僕は昔、小説家になりたかった。
小説を書くのは難しい。けれど、自身が体験した物事を書くのは簡単だ。これは僕が初めてオフ会をしたときの思い出話だけれど、あのとき、違う行動をしていれば、いまとは全然違う未来があったんだろうなと思う。
それは6〜7年前、僕が上京してきた24歳頃のことだ。
僕は新卒で入社した会社を辞めて、大阪から東京に就職先も決めずに越してきていた。
新卒で入社した会社は小売で、転職先はIT系の企業を探していた。インターネットが好きで、業界としての将来性も考えて、IT系への転職を考えていた。
その頃、twitterはもっと牧歌的な世界が広がっていた。
ちょうど東日本大震災があった直後で、世間との、社会とのつながりをtwitterに求める人が増えていた。安否確認に、ご近所との付き合いに、似た境遇の人とのつながりを、みんなが求めていた。
僕は大阪から上京したことをtwitterに書いていた。
就職活動をしていることをtwitterに書いていた。
友人もいないなか、一人で心細いことをtwitterに書いていた。
きっかけはどうだったかよく覚えていない。
「同じ関西出身で、私も上京してきたばかりだから。一緒にお散歩でもしましょう」
そういう話をして、僕は彼女とオフ会をすることになった。
彼女は京都出身で、結婚を機に上京してきていた。彼女も関東に友人がいないから、心細かったんだと思う。
待ち合わせは東京駅の八重洲口だった。
「牛乳石鹸の広告が貼ってある柱のところで待ってるね」
そう言われて行ってみると、いたるところに牛乳石鹸の広告が貼られていて僕は笑った。彼女に自身の服装を伝え、あたりを見回していた。
ちょうど正面の柱に、牛乳石鹸の広告が貼られた柱があった。
その横に、長身の、モデルのように整った顔をした綺麗な女性が立っていた。待ち合わせ相手がもしこの人だったら、緊張してきっと何も話せないなと思いながら、けれど、この人だったら嬉しいなとほんの少し期待していた。
「ごめんなさい、twitterで待ち合わせている人ですか?」
不意に、横合いから声をかけられた。
そこに一人の女性が立っていた。小柄で少しおっとりした雰囲気のある、綺麗な女性だった。僕は緊張しながら待ち合わせの人間であることを肯定し、少し話をして、浅草寺へ観光に行くことになった。
僕は上京したてで就職活動中だから、無職だった。
彼女は看護師をしていて、その日はシフト休だった。
平日の昼間だから、きっと空いてるよねと彼女は言ったけれど、浅草寺はとても混んでいた。
はぐれないように二人で並んで歩いて、一緒にお参りをした。お賽銭を入れて、就職祈願をした記憶がある。
そして列を離れようとしたとき、後ろの外国人に写真を撮って欲しいと頼まれて、写真を撮った。なぜか僕は人から道を聞かれやすいし、写真を頼まれることも多い。
写真を撮って振り返ると、彼女はいなかった。
慌ててあたりを見回すと、列から離れて笑顔でこっちを見ている彼女がいた。
「急にいなくなったと思ったら写真頼まれてたんやね。笑っちゃった」
よく頼まれるんだよね。道もよく聞かれるんだけど、あんまり分からなくて一緒に悩んじゃうことが多いんだ、なんて話をしていた。
浅草寺を出たあと、僕らは浅草の路地を散歩した。そして、目に止まった趣のある古い喫茶店に二人で入った。
本当に古い喫茶店で、隣のテーブルにはインベーダーゲームの筐体が置かれていた。けれど店内はすごく広くて、平日の昼間だからか空いていて、とても落ち着いて過ごせた。
今もだけど、僕は当時から口下手だ。
だから、話すのはもっぱら彼女だった。学生時代のこと、バレーボール部に入っていたこと、看護師になったこと、職場のこと、旦那さんとの出会い、東京で一人は心細いよね、そんな話をとりとめもなくしていた気がする。
「旦那が携帯電話とテレビのリモコンを間違えて持って出勤したことがあって、大笑いしたんだけど怒られたんだよね。人の失敗を笑うなって言われたんだけど、笑っちゃうよね」
さすがに携帯電話とリモコンは間違えないだろうと、僕も笑った。話し上手で素敵な女性だった。
口下手だけど、僕自身の話もした。
前の会社で大変だったこと、頑張ったこと、いま就職活動中であること、こういう企業に勤めたい、結婚に憧れがある、女性と付き合ったことがない、そんな話をした気がする。
「就職決まったら、就職祝いをしなくちゃね」
そんな言葉が嬉しかった。
お茶を飲んで、食事をして、そうして、彼女が帰る時間になった。
夜道を駅に向かって歩きながら、隣に彼女がいて、きっとこういう人と結婚すると幸せなんだろうなと思った。
夜道を歩いているときにふと彼女の手を見ると、彼女は指輪をしていなかった。
「私だけ指輪してたら変かなって思って、外してきちゃった」
そういうもんなんだなと思ったし、二人で歩いていて女性だけ指輪をしていたら、確かに変だなと僕も感じた。
駅までは少し距離があった。
二人とも無言で、けれど、なんとなく落ち着いていて、月並みな言葉だけど、このまま駅につかなければ良いなと思った。人通りはなくて、世界には僕と彼女の二人だけだった。
彼女は既婚者だから、旦那さんとの話もたくさん聞いたから、帰る家があることは分かっていた。
そうして、駅について、彼女を見送ることになった。
別れ際、彼女は僕を振り返ってこう言った。
「本当は、旦那と全然折り合わない。もし、私が帰りたくないって言ったら、明日職場にお休みの連絡するとき、一緒に謝ってくれる?」
彼女は涙目だった。彼女は助けを求めていた。彼女は東京に一人で、心細さを感じていた。
僕は何も言えなかった。僕は無職で、彼女とは初対面で、女性と付き合ったこともなくて、彼女は少し歳上の28歳で、綺麗で、性格も良くて、僕なんかにも優しくて、でも、何も言えなかった。
ほんの数秒だったと思う。
僕は何も言えなかった。
「ごめん、冗談だよ。帰るね」
彼女は笑顔でそう言って、改札をくぐって行った。改札をくぐったあと、振り返って小さく手を振ってくれた。
それから1年以上経った後、彼女から連絡をもらった。
彼女は離婚して、実家のある京都に帰ったと。いまは再婚して子どもも授かったと。
Facebookに「知り合いかも?」という機能がある。
アドレス帳をアップロードしたときや、共通の知り合いが多い人、名前を検索したときに相手側に表示されたり、そういうアルゴリズムになっているらしい。
最近、彼女が「知り合いかも?」に表示された。
Facebookには子どもと一緒に楽しそうに笑う写真が載っていた。僕は名前を検索した覚えもないし、共通の知り合いは誰もいない。
もしも彼女が僕のことを検索してくれたなら、嬉しい。