解体に向けた作業が始まった「九段会館」=東京千代田区

写真拡大

 昭和11年の二・二六事件で戒厳司令部が置かれるなど、昭和史の舞台となってきた「九段会館」(東京都千代田区)で解体に向けた作業が始まっている。

 日本遺族会が運営していたが、老朽化や東日本大震災による天井崩落事故を受けて廃業し、国に返還。建物の一部を保存し、17階建てビルに建て替えられる。戦後70年以上たち、遺族の高齢化と減少が進む中、遺族会は新施設に戦争の悲惨さを語り継ぐ場を設ける計画だ。

 九段会館は、9年に帝国在郷軍人会が「軍人会館」として建設した。鉄筋コンクリートのビルに瓦ぶき屋根を冠した「帝冠様式」と呼ばれる外観が特徴だ。陸軍の青年将校らがクーデターを起こした二・二六事件で戒厳司令部が置かれ、戦後は連合国軍総司令部(GHQ)に接収された。

 その後、国が遺族会に無償貸与し、32年から遺族会がホテルや結婚式場などを運営してきた。遺族会会長の水落敏栄参院議員は「九段会館に泊まって靖国神社に参拝するのが遺族の思いだった。会館は遺族に愛され、心のよりどころでもあった」と振り返る。

 平成23年の東日本大震災でホールの天井が崩落し、死傷者が出た。遺族会は閉鎖を決め、国に返還した。

 国の検討会で建物の一部を保存して土地利用を図る方針が決まり、入札を経て東急不動産がオフィスや店舗が入る複合ビルを建設することになった。城郭風の外観のほか、玄関ホールや昭和天皇が休息したとされる応接室などは保存する。

 東急不動産によると、34年7月の完成に向け、解体に向けた準備工事に入っており、年内に新館と立体駐車場を、来年には本館を取り壊す計画だ。

 一方、遺族会は高齢化が進み、昭和42年に約125万5千世帯だった会員は平成20年に約87万世帯まで減少した。当初、組織の中心は戦没者の妻らで、水落氏は「45万人の方が戦争で夫を亡くしたが、今は3万人まで減った。遺児の平均年齢も77~78歳で、危機感を感じている」と話す。

 昨年には戦没者の孫やひ孫らが参加する青年部を発足させた。今年中に全国36支部ができる見通しだ。

 新たなビルの一部は遺族会に無償貸与される予定で、事務所などに加え、遺族らが戦争体験などを語るスペースを設ける計画。水落氏は「戦争の悲惨さと平和の尊さを後世に伝えていきたい」と話している。(田村龍彦、写真も)

 水落敏栄・日本遺族会会長「皿洗いやボーイ… 九段会館は人生そのものだった」

 昭和38年に日本遺族会に奉職し、九段会館に配属されました。当時、戦没者の遺児は「片親」ってことで企業に就職できなかった。窮状をわかっているから、遺族会が遺児を集団就職させたんです。

 団体食堂の皿洗いをやって、宴会係でボーイもやりました。宿泊部門に回されて、ベッドつくりをやったり。千葉の寮に寝に帰り、すぐ出勤する日々でしたが、楽しかったですね。就職できたこともあって。

 日本経済もよくなるころだから、満室で、繁盛していました。結婚式もすごかった。最高で1日24組やりました。48年に遺族会の事務局勤務になりましたが、九段会館はまさに自分の生き方ですね。青春時代から今にいたるまで、私の人生そのものです。

 遺族の高齢化で泊まりも少なくなってきたところに、東日本大震災で痛ましい事故がありました。じくじたる思いですが(営業を)断念しました。本当は靖国神社に参拝される遺族が泊まるところを確保したかった。ただ、建て替えでも一部は残るので、ありがたいと思っています。

 私は18年生まれで、戦争のことは知りません。ただ、戦後の苦しかったことは知っています。食べる物も着る物もなく、戦争がなければ、父親さえ生きていたら、と思いました。それはしっかり語り継いでいかないと駄目だと思っています。(談)