「切り文」とは、御書の一部分だけを抜き出して、前後の文脈を無視して都合の良い解釈をすることだと私は理解しています。
創価新報の3面に、「御書を繙く」が連載されていますが、6月2日号では報恩抄の「
仏教をならはん者父母・師匠・国恩をわするべしや」を引用して、次のような記事が書かれていました。
「・・・さまざまな『恩』の中でも私たちにとって大切なのが、仏法者としての正しい生き方を教え、導いてくれる『師匠の恩』である。思えば、私たちが人間革命・宿命転換の正道を歩み、日々前進の確かな軌道を歩めるのも、創価の三代の師弟の闘争があったればこそである。・・・師恩に報いる不惜身命の実践こそ弟子の道と決め、勇気の行動で、最高の勝利の峰を登攀しよう。」
これなどは「切り文」の典型ですね。
この御文の後には何と書かれているか?
「仏法を習い極めんとをもはばいとまあらずば叶うべからずいとまあらんとをもはば父母・師匠・国主等に随いては叶うべからず是非につけて出離の道をわきまへざらんほどは父母・師匠等の心に随うべからず・・・しかれども外典の孝経にも父母主君に随はずして忠臣・孝人なるやうもみえたり、内典の仏経に云く「恩を棄て無為に入るは真実報恩の者なり」等云云、比干が王に随わずして賢人のなをとり悉達太子の浄飯大王に背きて三界第一の孝となりしこれなり。」(御書293ページ)
・仏法を習い極めるためには、仏道修行に時間をかけて打ち込むべきである。仏道修行をまっとうしないうちは、父母や師匠に従ってはならない。
・仏教以前でも、比干が王に従わずに結果として忠臣となった。
・釈迦は父の浄飯王に背いて出家したが、それによって三界第一の孝子になった。
簡単に言うと、このような意味になるでしょうか。
報恩抄には師匠を絶対化することなど書かれていません。
仏道を成就して師匠の誤りを正すことが真の報恩である、との考え方が説かれているのではありませんか?
学会は「師弟」を絶対化するために、御書の「切り文」を都合の良いように利用していますね。
こんなことは、大聖人の仏法を冒涜することになると思いますが・・・。

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