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京都乃鬼新聞

 投稿者:京都乃鬼  投稿日:2018年 5月13日(日)12時48分8秒
  通報 編集済
  京都乃鬼新聞
2018.5.13

=鬼の論壇=

-----八重の相対を破す-----

五重の相対とは、日蓮大聖人が開目抄で示された
教判(教えの比較判定)を整理したもの。

簡単に言うと、数多ある思想や宗教を、
日蓮大聖人が独自の判断で高低浅深を付けたもの。

特に第五番目の種脱相対で、法華経寿量品の
「文上」と「文底」の比較などは、これこそ、
日蓮大聖人が示された「化法」なのである。

この下種仏法で究極の法体が顕されたのである。
究極であるので、これが結論であり、それ以外は無い。

その末法の御本仏が示された化法を、
凡夫がそれ以上に垂直に降ろして「相対」する事は、
あたかも創価学会の原田会長が、化法中の化法とも言うべき
日蓮大聖人の直筆ご本尊であっても、
信仰の対象として良いか悪いかの認定力があると
言っているのと同じく可笑しな事である。

では、波田地氏が唱えているところの八重相対の後半部、

第六番目の「宗創相対」
第七番目の「池創相対」
第八番目の「師弟の道・師弟不二の道相対」は、
どう捉えるべきなのか?

与えて言うならば、開目抄で説かれる五重の相対を、
宗教の権威化に対する精神闘争史と読むこともできる。

その意味では、八重の相対も、正しい解釈を前提にした、
一つの展開と位置づけることもできるだろう。


しかしこの場合、第六番目以降は、思想や宗教同様に
教判するものではなく、結論として種脱相対で教判された
「寿量品の文の底に秘し沈めたり」を信じる者達
(日蓮大聖人を末法の本仏と信じ、題目を唱える者達)が、
それを流布するにあたって気を付けなければならない
「戒め」と考えるべきである。

この「戒め」は池田先生の思想に基づいた「戒め」として、
御本仏日蓮大聖人が示された化法、五重の相対とは別に論じる
べきである。

何故「戒め」なのかと言えば、波田地氏が唱える第六番以降に共通する点は、結局のところ立場が違えど、下種仏法を信じな
がらも、池田先生が掲げる「寛容・慈悲・対話」を主柱とする
「人間主義」とは真逆の「宗教権威に基づく特権意識」が招く
「反人間主義」に起因するからだ。

反人間主義は、下種仏法を信じる者が魔に侵された姿そのもの
であり、その顕れる形は、それぞれの立場での違いでしかない。

謂わば宗門の信徒であろうが、僧侶であろうが、
創価学会員であろうが、はたまた、創価学会大幹部であろう
が、知らず知らずに魔に侵される点では同列に見るべきであ
り、「教判相対」すべきものではないと考えるからである。


例えば、第六番目の「宗創相対」で言えば、日蓮正宗では、
僧侶が執り行わない葬式などでは故人は成仏しないなどとして
僧侶という特権階級が上で、信者は下としている「人間軽視、
差別意識」が根底にあり「反人間主義」である。

第七番目の「池創相対」では、創価学会では、池田先生への
批判を一度もして無くても、職業幹部への悪い行状の指摘や
原田会長が行なった教義解釈変更などに対し、教学的観点から
自分の意見をネットに流しただけで、その創価学会員を除名
処分や活動禁止などの処分をする事も、特権階級意識が成せる
「反寛容、反慈悲、対話拒否」であり、これらは、池田先生が
常々指導されていたことに反する行為である。

「釈尊は、すべての人を平等に敬った。相手の地位や階級で、
態度を変えることなどなかった。

新しく教団に入ろうとする人に対しても、『おいでください』
という最も丁重な言葉遣いで応じたのである。

創価学会も平等である。
日本の旧弊では、上の人にお世辞を使い、下の人には、
いばる。創価学会の精神は、その反対である。
役職が下の人にこそ最大の礼を尽くすべきである。

池田大作全集スピーチ86巻

第八十九回本部幹部会

全国婦人部幹部会 (1995年6月2日)」


しかし一方では、第八番目の「師弟の道、師弟不二の道」で
「相対」が完結しているが、
これではまるで「師弟不二の道」の人には全く魔が入らない
事になってしまうのではないか?

戸田先生の指導に基づくと、いずれの立場の人にも
魔が入り込む可能性があるのではないか?
そこの観点が欠落している。

例えば、ご自身が個人でどう思おうが自由だが、
自称,師弟不二の道を実践していると言う方が
「脱講を何百した」とか「五重の相対は間違いだから
使わない方が良い」とか「自分は池田先生の一番弟子だ」
と公言したりするのも八風に侵されていないかと
心配するところである(鬼笑)

脱講を何百、何千しても、仕事をせずに活動するのだから、
「それでどうした?」と思ってしまう。

学校もろくに出ていない一会員が、仕事を遣り繰りして
やっとの思いでひとつする脱講や本流と、どう違うのか?

もはや、魔は容赦無いのである。


話を戻し、
「教判」は高低浅深があるので、御本仏が悟りの境地の中で
独自に示された化法である五重の相対のみ。

波田地氏が唱えるところの六番目以降の考え方は、
我々転輪王の弟子たちが、法華経の行者として闘う上で、
魔に入り込まれない様に気を付けるべき「弟子戒め三箇条」
とでもして一般化し「化儀」とすれば良いので、波田地氏の
考え方自体を否定するものでは無いが、「化法」である五重
の相対とは別にすべきであると主張するものである。




京都乃鬼

 
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