぎらず世間一般に広く存在するであろうこの思い込みは、この社会を見ていく上で、実際には何の根拠もないことであると指摘しなければならない。

 例えば、オウム真理教事件でサリン製造や松本智津夫死刑囚の指示に従い犯罪に手を染めたような教団幹部たちが、世間的には東大、阪大、京大、東京理科大などの所謂「高学歴者」であったことは、知られているとおりだ。または、連合赤軍のメンバーや、後に浅間山荘に立てこもった過激派たちの最終学歴を見ていくと、京大、横浜国大、大阪市大、慶大など当時からして決して低い学歴のものではなかった。

 資産家が未公開株の詐欺にあったり、高額所得者が詐欺師の甘言に嵌まり人生を棒に振るなどの出来事は、決して珍しいことではない。「まともな高給取りや高学歴者は、常識的判断を下すはずである」というのは、何の根拠もない思い込みである。

・ネット右翼はなぜ安倍政権を支持するのか

 そのうえで、「ネット右翼」がなぜ弱者政策に疎い(はず)の安倍政権を支持するのか、という疑問の答えは簡単である。すでに観てきたとおり、彼ら「ネット右翼」が社会的弱者ではないからである(より正確に言えば、「ネット右翼」の支持政党の中心は「自民党より右」を標榜してきた次世代の党にその力点が移った時期があったが、2014年の総選挙における同党の壊滅によって党勢が振るわないことから、現在では再び「ネット右翼」の支持の中心が安倍政権に回帰したと見做している)。

「ネット右翼」の政策的関心は、主に「安全保障問題」「中韓など周辺国と日本の問題」「歴史認識問題」「既存の大手マスメディア問題(批判的な意味で)」「憲法問題」など多岐にわたるが、どれも生活や社会的なものとは遠く、国家的、あるいは多国間を相手にしたマクロ的な問題にフォーカスしている。

 年金、子育て、医療福祉、教育、貧困問題など、生活や地域に密着したような話題は、「ネット右翼」はあまり関心を示す傾向がない。私はこのような、極端に国家的話題に集中してアンテナを向ける「ネット右翼」の関心話題郡を、かつて日米開戦の前夜に近衛文麿内閣が唱えた「高度国防国家」の語彙になぞらえて「高度国家論」と名づけている。

 生活や地域という皮膚感覚から遊離し、「高度国家論」に注目する「ネット右翼」は、当然のこと、これまた安全保障に関する様々な政策を矢継ぎ早に実行する安倍内閣を支持するのは、自然の成り行きである。「ネット右翼」はなまじの中産階級のため、貧困問題や生活保護問題に対しては総じて冷淡である。

 また、独力で小資本を形成してきた大都市部の自営業者が多いため、貧困や失業を「怠惰」「自己責任」として唾棄する傾向も内在している。例えば、「ネット右翼」が生活保護の不正受給問題に殊更敏感なのは、中産階級であるがゆえに、殊更納税者意識が強いからである。もし「ネット右翼」が社会的弱者で、納税もままならないような人々であったならば、このような不正に対する憎悪の感情は湧き上がりにくいだろう。「自分の払った税金が…」という意識の強さが、不正受給問題に対する感覚の鋭敏さを、良い意味でも悪い意味でも、育てているのである。

 これは、彼ら「ネット右翼」が資本主義社会の「少成功者」である場合が多いことが最大の原因であり、よって彼らが安倍政権を支持するのは、冒頭に引用した須藤氏の言う「パラドックス」などではなく、極めて順当な評価なのであり、何ら不思議なことではないのだ。これを理解しなければ、なぜ「ネット右翼」が安倍政権を支持する傾向が強いのか、理解することは難しいだろう。

 衣食足りて礼節を知る―、とは『管子』由来の有名な故事だ。「ネット右翼」も衣食足りて礼節を知る、ならぬ「高度国家論」を知ったのであり、この事実はとても重要である。

 

・ネトウヨ=社会的弱者論の遠因

 それでもなお、「ネット右翼=社会的底辺=弱者説」の間違った言説がはびこる第二の原因は、このような言説を補強するような優秀なノンフィクションが刊行され、その中で描かれる「古典的ネット右翼」の情景が、「ネトウヨ=弱者」というイメージに合致するからだ。

 例えば、ジャーナリストの安田浩一氏の代表作である『ネットと愛国』(講談社)の中には、当時在特会(在日特権を許さない市民の会)の構成員であり、同会に絡む刑事事件を起こして逮捕されたN(女性)の大阪市内のマンションを訪問する下りの描写が、つぎのように記載されている。

彼女は事件前からブログで日記をつけている。(中略)そこで描かれる彼女は幸せに満ちていた。米国人の夫との豊かで恵まれた生活。ロックスターやスポーツ選手との華麗な交際。彼女は幸福に満ちていた。だが、徳島事件(在特会が関与した刑事事件)の公判で明らかとなった彼女の実像はあまりに平凡な、いや、どことなく寂寥感すら漂う姿でもあった。(中略)彼女が一緒に暮らしていたのは米国人の夫などではなく、年老いた母親である。高校を中退した後、Nは工員を経てネイリストになる。しかしそれだけで生活を維持することはできず、夜はスナックで働いた。

出典:『ネットと愛国』安田浩一著・講談社 P.142 括弧内と、本文中の名前は筆者によってイニシャルとした

 なるほど、「ネトウヨ=弱者」を彷彿とさせるNの苦労が思い偲ばれよう。或いは、同氏が福島県に住む、ある著名な「ネット右翼」の所在地を特定し、同所に突撃取材を敢行した一部始終の記事からも、決して「ネット右翼」と呼ばれる人々が、恵まれた経済生活や社会生活を営んでいない存在である証左が、次々と「発見」されている状況にある。

 確かに、このような証拠を突きつけられれば、「ネトウヨ=弱者」がその実生活の困窮によって溜め込んだストレスや鬱憤をネット上に吐き出しているかのように思えるのも、無理は無いだろう。

 しかし注意しなければならないのは、このような安田氏のルポに登場する「ネット右翼」は、所謂「行動する保守」と呼ばれる、「ネット右翼」の中において最も過激な人たちの一部にすぎないものであり、これが「ネット右翼」全体の姿であると援用するのは、難しい。サウスブロンクスがニューヨークの全てを代表しているわけではないのと、少々例えは不謹慎だが似ている。

 いみじくも安田氏が同書『ネットと愛国』の末尾付近で述べているように、こういった過激な人々を、インターネット動画や生中継という「画面の外」から強い賛同の意を持って眺めている人々こそが、「ネット右翼」の主体である。一部の「ネトウヨ=弱者」という従来の定説に都合のよい「問題アリ」の人物を「ネット右翼」の平均的実像として認識することは慎むべきである。安田氏のルポは瞠目に値するべきものだが、注意しないと「ネット右翼」全体の把握誤解に繋がるのではないかと、指摘しておきたい。

・「ネット右翼」はどこへ向かうのか、あるいは向かうべきか

 所謂「ネット右翼」と呼ばれる人々は、一部の極端な事例を除いて、社会的弱者ではない。だからこそ、高度国家論に代表される強い国家、強い防衛力、生活保護問題に対して強者の理屈を支持する。資本主義社会において、独力で成功してきた彼らの努力や能力自体は、なんら恥ずべきものではない。寧ろ、讃えられて良い成果である。

 私は、2002年の日韓ワールドカップ付近を出発点としてインターネットを出自とする右派を「ネット右翼」と規定している。他方、所謂「戦後保守」の屋台骨となってきた産経新聞や月刊誌正論の熱心な購読層(紙媒体)を、「ネット右翼」とは分離して「保守」とか「保守層」或いは「戦後保守」などと呼んでいる。残念なことに、「戦後保守」は前記2つの自閉したサロン的空間と、その2つを支えるメディア・コングロマリットの中で特権的に養われてきたために、これまた地域や生活に根ざした皮膚感覚に疎く、高度国家論を殊更志向しがちである。

 寧ろ、伝統的に「ネット右翼」に対して先行してきた「戦後保守」の貴族的性質が、ネットから誕生した後発の「ネット右翼」に有形無形の影響を与えている、と解釈することも出来るだろう。そしてこの二者は、現在様々な要因により、融合している状態にある。

「ネット右翼」と「保守」は、社会的弱者などではなく、寧ろ経済的にも時間的にも余力のある都市部の中産階級である。であるが故に、彼らこそが、社会的弱者に対する温かい眼差しを獲得することは、「ネトウヨ」などというレッテルを弾き返すだけの重要な武器に成るだろう。一方、いたずらに「ネトウヨ=弱者」という正確ではない図式を持ちだして、「ネット右翼」を蔑む側にも問題がある。

「ネトウヨ」という単語の響きには蔑称のニュアンスが多分に含まれていると「ネット右翼」の大多数は認識している。間違った事実に基づいた嘲笑や哀れみは、「ネット右翼」を批判的・肯定的にみるその両者にとって、益をもたらさない。蔑視や奢りをやめ、社会のために建設的な議論の土台こそが求められているからこそ、「ネトウヨ=弱者」という固定観念は、いい加減放棄するべき時が来たと思う。